渚の駅たてやま
大きな水槽に魚たちがいっぱいの「海辺の広場」、館山湾が一望でき、潮風を感じながらのんびりできる「展望デッキ」など、館山湾の豊かな自然を体験できるほか、海洋民俗をテーマとした渚の博物館やさかなクンギャラリー、客船ターミナル、レストランなどの魅力あふれる海辺の施設です。



 

工事交通規制
道路で工事を行う場合に、通行者と通行車両及び、また作業員の安全を確保するために実施する規制のことです。


 

たとえば、交通誘導員の配置や作業箇所にコーンやバリケードといった規制材で囲ったりしているのを見たことがあるかと思います。


 

交通規制の中には、工事による規制以外にも、「祭礼行事での規制」や道路管理者が実施する「事前通行規制」、さらに警察が行う規制などもあります。


 

道の駅きょなん
千葉県安房郡鋸南町にある国道127号の道の駅である。愛称は見返りの里。
道の駅内にある施設
食事処「ふく丸」(11時 - 21時30分)


 

物産館「八佐丸」「マルダイ」(9時 - 17時)

きょなんまち直売所(9時 - 17時)


 

菱川師宣記念館(9時 - 16時30分)

中央公民館(8時30分 - 21時30分)

きょなん情報館 (9時 - 17時)



房総の魅力500選
昭和58年(1983)に県人口が500万人を超えたことを記念し、ふるさとの再発見をするため、5つの分野で合計500の房総の魅力を選定したものです。


 

師宣が寄進した梵鐘
梵鐘はレプリカであるものの、梵楼はそれなりに歴史を感じさせてくれそうです。
その鋸南町にとって偉大なる師宣に対する顕彰の碑が鐘楼の左手に立っています。


 

梵鐘の由来
元禄7年(1694)5月、菱川師宣は故郷保田の林海山別願院に梵鐘を寄進しました。


 

鐘銘は師宣の直筆と言われ、菱川家の家計図も刻まれており、たいへん貴重な資料でしたが、残念なことに、太平洋戦争中、金属回収令により供出させられてしまいました。


 

この梵鐘は、供出前の写真、拓本をもとに、師宣記念館会館を記念して、後裔菱川岩吉、ヨシ両氏の拠金によって復元されてものです。



 

ちなみに梵楼は、師宣の菩提寺である保田の大峯山昌竜寺に文化3年(1806)に建てられたものを移築したものです。

 

この梵鐘を寄進したわずか1ヶ月後、元禄7年6月4日、師宣は江戸で亡くなりました。



鐘銘
南無阿弥陀仏
寄進施主:菱川吉兵衛尉藤原師宣入道友竹
元禄七甲戌歳 五月吉日

西ノ宮大和守・藤原吉興作
房洲保田村 林海山別願院 時住持欣入

為三界萬霊七世父母
菱川七右衛門      家来 カメ宗心
嫡 同吉左衛門道茂居士    市助道蓮
岩崎甚左衛門法清       マツ妙仲
嫡 同徳兵衛法圓
次女ヲタマ壽栄大姉 道茂室
次男同傅左衛門法清
道茂子 アマ千代清空西影
    ヲリク妙心  ┌吉兵衛 同妻妙本
    ヲタマ    ├ヲイヌ
    友竹──子──┼ヲヘン知法
    正之助    ├妙林
    ヲカマ弐部村 └沖之丞
      正善寺室
    左次兵衛
(現地案内板説明文より)

 

↑ 見返り美人ブロンズ像 ↓


 

見返り美人ブロンズ像
「見返り美人図」を立体的に。


 

鴨川市出身の彫刻家・長谷川昂 氏の制作によるブロンズ像です。菱川師宣記念館前に建っています。


 

菱川師宣記念館
千葉県安房郡鋸南町にある美術館である。
昭和60年(1985年)3月21日、「浮世絵の祖」として知られる菱川師宣の生誕の地に開館した。


 

師宣やその門人の版画、肉筆浮世絵など作品、資料の展示、収集を目的にしており、浮世絵、町の文化財を通して房総の町の歴史などを紹介、また、特定のテーマによる浮世絵展覧会に加えて、房総生まれの江戸時代後期の石彫り師、武田石翁の展覧会、房総にかかわりのある現代作家など、年4回の企画展を実施している。



菱川 師宣(ひしかわ もろのぶ)
元和4年(1618年)元禄7年6月4日(1694年7月25日)は、江戸時代の画家、菱川派の祖。生年は寛永7年から8年(1630年〜1631年)ともいわれる。

享年64〜65あるいは77。浮世絵の確立者であり、しばしば「浮世絵の祖」と称される。

 

肉筆浮世絵 見返り美人図
代表作にして、師宣の代名詞的1図。美人画。肉筆画 (絹本 著色)。

緋色の衣裳を身につけた美人の女性が、ふと振り向く(見返る)様子を描いたもので、世界的に著名な肉筆浮世絵である。


 

女性像の人気さは、「師宣の美女こそ江戸女」と称されるほどであった。1948年(昭和23年)発行、および1991年(平成3年)発行の「切手趣味週間」、1996年(平成8年)発行の「郵便切手の歩みシリーズ・第6集」の各図案にそれぞれ採用されている。


 

現在は東京国立博物館蔵。東京国立博物館蔵。女性は、17世紀末期当時の流行であった女帯の結び方「吉弥結び(きちやむすび)」と、紅色の地に菊と桜の刺繍を施した着物を身に着けている。

それらを美しく見せる演出法として、歩みの途中で後方に視線を送る姿で描かれたものと考えられる。

 


 

同時代で年下の絵師・英一蝶は本作に刺激を受けてか対抗するかのように、構図等に類似点の多い1図「立美人図」を描いている。




文化7年(1810年)の山東京伝による箱書があることから、おそらく幕末には好事家の間で知られていた可能性が高い。また博物館に収蔵された時期も早く、60番という若い列品番号がそれを物語っている。



現代日本では昭和23年(1948年)11月29日発行の記念切手(「切手趣味週間」額面5円)の図案に採用され、これが日本の記念切手の代表的かつ高価な一点となったことも本作が大衆に周知されるに少なからず影響した。