九十九里浜は、「旭市(旧飯岡町)刑部岬(ぎょうぶみさき)から「いすみ市(旧岬町)太東岬(たいとうみさき)」のあいだ66キロメートルの海岸をいいます。


 

著名な出身者
伊能 忠敬(いのう ただたか、延享2年1月11日〈1745年2月11日〉〜文化15年4月13日〈1818年5月17日〉)


 

江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家。通称は三郎右衛門(さぶろえもん)、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。


 

寛政12年(1800年)、56歳から、文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量、73歳で死去。


 

その後は弟子たちが遺志を受け継いで「大日本沿海輿地全図」を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。1883年(明治16年)、贈正四位。


 

↑ 伊能忠敬像 東京江東区深川(富岡)八幡 ↓

 

天体観測
高橋至時の弟子とり天体観測についても教えを受けた忠敬は、観測技術や観測のための器具については重富が精通していたため、忠敬は重富を通じて観測機器を購入した。


 

さらには、江戸職人の大野弥五郎・弥三郎親子にも協力してもらい、こうしてそろえた器具で自宅に天文台を作り観測を行った。


 

取り揃えた観測機器は象限儀、圭表儀、垂揺球儀、子午儀などで、質量ともに幕府の天文台にも見劣りしなかった。


 

観測はなかなか難しく、入門から4年が経った寛政10年(1798年)の時点でもまだ至時からの信頼は得られていなかったが、忠敬は毎日観測を続けた。


 

太陽の南中を測るために外出していても昼には必ず家に戻るようにしており、また、星の観測も悪天候の日を除いて毎日行った。


 

至時と暦法の話をしていても、夕方になるとそわそわし始めて、話の途中で席を立って急いで家に帰っていた。慌てるあまり、懐中物や脇差を忘れて帰ったりもした。


 

忠敬が観測していたのは、太陽の南中以外には、緯度の測定、日食、月食、惑星食、星食などである。

また、金星の南中(子午線経過)を日本で初めて観測した記録も残っている。


 

長女の勘当と再婚
長女・イネの夫・盛右衛門は伊能家の江戸店を任されていたが、忠敬は盛右衛門に、イネとの離縁を言い渡した。この理由は定かではないが、盛右衛門が商売で何らかの不祥事を起こしたためだと伝えられている。


 

しかしイネは盛右衛門との離縁を受け入れず、夫に従った。そのため忠敬はイネを勘当した。ただし勘当した時期については、忠敬隠居後ということは分かっているが、正確には明らかになっていない。

 


 

一方忠敬は江戸に出てから、エイ(栄)という女性を妻に持った。至時は重富に宛てた手紙の中で、この女性のことを「才女と相見候。

素読を好み、四書五経の白文を、苦もなく読候由。算術も出来申候。

絵図様のもの出来申候。象限儀形の目もり抔、見事に出来申候と褒め称え、勘解由は幸せ者だと綴っている。


 

江戸で忠敬が行った天体観測についても、一人で行える内容ではないため、妻の手助けがあったのではないかと推測されている。


 

エイについては、長年にわたり謎の人物とされていたが、1995年、この人物は女流漢詩人の大崎栄(号は小窓、字は文姫)であることが明らかになった。


 

エイはのちの忠敬の第一次測量のときは佐原に預けられたが、その後は忠敬の元を離れて文人として生き、忠敬と同じ文政元年(1818年)にこの世を去っている。


 

子午線一度の距離測定
至時と重富は、寛政9年(1797年)に新たな暦「寛政暦」を完成させた。しかし至時は、この暦に満足していなかった。そして、暦をより正確なものにするためには、地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが必要だと考えていた。


 

地球の大きさは、緯度1度に相当する子午線弧長を測ることで計算できるが、当時日本で知られていた子午線1度の相当弧長は25里、30里、32里とまちまちで、どれも信用できるものではなかった。

 

忠敬は、自ら行った観測により、黒江町の自宅と至時のいる浅草の暦局の緯度の差は1分ということを知っていた。


そこで、両地点の南北の距離を正確に求めれば1度の距離を求められると思い、実際に測量を行った。


 

そしてその内容を至時に報告すると、至時からは「両地点の緯度の差は小さすぎるから正確な値は出せない」と返答された。


 

そして「正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地(現在の北海道)ぐらいまでの距離を測ればよいのではないか」と提案された。
 

本日は旅行中のため、返信やコメント出来ませんが悪しからず。