ムハンマド・アリー・パシャ
(1769年3月4日〜1849年8月2日)
オスマン帝国の属州エジプトの支配者で、ムハンマド・アリー朝の初代ワーリー(在位:1805年5月17日〜1848年3月2日)。メフメト・アリー(トルコ語: Mehmet Ali)ともいう。
ワーリー
イスラム世界(イスラム帝国やオスマン帝国を含むで、知事に類する地方行政区画の首長を指す肩書)。

ワーリーが統治する区画は普通は「ウィラーヤ」と呼ばれ、オスマン帝国の場合は「ヴィライェト」と呼ばれていた。
アラブやイスラム文化の影響を受けた一部の国では現在も使用されている。

エジプト・シリア戦役においてオスマン帝国がエジプトへ派遣した300人の部隊の副隊長から頭角を現し、熾烈な権力闘争を制してエジプト総督に就任。

国内の支配基盤を固めつつ、近代性と強権性を併せもった富国強兵策を推し進め、アラビア半島やスーダンに勢力を伸ばし、遂にはオスマン帝国からシリアを奪うに至る。

最終的に、勢力伸長を危険視したイギリスの介入によりその富国強兵策は頓挫したが、エジプトのオスマン帝国からの事実上の独立を達成し、その後のエジプト発展の基礎を築いた。
近代エジプトの父、エル・キビール(大王)と呼ばれ、崩御後もエジプトの強さと先進性の象徴であり続けている。

生涯 生い立ち
カヴァラ
当時オスマン帝国領であったカヴァラ(帝国の欧州側・バルカン半島のマケドニア地方東部の港町。現ギリシャ領テッサロニキ近郊)に生まれる。

ミフラーブ
メッカの方角(この方角をキブラという)に向けて、壁にミフラーブ( miḥrāb)と呼ばれる窪みがある。

これは、「コーラン」の規程に従ってメッカの方向に対して行わる礼拝の方向をモスクに集う人々に指し示すためのもので、礼拝の場であるモスクに必須の設備である。

生年については諸説あるが、ムハンマド・アリー自身は1769年生まれと称し、「私はアレクサンダーの故郷で、ナポレオンと同じ年に生まれた」と語ることを好んだと言われている。

民族的な出自はアルバニア系ともトルコ系ともイラン系ともクルド系とも言われるが、アルバニア系とする見解が主流である。いずれにしても欧州出身ということになる。
父のイブラーヒーム・アーガーは街道の警備を担当する非正規部隊の司令官で、母のハドラはカヴァラ市長官の親戚であった。

幼い頃に父を失ったムハンマド・アリーは市長官のもとに預けられて成長し、18歳のとき市長官の親戚の女性と結婚して父の職を引き継いだ。
前半生は多分に伝説的で、ムハンマド・アリーがこの時期の自分自身について言及することはなかった。

岩永博によると、「比類ない出世を遂げた偉大な君主の、後身に釣り合わない青年時代の身分の卑しさを修飾する捏造」が疑われる言い伝えも存在する。



