象形文字
ものの形をかたどって描かれた文字からなる文字体系で、絵文字からの発展によって生まれたと考えられている。
絵文字と象形文字との最大の違いは、文字が単語に結びつくか否かにある。

絵文字が文字と語の結びつきを欲せず、その物を必要としたものであるのに対し、象形文字は文が語に分析され、その語と文字とが一対の対応をなす表語文字の一種のことをいう。

象形文字では、文字はもっぱらそのかたどったものの意味を担うが、一般に表語文字では、それぞれの文字が具体的な事物にとどまらず語や形態素を表すことが多い。

しかし、漢字における仮借、ヒエログリフなどでの表音的使用など必ずしも象形文字の特徴と一致するわけではないものもまとめて象形文字と呼ぶことが多い。

このような意味での象形文字としては、漢字、ヒエログリフ、楔形文字、インダス文字、トンパ文字などがある。

マヤ文字もこの一種であって頭字体と幾何体がある。暦の文字には、1を表す点(・)と5を表す横棒(-)の代わりに頭字体や幾何体を用いることがある。

日本においては、琉球王国時代の与那国島で使われていた帳簿記録用字であるカイダ文字などがある。

おそらく最も有名なファラオのひとりであろう、少年王ツタンカーメン名前からです。
見慣れない枠で囲まれていますが、これは王族の名を囲って示すカルトゥーシュ(cartouche)と呼ばれるものです。
カルトゥーシュはフランス語で「薬莢(やっきょう)」の意味で、その形が似ていることから名付けられました。

そして最後の文字が、今回出てきた三子音文字のꜥnḫとなります。さて、この表記を見て、何かお気づきでしょうか。
文字を読むだけであれば簡単なのですが、そのまま左から右に読むと、アメン・トゥト・アンクとなってしまいます。慣読のようにトゥト・アンク・アメンとは読めません。
神名は尊いものであるため、読む順番が後ろでも先頭に書かれるという原則(honorific transposition)があるからです。
本来アメンが一番後ろにあったのですが、神名であるために文字上では最初に置かれています。
トゥト・アンク・アメンという名前は、トゥト(似姿)、アンク(生ける)、アメン(アメン神)という3つの語から作られています。
エジプト語は後ろから前に修飾していく語順を持つため、「アメン神の生ける似姿」という意味になることが分かります。

ヒエログリフ(Hieroglyph、聖刻文字、神聖文字とも)は、ヒエラティック、デモティックと並んで古代エジプトで使われた3種のエジプト文字のうちの1つ。
エジプトの遺跡に多く記されており、紀元後4世紀頃までは読み手がいたと考えられているが、その後読み方は忘れ去られてしまった。
しかし、19世紀、フランスのシャンポリオンのロゼッタ・ストーン解読以降、読むことが可能になった。

一般には古代エジプトの象形文字あるいはその書体を指すが、広義にはアナトリア・ヒエログリフ(Anatolian hieroglyphs、ヒエログリフ・ルウィ語の象形文字)、
クレタ・ヒエログリフ(Cretan hieroglyphs、Eteocypriot languageの象形文字)、
マヤ・ヒエログリフ( Mayan hieroglyphs、マヤ語の象形文字)、
ミクマク・ヒエログリフ(Mi'kmaq hieroglyphs、ミクマク語の象形文字)など、他の象形文字に対しても用いられることがある。

名称
ギリシア語の ἱερογλυφικά(古代ギリシア語ラテン翻字: hieroglyphiká, ヒエログリュフィカ)に由来する。
これは、ἱερός(hierós, ヒエロス。「聖なる」)+γλύφω(glýphō, グリフォ。「彫る」)を意味する。古代エジプト遺跡で主に碑銘に用いられていたのでこう呼ばれた。

歴史
文字の歴史
ヒエログリフがいつ頃使われ始めたかについてはまだ解明されていない。エジプト原始王朝時代以前の紀元前4000年のGerzeh cultureの壷に描かれたシンボルがヒエログリフに似ていることが知られている。

紀元前3200年頃、上エジプトにあったen:Nekhenの遺構から1890年に出土したナルメルのパレットの文字を最古のヒエログリフとする見解が長い間一般的であった。
紀元前3000年頃にはヒエログリフとヒエラティックが使い分けられていた。
ヒエログリフは神聖なものとされ、神や、それと同等であるとされたファラオを称える石碑や神殿、墓などに刻まれた。神聖文字とも言われる。

一方、パピルスへ手書きするときにはヒエラティック(神官文字)が使われる。
この当時、文字というものはその王朝の文化や学問がいかに発展しているかを示す象徴であった。
古代エジプトでは、こうした背景からヒエログリフは特に重要視され、学習するものはごく限られた高い経歴をもつ者に限られた。

エジプト中王国時代(紀元前2040年-紀元前1782年)にヒエログリフの改革が行われ、使用する文字の数を750程度に抑え、単語の綴りも一定化された。
当時、古代エジプト語は中エジプト語に移行した時期で、古エジプト語よりも細かいニュアンスを表現出来る文章語としての完成度が求められたことも要因として上げられる。

この改革は、同時代の古代オリエント世界において楔形文字でも使用する文字数を減らす改革と、起こった時期が一致している。
末期王朝時代のエジプト第26王朝(紀元前650年)頃にはヒエラティックの簡略化が進み、草書体とも言うべきデモティック(民衆文字)となった。
解読の歴史
中世を通じてもヒエログリフは多くの人々の関心を惹き付けていた。近代に入ると多くの学者達がヒエログリフの解読に挑んだ。
特に有名なのは16世紀のヨハンネス・ゴロピウス・ベカヌスと17世紀のアタナシウス・キルヒャーであるが、解読に失敗したり、全く根拠のない独自の解釈に終わった。
初めて解読に成功したのは19世紀のフランス人学者ジャン=フランソワ・シャンポリオンであり、彼はキルヒャーの収集した資料を研究し、ロゼッタ・ストーンの解読を行うことで読み方を解明した。
これが突破口になり、その後も研究が進んだため、現代ではヒエログリフは比較的簡単に読むことができる。



