下駄を履いて乗る「駒下駄乗り」
駒下駄乗り
「駒下駄(こまげた)乗り」は読んで字の如く駒下駄をはいて角材に乗る。下駄の歯がうまく角材にかからないと回転しない。



 

駒下駄は二本歯の代表的な形。
花街・芳町の粋な芸者さん達が履いていた幅の狭い女性用の駒下駄は芳町下駄とも呼びます。



 

↑ 駒下駄の画像はウェブサイトから拝借 ↓

 

履いたことのない方は「歩きづらいのでは?」と心配されますが、履いてみると意外と大丈夫!二本の歯があることで重心が正しい位置に保たれ、背筋がすいっと伸びる心地がします。

なにより軽いので、カランコロンと軽快に歩くことが出来ます。




もっとも古くからある二本歯の駒下駄、前歯が斜めになっている千両下駄は、浮世絵にも描かれているとおり、江戸時代からほとんど形が変わっていません。

昭和にはいって登場した右近下駄は‘流線型’とも呼ばれたそうです。
右近下駄
小判型で台にカーブをつけた、比較的新しい形。

 

 

裏面にゴムが付いているので滑りづらく、初心者でも抵抗なく履けます。浴衣とセットで売っている大量生産はこの形がほとんど。

女性物では、台の高さがある”高右近下駄”もあります。

「駒下駄乗り」がうまくこなせると「高下駄乗り」に移る。高下駄乗りは下駄の歯が高いだけにそれだけ難かしくなる。



 

下駄
一般的には、鼻緒があり底部に歯を有する日本の伝統的な履物。足を乗せる木板に「歯」と呼ばれる接地用の突起部を付け「眼」と呼ぶ孔を3つ穿って鼻緒を通したもので、足の親指と人差し指の間に鼻緒を挟んで履く。ただし、板下駄のように歯のない下駄もある。



 

↑ 駒下駄乗り ↓

 

 

歴史と呼称
履物の下駄の起源は田下駄であるとする説がある。
田などで使用されたと考えられるこのような道具は、紀元前3,000年前の中国浙江省寧波市の慈湖遺跡からも出土している(ただし慈湖遺跡の出土品は歯のない板状のもの)。




足の保護や水田・湿地での沈み込みを防ぐため使われたとみられる道具は、日本では弥生時代の登呂遺跡(静岡県)からも出土しており、同様の履物は20世紀まで使われ続けた地域がある。



農具ではない履物としての下駄は5世紀の桓武山ノ花遺跡(静岡県浜松市)や鴨田遺跡(滋賀県長浜市)から出土しているが、鼻緒の素材にどのようなものを使っていたかは不明である。


 

室町時代から江戸時代にかけて支配者層を中心に下駄が使われるようになったが、庶民一般の履物となったのは江戸時代後半で地域も江戸や大坂などに限られていた。
 

 

かつては普段着の洋装に下駄を履く場合もあり、男子学生がファッションとして崩れた洋服(学生服)などに下駄を履いていることをバンカラと呼んだ。


 

↑ 素足と違って難しい ↓

 

日本で下駄が最も普及していたのは機械化による大量生産が進んだ昭和30年代頃とされている。
 

 

1940年代からゴム製の履き物が登場し売り上げが落ち始め、戦後のアメリカナイゼーションやモータリゼーション等で廃れたが、1960年代までは洋服に下駄履きで遊ぶ男児は珍しくなかった。


 

↑ 再チャレンジ ↓

 

呼び名の成立は戦国時代と推測される。それ以前は「足下(あしした)」を意味する「アシダ」と呼称され、漢字は「足駄」など様々な字があてられていた。

 

「アシダ」は上履き・下履きを問わなかったが、これを下履きに限定した語が「下駄」である(「駄」はアシダの略)。



海外では、木版を使う下駄にあたる履物が古代エジプトや中東アジア・一部ヨーロッパでも使用されていた。


 

東南アジア・東アジアでは、稲作を行う南方地域で広く使用されており、鼻緒のある下駄は日本や中国南部の一部少数民族、東南アジアで使用されてきた。



 

↑ 再チャレンジも敢え無くドボン ↓

 

田下駄のように大きめの板に通した紐に、足を引っ掛けて履いたもので、後に発達する「下駄」のルーツと同様の系譜と考えられている。

 


 

中国北部や朝鮮半島では下駄の使用が元々一般的でなく現在は使用されていない。