狭間(さま)とは
おもに日本の城の天守や櫓の壁面、塀などに開けてある防御用の穴や窓のこと。

 

銃眼、砲門とも。内側から外側に向かって円形・三角形・正角形・長方形などの穴が開けられており、戦闘の際はそこから弓矢や鉄砲などで攻撃した。
 


 

↑ 銅門(あかがねもん)と狭間(さま) ↓

 

 

形状
利用する武器で分類した場合は、矢狭間・鉄砲狭間・大砲狭間などと呼ばれ、弓矢ならば縦長の長方形、鉄砲ならば円形・三角形・正方形というように、武器に適した形状に開けている。

 

窓の形で分類した場合は、丸狭間・菱形狭間・将棋駒形狭間・亀甲形狭間・絵馬形狭間・鎬狭間・箱狭間などと呼ばれた。



この他、岡山城、大坂城にある塀の下の石垣の天端石に切込みを入れてあけられた石狭間や、今治城にあった石火矢(大砲)狭間のように武器に合わせて窓を大きくしているものある。
 


 

同じ城、同じ壁面であっても円形・三角形・正方形の狭間が混在しており、一説には仏教上の意味合いから神仏のご利益を得ようとした、形によって使用する部隊を分け効率的な部隊運用を図ったなどとする説が唱えられているがいずれも根拠資料が発見されておらず、現在でもその理由は解明されていない。

 

 

諸工夫(戦法)
姫路城や彦根城の城壁には敵が近付くまで狭間としての役割を隠す「隠し狭間」と呼ばれる鉄砲狭間があり、普段は漆喰によって窓が塞がれており、一見すると外からは壁にしか見えないようにカモフラージュされているが、敵が攻めてきた際は漆喰を内側から突き破って建物内から攻撃することができる。

 

 

 

より死角を減らすために
狭間のある塀を屏風折りにして横矢掛かりにする。

下方向の死角を減らすため石落としを設置する。

大手門など重要な門では、門周囲の塀をコの字、またはL字に囲み枡形にして、敵を三方、または十字方向から迎え撃てるようにする。

など、設置の仕方を工夫しているものもある。江戸城や大坂城などの枡形門、高知城の追手門の塀の狭間の配置など多くの例があり、長い路地の場合、左右の塀の狭間から挟撃も可能。



狭間は多くの場合、外側(城外)にいる敵を狙う小窓であるが、例外として、姫路城の大天守内部には、敵が侵入した際、隠れ部屋の壁から狙う狭間があり、いわゆる城の外側を狙うのではなく、部屋内の敵を狙うものであり、籠城戦が崩れた後の想定、すなわち最後の最後の抵抗目的で造られたものもある。

城内に侵入した敵の油断(狭間は城外を狙うもので建物内にはないとの思い込み)をつく狭間である。

 

 

 

住吉橋
小田原城のうち、江戸時代に整備された二の丸と馬屋曲輪・御茶壺曲輪の間の住吉濠に架かる。


 

史料に初めて現れるのは1644年~1645年頃に記されたと考えられる小田原城絵図「正保図」で、当初は木橋であった。


 

↑ 住吉橋 ↓

 

その後1672年(寛文12年)に石垣のかさ上げが行われ、1703年(元禄16年、元禄地震)・1843年(天保14年)・1853年(嘉永6年、嘉永小田原地震)には地震に見舞われており、修理あるいは架け替えが行われたと考えられる。

 

 

 

宮内庁に保管されている、1703年の地震前に記された「小田原城絵図」には、「幅2間、長さ4間4尺5寸、4本の柱と笠木・平桁・地覆からなる欄干がある」旨が記されている。