小田原城常盤木門(ときわぎもん)
小田原城本丸には常盤木門、鉄門の2つの城門がありました。

 

 

このうち常盤木門は本丸の正門にあたり、重要な防御拠点であったために、他の門と比べても大きく、堅固に造られていました。多聞櫓と渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていました。


 

本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが分かります。


 

元禄16年(1703年)の大地震で崩壊した後、宝永3年(1706年)に、多聞櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1706年)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれています。


 

常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って、常盤木門と名付けられたといわれています。


 

現在の常盤木門は、市制30周年事業として再建したもので、昭和46年(1971年)3月に完成しました。


 

小田原城と小田原合戦攻防図
小田原合戦
戦国時代、天下統一の動きは、織田信長から羽柴秀吉(豊臣秀吉)に受け継がれ、九州を平定した秀吉は、関東の北条氏を従わせようとしていました。


 

秀吉が小田原を攻めるきっかけとなったのは、真田氏の領地である上野(群馬県)・名胡桃城をめぐる事件でした。


 

秀吉はかねてから北条氏の上洛を促していましたが、北条氏は上野・沼田領問題が解決していないことを理由に応じませんでした。


 

そこで、秀吉は沼田の3分の2を北条氏に、名胡桃城を含む3分の1を真田氏とする裁定を下し、氏政・氏直父子のどちらかの上洛を約束させました。


 

しかし、これが果たされないうちに、北条氏側の武将が名胡桃城を攻撃したため、秀吉は北条氏に対して宣戦布告を行ったのでした。


「北条事、近年公儀を蔑み上洛する能わず殊に関東において雅意にまかせ狼藉の条、是非に及ばず。」




秀吉は激しい調子の宣戦布告状を氏直に送り、天正18年(1590)3月、全国の諸将率いる約18万の大軍で陸海から小田原攻めを開始しました。


これに対し北条氏は、約5万の兵を置き籠城戦法で対抗しました。秀吉は、早川の石垣山に城を築き長期戦に備えましたが、7月5日ついに氏直は降伏し、7月9日に城が明け渡されました。


 
 

この小田原合戦において秀吉は、千利休に命じて江之浦の大野五郎兵衛の屋敷内に数寄屋を造らせ茶の湯を点てるなど武将らの労をねぎらい、この数寄屋は後に天正庵と言われるようになったと伝承されています。


 

この戦いの責任をとり、城主氏直の父4代北条氏政とその弟の八王子城主氏照は切腹させられ、徳川家康と外戚関係にあった氏直は高野山(和歌山県)に追放されました。