ラーメン
中華麺とスープを主とし、様々な具としてチャーシュー・メンマ・味付け玉子・刻み葱・海苔・鳴門巻きなど様々な具材を加えた麺料理である。

漢字表記は拉麺または老麺。太平洋戦争前は支那そば、南京そばなどと呼称される料理であったが、戦後、中国を指す際に支那の呼称を避ける旨の申し送りが発出されたことを契機としてそれらの呼称は減り、中華そば、ラーメンの呼称が一般化した(呼称の変遷)。


 

↑ ラーメン()左  うどん気(中)  素麺(右) ↓

 

日本では、幕末から明治時代にかけて開国に連れて港に出現した中華街(南京街)で中華料理店が開店し、大正時代頃から各地に広まっていった。

20世紀後半からインスタントラーメンが世界各国に広がり、21世紀からは日本の大手ラーメンチェーン店が世界各国に店舗を展開している。

ラーメン専門店や中華料理店で料理が提供され、「〇〇(地域名や味名)ラーメン」とも称され、札幌や博多など様々な地域、それぞれの店舗ごとに独特の進化、アレンジが見られる。

分類としては、オムライスやナポリタンといった洋食と同様に、日本でアレンジが加えられた中華料理である日本式中華料理の一種であり、和食や洋食とは別のカテゴリーである。



 

うどん
日本の麺のひとつ。小麦粉を練って長く切った、ある程度の幅と太さを持つ。またはその料理である。饂飩とも書く。

細い物などは「冷麦」「素麺」と分けて称することが一般的ではあるが、乾麺に関して太さによる規定がある以外は厳密な規定はない。

細い麺であっても「稲庭うどん」の例も存在し、厚みの薄い麺も基準を満たせば、乾麺については「きしめん、ひもかわ」も含まれる。

主に関西で好まれ、蕎麦が好まれる関東ではあまり好まれないとされるが、蕎麦=東日本、うどん=西日本とするのは正しくない。

江戸時代前期の江戸の市中においては、麺類としての蕎麦(蕎麦切り)が普及しておらず、蕎麦がきなどの形で食べられていた。

蕎麦切りの元祖は信州そばであり、蕎麦切りの最古の記録は、天正2年(1574年)に木曽の定勝寺で落成祝いに蕎麦切りを振る舞ったというものである。

これが信州から甲州街道や中山道を通して江戸に伝えられたものとされる。蕎麦切りが普及したのは、蕎麦と蕎麦屋が独自の文化を育む母体となっていったこと、脚気防止のために冷害にも強い蕎麦が好まれたからである。



 

素麺
小麦粉を原料とした日本を含む東アジアの麺のひとつ。主に乾麺として流通するため、市場で通年入手できるが、冷やして食することが多く、清涼感を求めて夏の麺料理として食するのが一般的である。

素麺は日本国内では奈良県桜井市が発祥の地とされており、奈良時代に唐から伝来した唐菓子の1つ、索餅(和名で「麦縄」とも書く事もある)に由来するとする説が広まっている。

日本では天武天皇の孫、長屋王邸宅跡(奈良市)から出土した木簡が最も古い「索餅」の記録となっている。

原形はもち米と小麦粉を細長く練り2本を索状によりあわせて油で揚げたもので、現在の油条に似たものと考えられる。

唐菓子の索餅は神饌として現在でも用いられており、素麺の原形を知る手がかりとなる。


索餅の材料・分量・道具については平安時代中期の『延喜式』に書かれており、小麦粉と米粉に塩を加えて作る麺(米粉は混ぜないという説もある)という事は分かっているが、形状については不明であり現在の素麺やうどんよりもかなり太く、ちぎって食べたのではないかとする説が有力的である。


 

祇園社の南北朝時代の記録である『祇園執行日記』の康永2年7月7日(1343年7月28日)の条に、麺類を指す言葉として索餅(さくべい)、索麺・素麺(そうめん)と3つの表記があり、これが「そうめん」という言葉の文献上の初出とされている。

平安時代には七夕に索餅を食べると病(マラリア性の熱病)にかからないという中国の故事に倣って、宮廷での七夕行事に索餅が取り入れられていた。


 

薯蕷芋(とろろいも)
薯蕷芋のひとつである「やまと芋」の一大産地である 群馬県。そのなかでも水はけがよく、肥沃な土壌が広がる太田市尾島地区で盛んに栽培されています。

群馬県のやまと芋の生産量は平成23年野菜生産出荷統計によると全国4位。またそのうちの85%以上は太田市尾島地区で生産されているのだそう。

収穫期は11月~3月頃で、品質を保つために夜明け前から作業を開始して、農家が1本づつ丁寧に掘り出して収穫します。

太田市尾島地区で栽培されるやまと芋は、すりおろしたとろろが箸でつまめるほどの粘りとコクがあり評判がよいと言います。やまと芋は長期保存も可能なため、贈答用としても人気があるのだとか。



 

サラダポテト
ポテトサラダは、茹でたジャガイモを主材料としたサラダのことである。ポテサラと略される場合もあるが「ポテサラ」はケンコーマヨネーズの登録商標である。

日本では、茹でてつぶしたジャガイモに野菜やハムなどの具材を合わせ、マヨネーズであえた料理を指すのが一般的である。

カットしたジャガイモにマヨネーズやサワークリームで和えたポテトサラダは、フィンランドやアメリカにもみられるが、ジャガイモを潰したものは日本以外では少ない[3]。

日本は米食文化であるにもかかわらず、ポテトサラダが広く普及しているが、これには日本で生産されるマヨネーズ製品がコクとうま味が強い卵黄タイプのマヨネーズであるためではないかと言われている(日本以外のマヨネーズ製品は全卵タイプが主流)。

マヨネーズには酢が欠かせないが、適度な酢の酸味は食の対比効果によってジャガイモの甘味を引き立てると共に重くなりがちな後味を引き締める効果がある。

日本のポテトサラダの歴史
日本にジャガイモが伝来したのは、サツマイモと同時期の江戸時代初期であるが、サツマイモが寛政年間にレシピ本『甘藷百珍』の出版があるように親しまれていたのと対照に、ジャガイモには窮乏食のイメージが強かった。

ジャガイモは米を節約するための食材であり、こと和食の分野では長らくジャガイモを用いたまもとな料理は無かった。

1970年代になって肉じゃがが和風料理、家庭料理の代表格としてジャガイモ料理の地位向上に貢献した。

一方、明治以降に日本に入ってきた西洋料理の料理本によって、さまざまなジャガイモ料理が紹介されることになるのだが、当初は日本風にはアレンジされず、スライスしたジャガイモにヴィネグレットソースをかけけたもの、ボイルドドレッシングやサラダクリームと和えたものが紹介されている。

ポテトサラダについていえば、明治29年発行の『西洋料理法』には、ジャガイモをゆでて薄切りにしてレタスの葉を混ぜてドレッシングを添えるポテトサラダが記載されているし、明治43年発行の『西洋料理教科書』には薄切りにしたゆでジャガイモにスライスしたタマネギを乗せ、芥子を加えたドレッシングで和えたポテトサラダが記載されている。

マヨネーズを用いたポテトサラダは、大正時代に帝国ホテルで考案され、日本のポテトサラダは徐々にドレッシングだけのものから、ドレッシングとマヨネーズを両方使ったもの、マヨネーズのみを使ったものへとなっていった。

昭和初期にはマヨネーズを用いたポテトサラダが一般的になり、1960年代になるとマヨネーズが普及したことにより、ポテトサラダも急速に普及することになった。


 

ピリ辛山クラゲ
ステムレタスは中国原産の、キク科アキノノゲシ属チシャの一品種で、野菜として利用される。

乾燥させたものは山クラゲと呼ばれる。さまざまな呼び名があり、茎レタス 、アスパラガスレタス、茎チシャ[3]、チシャトウ、貢菜、皇帝菜などとも呼ばれる。



 

寒い地方では春にタネをまき夏に収穫するが、暖かい地方ではさらに秋ごろにタネをまいて冬に収穫することも可能[1][3]。茎の太さは3〜5センチメートル、長さは30センチメートルほどに育つ。


 

葉の部分も食べられるが、基本的に茎の部分を食す。茎を細く裂いて乾物としたものが山クラゲと呼ばれ、調理の際は、水でもどしてから利用する。

歯ごたえがクラゲに似ていることから山クラゲと呼ばれるようになった。山クラゲは炒め物、和え物、煮物または漬物などに利用され、乾燥していない収穫すぐのものも葉はサラダに、湯通しした茎はサラダや炒め物の食材として用いることができる。

日本における生産量はそれほど多くなく、山クラゲの漬物などはほぼ中国産を輸入したものであると言われる。

 


 

お知らせ
只今パソコンに不具合が生じ「ブログの更新・あなた様への訪問返信」が出来ない場合がございます。下記の表示か頻繫に出て、自動的にシャットダウンされ編集中のものが白紙になってしまいます。ご理解下さいますようお願い申し上げます