平地式住居
遺跡周辺は、地面を掘るとすぐに水が染みだしてくる土地のため、地面を掘って床や壁をつくる「竪穴式住居」を建てる場所としては不向きでした。


 

↑ 登呂遺跡への橋 平地式住居 ↓

 

そのため登呂遺跡では、床を地面と同じ高さにして、周りにドーナッツのような盛土で壁をつくり、さらに住居の外周に排水溝を掘りめぐらせて水の侵入を防ぐ「平地式住居」がつくられました。 




遺跡内には、現在までに19棟以上の住居があったことが分かっています。


 

↑ 登呂遺跡1号住宅 ↓

 


↑ 盛土 ↓



↑ 盛土の様子と説明 ↓


 

↑ 平地式住居 ↓

 

地域や時期によって形や大きさが異なりますが、一般的には方形や円形で、4本から7本の柱を持ち、10畳ほどの広さでした。

 

 

↑ 出入口 ↓

 

多くは南側に入り口があり、中央や一方に囲炉裏がありました。

 

囲炉裏は、食事の調理や暖房、照明などに使われました。竪穴住居は、夏は涼しく冬は暖かいという利点がありました。

 


火棚(ひだな)
囲炉裏の上に、格子状の大きな火棚があります。四隅を縄で縛って天井上の梁から吊るし、固定している。



 

その面積は囲炉裏より一回り大きく、囲炉裏を覆うように設置されています。

もともとは火の粉が舞い上がって茅葺き屋根に燃え移らないように工夫されたもの。


 

火事の防止だけでなく、上昇気流をせき止めて囲炉裏の周囲に拡散させる働きもあったようです。


 

本来の役目は、暖房、照明、乾燥、食物の煮炊き、煙による薫蒸と防虫です。直火・灰で食物を焼き、「自在鉤」に架けた鍋、鉄瓶で煮炊きしました。


 

「火棚」は、穀物の乾燥、薫蒸、保管設備で、飢饉に備えた穀物を百年も乗せていた例があります。


 

平地式住居

地面を掘り込んで床面を地表面より低い位置に設ける竪穴建物(竪穴住居)や、掘立柱建物の中で地表面より高い位置に床面を構築する高床建物と区別する用語として使われる。


 

床面の高さが地表平面にあることを基準とする呼称であるため、掘立柱建物や土台建物・礎石建物も(高床構造のものを除き)広義の「平地建物」に含まれる。


 

平地式建物とも言うが、今日の日本考古学界では「高床式倉庫(建物)」や「竪穴式住居(建物)」と呼ばれていたものが「高床倉庫(建物)」「竪穴住居(建物)」となるのと同様に「式」を付けた呼び方はあまり用いられなくなっている。


 

日本の考古学において、平地建物・竪穴建物・高床建物という用語は、その建物の床面が地表面より低いもの(竪穴建物)、地表面と同じか僅かに盛土した程度の高さを床面とするもの(平地建物)、掘立柱に床板を乗せ、床面を地表面より高く浮かせたもの(高床建物)という、床面の「高さ」を基準とした分類名である。


 

このため、地面に主柱となる掘立柱を立てて上屋を支える建物を示す「掘立柱建物」は、存在した当時に床面が地表面にあったものは「平地建物」となり、高床であれば「高床建物」となる。


 

↑ 囲炉裏 ↓

 

 

このため文化庁は、検出された遺構を列挙する際に「掘立柱建物と平地建物」や「壁建ち建物と平地建物」などと記述するのは、分類基準の異なる建物名を別物のように並置的に記述しており「意味をなさない」ため、これらの分類基準を考慮した記述が求められると指摘している。


 

↑ 登呂遺跡1号住宅出入口 ↓

 

 

登呂遺跡住居の屋根素材
茅葺きである。

屋根材により茅葺(かやぶき)は藁葺(わらぶき)や草葺(くさぶき)と区別する場合がある。

「茅」とは、ススキやヨシ(アシ)など古来有用とされてきた草本の総称である。

茅葺は世界各地で最も原初的な屋根とされ、日本でも、定住化が始まった縄文時代・弥生時代から平安時代にかけての遺跡で検出される竪穴建物や平地建物、高床建物、竪穴状平地建物(登呂遺跡など)などの屋根は、茅葺きであったと推定されている。


 

縄文時代の家は直径8.4mと大型の円形住居で、壁を持たず地面に屋根が葺き下ろされる入母屋造りの屋根である。

垂木や木舞(垂木の上に横に渡した細長い材)にはクヌギやコナラなどの広葉樹の枝が用いられ、太い材の結束には藤ツルを、細い材には麻紐を用いているという。