本土寺(ほんどじ)
千葉県松戸市平賀字長谷にある、日蓮宗の本山。山号は長谷山。塔頭が一院ある(佛持院)。



 

約1500本のモミジが境内を彩る
水戸光圀の寄進と伝えられる古松、老杉の参道を抜け仁王門をくぐると、鮮やかな赤に染まる約1500本ものモミジが境内を彩る。



 

また、五重塔や仁王門、回廊といった建造物と紅葉が織りなす風情ある景観から、多くの参拝者が訪れる。


 

本土寺は別名 「あじさい寺」 といわれ、初夏には紫陽花や花菖蒲の名所として有名です。
秋には鮮やかな赤黄に染まったたくさんのモミジが境内を彩り、訪れる人々を魅了します。


 

見頃は11月下旬~12月上旬ごろ。「山紅葉(やまもみじ)」「大盃(おおさかずき)」、関東の気候に合うように品種改良された「秋山紅(しゅうざんこう)」という3種類のもみじ、約1,500本が鮮やかな赤黄に染まり、五重塔や回廊の美しさとあいまって風情ある景色を堪能することができます。




徳川家康の側室・秋山夫人の墓近くにあることからその名がついた自生のシュウザンコウなどが観賞できる。




概要
本土寺は、池上の長栄山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺とともに「朗門の三長三本」(さんちょうさんぼん)(新潟県三条市の長久山本成寺を含めて四長四本ということもある)と称されている。



 

「朗門」とは日蓮の弟子日朗の門流という意味であり、「三長三本」とは、上記3か寺の山号寺号にいずれも「長」「本」の字が含まれることによる。



 

境内には茶室も整備され、1000本のカエデ・5000株のハナショウブ・10000株のアジサイの名所として人気を集め「あじさい寺」として親しまれている。本土寺過去帳は、歴史を語る重要な資料である。




現住は65世宮崎日純貫首(流山市成顕寺より晋山)。奠師法縁(奠統会)。


 

歴史
本土寺は元々日朗・日像ら日蓮門人を輩出した平賀忠晴の屋敷跡と伝えられ、後に日蓮の支援者であった千葉氏家臣曽谷教信が法華堂を建立したとされている。

 

↑ 本堂右側に徳川家康の側室・秋山夫人の墓(中央の墓所)渡り廊下から見える ↓


 

後に日朗が本土寺として開堂供養した(実質的な開山は、日朗門人の日伝であったとする説もある)。

 

 

『平賀本土寺史要』によると、文永6年(1269年)、日蓮に帰依した蔭山土佐守が「小金の狩野の松原」の地に法華堂を建てたのが本土寺の起源という。


 

建治3年(1277年)曽谷教信(胤直)が平賀郷鼻輪に法華堂を移し、日蓮の弟子日朗が開堂供養した。


 

日蓮の直弟子である日朗・その異母弟にあたる日像(四条門流の祖)・日輪(池上本門寺・鎌倉妙本寺3世)は平賀氏の出身で、平賀郷はこれら日蓮宗の祖師ゆかりの地であった。


 

延慶2年(1309年)、曽谷教信の娘・芝崎(千葉胤貞の妻)より土地の寄進を受け寺が整備された。


 

芝崎夫人は夫の胤貞の死後出家し日貞尼とも称される。延文3年(1358年)、台風により本堂が倒壊するがその後再建された。


 

貞治4年(1365年)、山号を北谷山から長谷山に改称したとされる。


 

曽谷教信の曾孫にあたる8世日福は、嘉吉元年(1441年)に現在地に本堂を移し、鎌倉妙本寺の日寿を招いて開堂供養を行った。宝徳4年(1452年)、火災により本堂が焼失。


 

9世日意・10世日瑞は火災で焼失した本堂再建のための勧進事業をきっかけに布教を行い、地元の高城氏やその同族の原氏の支援を受けて寺を整備した。


 

日瑞の時には本土寺に現存する建治4年(1278年)在銘の梵鐘を得た。
この梵鐘は印東荘(現・佐倉市六崎)の大福寺(廃寺)にあったもので、鐘に刻まれた追銘によれば檀那の設楽助太郎によって文明14年(1482年)に寄進されたものである。


 

高城氏が小田原征伐で改易されると、徳川家康の5男で甲斐の穴山武田氏を継承した武田信吉が母の秋山夫人(家康の側室、於都摩)とともに小金城に封じられたが、間もなく天正19年(1591年)夫人が亡くなったために15世日悟がこれを厚く葬り、家康も朱印地10石を与えた。


 

本土寺は元々不受不施派の影響が強く、寛永7年(1630年)の身池対論でも18世日弘が参加している。


 

ところが、江戸幕府が不受不施派弾圧の方針を取ったために、日弘は伊豆に流され、続いて21世日述も伊予国に配流された。

 

その結果、寛文5年(1665年)に受不施派の久遠寺の支配下に組み込まれることになった。


その後派遣された22世日令の元で受不施派寺院としての改革が行われた。日令の貞享元年(1684年)に前述の秋山夫人の甥にあたる徳川光圀の申し出により秋山夫人の墓が本堂脇に移されて参道の整備と寺領20石6斗の寄進が行われている。
 

 

その後、享保20年(1735年)から安政2年(1855年)にかけて江戸浅草にあった末寺の本法寺での5度にわたる出開帳によって、寺の名は江戸でも知られるようになった。安政3年(1856年)には末寺4院6坊75寺を数えた。