南原千畳岩海岸
波が豪快に砕け散る! 溶岩がつくり出した島随一の絶景スポット。



 

八丈島公式史上初の流人 宇喜多秀家

当時の流刑者の中でも、特筆すべきは宇喜多秀家です。関ヶ原合戦で、西軍(反徳川陣営)の副総帥として出陣。

敗北すると、いったんは薩摩へ落ちのびて再興をはかるも、最終的には徳川家康に投降します。

処刑を覚悟した秀家ですが、島津氏らの助命嘆願が実って流罪。江戸時代の間に2千人近くが送られることになる、八丈島への流刑者第1号となります。

この時の秀家は34歳。身内を含め、総勢13人余りが付き従います。

受刑者とはいえ身分の高さから、島では客人扱いされ、妻の実家の前田家からの物品仕送りもあり、食うや食わずではなかったようです。

が、厳しい生活であることは間違いありませんでした。



 

宇喜多秀家(うきた ひでいえ)
安土桃山時代の武将・大名。宇喜多氏の当主。通称は八郎、備前宰相。

父・直家の代に下克上で戦国大名となった宇喜多氏における、大名としての最後の当主である。

豊臣政権下(末期)の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始、秀吉に重用されていた。



 

↑ 八丈小島と南原千畳岩海岸 ↓

 

 

関ヶ原の戦いで西軍について敗れて領国を失うまで、備前岡山城主として備前・美作・備中半国・播磨3郡の57万4,000石を領していた。

生涯離ればなれであった夫婦のための碑
関ヶ原の戦いで破れ流罪となった秀家と、その妻豪姫が二人並んで鎮座している碑。



 

豪姫は八丈島に流された夫を追いかけることが許されず、離ればなれのまま2人は生涯を終えている。

そんな夫婦を思って作られた碑は、後ろには八丈富士が、前方には夕日が美しい南原千畳岩海岸の海岸線が広がっている。

平成9年、岡山城築城400年を記念して、岡山城の方角を仲睦まじく眺める宇喜多秀家と正室・豪姫の座像が建立されたもの。




薩摩への逃亡と八丈島配流
関ヶ原の戦い後、宇喜多家は家康によって改易されたが、秀家は伊吹山中に逃げ込んだ。

このとき、落ち武者狩りの矢野五右衛門に遭遇するが、五右衛門は秀家を自宅に約40日もかくまった(五右衛門の子孫は屋敷のあった場所に現在も居住し記念碑が建っている)とする話が伝わっている。



 

秀家は京の太秦に潜伏、京都所司代の奥平信昌に発見されるが逃走に成功。

同じ西軍側であった島津義弘などを頼って薩摩国に落ちのび、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)にかくまわれた。

後世の編である『常山紀談』では薩摩にのがれ剃髪して、成元さらに休復と号したとしている。このとき、秀家が島津氏に兵を借り、琉球王国を支配しようとしたという伝説が残っている。


 

しかし「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡された。

なお、身柄引き渡しの際に一緒についてきた家臣2名を島津家に仕官させるが、このうちの一人本郷義則は、薩摩の日置流弓術師範の祖、東郷重尚の最初の弓術の師匠となる。


 

島津忠恒ならびに縁戚の前田利長の懇願により死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉される。慶長11年(1606年)4月、同地での公式史上初の流人として八丈島へ配流となった。


 

八丈島では苗字を浮田、号を久福と改めた。
『花房文書』『越登賀三洲志』によると、妻(豪姫(豊臣秀吉の養女、前田利家の娘))の実家である加賀前田氏や宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けて(初期には秘密裏に、晩年は公に隔年70俵の援助を得ることが江戸幕府より許された)


 

八丈島で50年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたと伝えられる。

また、八丈島を所領としていた源家によく招かれ、宴を楽しんだ記録が残っている。源家は宗福寺の住職も兼ねているが、この寺院は宇喜多家の菩提寺である。

また、元和2年(1616年)に秀家の刑が解かれ、前田利常から秀家に、前田家から10万石を分け与えるから大名へ復帰したらどうかとの勧めを受けるが、秀家はこれを断って八丈島に留まったとも伝わる。


 

八丈島での生活は不自由であったらしく、『明良洪範』は、嵐のため八丈島に退避していた船に乗っていた福島正則の家臣に酒を恵んでもらったと伝える。

このほか、八丈島の代官におにぎりを馳走してもらった(あるいは飯を二杯所望し、三杯目はお握りにして家族への土産にした)という話を、『浮田秀家記』『兵家茶話」が載せている。

また、秀家が島で水汲女(現地妻)を置いたかどうかについては全くわかっていないが、その記録が一切ないことから水汲女を置かなかったと考えられている(『八丈島流人銘々伝』)。

明暦元年(1655年)11月20日、秀家は死去した。享年84。


 

このときすでに江戸幕府第4代将軍徳川家綱の治世で、関ヶ原に参戦した大名としては最も長く生きた。

墓は東京都八丈町大賀郷の稲場墓地、前田家所縁の東京都板橋区板橋の東光寺、同じく石川県金沢市野町の宝池山功徳院大蓮寺などにある。

法名は尊光院殿秀月久福大居士。正室・豪姫の法名は樹正院殿命室寿晃大禅定尼。

大名の宇喜多家は滅亡したが、秀家とともに流刑となった長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝え、のちに分家(浮田を称した)が3家興った。