第38回亀戸天神菊祭り
開催期間
2023年10月22日(日)~11月23日(木・祝)

 

「学問の神様」として親しまれている「亀戸天神社」は季節を彩る花まつりでも有名です。春の梅、藤に続き、秋は菊まつりが開催されます。


春の梅、藤に続き、秋は菊まつりが開催されています。
天神社では菅原道真公16歳の時に詠まれた「残菊詩」から、天神社では菅公をしのび、宮中で行われていた和歌・連歌などを詠む“*残菊の宴”を催していました。

近年は、本殿の正面を取り囲むように菊を展示されています。

*残菊とは旧暦の重陽の節句(9月9日)以降の菊を意味するとつたえられています。


 

 ↑ 葛餅の船橋屋 外装工事中 ↓

 

船橋屋事件
船橋屋社長、赤信号無視で自動車事故 「この野郎!」逆ギレ&ドア蹴る...会社謝罪「到底容認できない」


亀戸で江戸時代に創業した和菓子屋の経営者(渡辺雅司社長)から交通事故で罵声を浴び、車のドアを蹴られたとして、ツイッターに動画が投稿され、削除後も転載されて拡散している。

 

事故は、この経営者が赤信号を無視したのが原因だったとされている。この和菓子屋「元祖くず餅 船橋屋」は、会社サイトで事実関係を認め、「到底容認できるものではない」としてその行為を謝罪した。

 

 

↑ 船橋屋本店 船橋屋の売店は鳥居の左手前にも ↓

 

 

↑ 亀戸天神社(江東区) ↓

 

 

↑ AM8.30の亀戸天神社 ↓

 

 

↑ 未だ人影は殆どない ↓

 

 

↑ 毎回展示される東京スカイツリー擬き ↓

 

 

巴錦(ともえにしき)

花びらの内側が深紅、外側が黄金色の大変豪華な色が特徴の古典菊です。

 

 

現在栽培されている観賞菊の寿命は意外に短く、ほとんどの品種は10年以内に名前が消えてしまいます。
 

 

これは花が小さくなったり、さし芽しても発根しにくい、草丈が伸びにくいなど、育てにくくなって、もとの美しさがなくなり、育てる人がいなくなるためです。
 

 

「巴錦」は葛飾北斎も好んだ菊だったらしく、北斎筆と言われている絵の中に、確かにこの菊と思われる花が描かれている。

 

このことから130年以上の寿命を保っていることが推定されます。

 

 

昔、加賀のお殿様が参勤交代の途中、長野県の小布施に立寄られ、そこに飾られていたこの菊を大変お気に召して、名前をたずねられたが答えられなかったので殿様は、これより「巴錦」と呼ぶように、と命名されました。

 

 

このため地元の人々はこの菊を「殿様菊」と呼ぶようになったそうです。
 

 

イエギク(家菊)キク科キク属の植物。
野生種は存在せず、中国で1500年ほど前にチョウセンノギクとハイシマカンギクを親に交配によって生まれたとされている。

 


秋に咲く花であるが、短日性植物で、電照などを用いた作型の分化により、周年供給されている。

 

食用にする「もってのほか」などの品種もある(食用菊を参照)。花言葉は「高貴」である。




一般に、日本で観賞用多年草植物として発展した系統、品種群を和菊、西ヨーロッパに渡り育種されて生まれた系統、品種群を洋菊と呼ぶ。


 

一般に洋菊のほうが丈夫である。鑑賞園芸的には和菊、生産園芸的には洋菊が中心に栽培されている。


また、切花としては温室での電照栽培で周年出荷されている。バラ、カーネーションとともに生産高の多い花卉である。
 

 
 

日本では、薬草や観賞用植物として平安時代より用いられ、宮中では菊の節句とも呼ばれる重陽の節句(旧暦9月9日)が明治時代まで行われ、現在でも皇室園遊会(観菊御宴)として行われている。


 

日本で菊の栽培が盛んになったのは、栽培のプロセスが冬に芽をとり、春に植え、夏に成長させ、秋に観賞するといった具合で、イネの栽培と類似していることが影響しているとの説がある。


 

現在では各地に愛好会ができる一方で、秋にはそれらが主催の品評会が開かれている。
 
物品への意匠として用いられることも多く、後鳥羽上皇が身の回りのものに施したことにより天皇および皇室の紋となったといわれ、鎌倉時代には蒔絵や衣装の文様として流行した。



 

日本の南北朝時代以降には天皇より下賜されることにより公家や武家の間で家紋として使用されるようになった。


 
 

一方、フランス、ポーランド、クロアチア等の一部のヨーロッパ諸国において白菊が墓参に用いられる。



 

日本や中国、韓国でもこの影響を受けて葬儀の際の献花には菊が用いられることが多く、この習慣の影響で病気見舞いに菊の花を贈ることはタブーとされることがある。


 
 

キクの花弁が放射線状に並んだ形状に由来する慣習的な呼び名があり、アンモナイトの化石のことを「菊石」といったり、また陶芸やそば打ちでの材料の練り方に「菊練り」がある。


 
 

歴史 /日本
日本にも350種ほど野菊が自生しているが、ヨモギのように食用とされ、観賞の習慣は平安時代頃、中国から秋の重陽の節句とともにもたらされる。

万葉集には現われないが、古今集あたりから盛んに歌にも詠まれるようになった。


 
 

「心あてに折らばやをらむ初霜のおき惑わせる白菊の花(凡河内躬恒 - 小倉百人一首 第29番)」
 
春のサクラに対して日本の秋を象徴する花となるが、それが決定的になったのは、鎌倉時代の初め後鳥羽上皇が菊の花の意匠を好み、「菊紋」を天皇家の家紋とした頃からである。

また、九州の豪族菊池氏も家紋に「菊花」もしくは「菊葉」を使用している。


 
 

江戸時代前期から栽培熱が高まり、育種が進んで多数の品種が生み出され、正徳頃からは「菊合わせ」と呼ばれる新花の品評がしばしば行なわれた。また、江戸、伊勢、京都、熊本などでそれぞれ独自の品種群、系統が生じた。


 

「三段仕立て」などの仕立ての様式やその丹精の仕方なども発達し、菊花壇、菊人形など様々に仕立てられた菊が観賞された。

これらは江戸時代から明治、大正時代にかけて日本独自の発展をした古典園芸植物の1つとして、現在では「古典菊」と呼ばれている。

全般に花型の変化が極めて顕著であるのが特徴で、「江戸菊」には咲き初めから咲き終りまでの間に、花弁が様々に動いて形を変化させるものすらある。

このように発展した日本の菊は幕末には本家の中国に逆輸入され、中国の菊事情を一変させた。

 

明治時代になると、花型の変化よりも大輪を求める傾向が強まり、次第に「大菊」が盛んになった。花型としては厚物、管物、大掴み、一文字などに収束し、花の直径が30センチメートルに達する品種も現れた。

この傾向は菊を日本の象徴として見る思想と関係していると思われ、戦後にまで続いている。