東京湾アクアライン風の塔
川崎人工島は、神奈川県川崎市川崎区浮島町沖5 kmの東京湾に位置する、直径200 mの円形の人工島である。
自動車専用道路東京湾アクアラインのアクアトンネル建設および換気のために造成されたものであり、通常は関係者以外の立ち入りはできない。
ただし、アクアトンネルの避難ルートの一部となっており、退避用にヘリポートと小型船舶専用の接岸設備を備える。
風の塔は、川崎市浮島の沖合約5kmに作られた直径約200m、深さ75mの人工島である。

風の塔の上には、高さ90mと75mの大小2つの塔がそびえている。これらはトンネル内部の空気を排気したり、外から空気を送気したりするための施設である。

東京湾に横断道路を建設する考えは、1958年に千葉県と木更津市他4市町村が建設促進の要望書を出すなど昭和30年代前半には存在していた。

昭和40年代後半の建設省案では川崎側・木更津側各1/3を橋梁、その中間を沈埋トンネルとするものであり、川崎側の人工島も現在の木更津人工島(海ほたるパーキングエリア)同様、斜路でトンネル部と橋梁部を接続する構造となる計画であった。

しかし、船舶航行量調査で川崎側の航行が過密であること、川崎側は木更津側に比べ水深が深く基礎の構築に多額の費用を要すること、羽田空港に近く、川崎人工島131m、浮島53mの高さ制限があるため高い主塔を必要とする吊り橋の採用も困難であることに加え、シールド工法の進歩から、1985年に川崎側2/3をシールドトンネルとすることを決定した。

風の塔
12度傾斜した大小2本の円筒形の塔で構成された換気塔で、90mの大塔はアクアトンネルへ外気の給気、75mの小塔はトンネルからの排気の役割を果たす。
東京湾上は年間を通じて風向きは南北方向であることがほとんどで、2本の塔の間を風が抜けることでベルヌーイの定理により効率的な換気ができる。
大塔は現地で鉄骨が組まれたが、小塔は下部1800トン、上部600トンに分けて陸上で施工された。
塔のデザイン決定には平山郁夫と澄川喜一が携わり、羽田空港を発着する旅客機からの景観や、船舶からの視認性を高めるため群青色と白色の幅10mの横ストライプのデザインが採用された。
滑走待機中
羽田・成田、伊丹・関空、福岡の主要空港は、国土交通省から航空法第107条の3による「混雑空港」に指定されています。
これらの空港に就航する日本の航空会社は、国土交通省の審査を受けて合格することにより、空港の発着枠が割り当てられます。
つまり、国が制御しないといけないほど需要があり、需要に合わせてフライトを増やすと、空港設備や航空管制がパンクしかねない状況であると言い換えることができます。
そして、発着枠を割り当ててある程度制御しても、このような混雑空港では「離陸待ち」と言って、滑走路脇の平行誘導路等に、多くの飛行機が行列を成している状態が毎日見られます。
この離陸待ちの列は、長いものだと、離陸までに1時間近く要する場合もあります。
では、一体なぜ離陸待ちの列ができるまで飛行機を飛ばすのでしょうか。
離陸待ちの列を制御するのは「航空管制官」です。

航空管制官のマニュアル的存在の管制方式基準(正式名称「第5管制業務処理規程」)には、滑走路上での間隔について細かく決められています。
管制官は決められた間隔を守りつつ、間隔が最小限になるように指示や許可を発出しています。
現在のところ、着陸機が着陸する時間を秒単位で予想することは、上空の風や、減速を開始するタイミングなど加味することが多すぎて困難です。
例えるならば、入庫する行列ができている満車の駐車場に駐車できるまでの時間を秒単位で予想するくらい難しいことです。
なので、離陸機はとりあえず滑走路の脇で待ってもらって、着陸機が来ないタイミングを管制官が見計らって離陸させよう、というものが、今日の航空管制であり、管制官が居ない状態で離陸待ちの列を作るということは危険性が高いためできません。
先行機が離陸待機中に、他機が横からスイスイ追い抜いていくケースが意外とあります。
その場合に考えられる状況は、おおむね次の2つが当てはまります。
自機の離陸準備が整っていない場合
自機が指定された離陸時刻に達していない場合
テイクオフ
飛行機をはじめとする航空機全般の離陸動作をいう。地表面を離れ、浮上した状態を保ちながら安定した水平飛行に移行するまでの一連の動作のことである。
テイクオフを行うには浮力をもたらすための動力が必要となるが、固定翼機では一定距離を滑走することでその動力を生み、エンジンを持たないグライダーなどの滑空機は、他の動力によるけん引によって浮力をつけテイクオフにつなげていく。
また、パラグライダーでは斜面を駆け下りて浮力をつける方法でテイクオフ状態に移行する。
離陸を意味するテイクオフは「テイクオフ・ザ・グラウンド」の省略形であり、航空機などが様々な方法で「地面を離れる」このような状態を一般化して示すものである。

水平飛行
飛行機は水平飛行している時、ある程度上に傾いていることご存知でしょうか。
飛行機は、巡航高度に達し「水平飛行」に入っても、実はわずかに傾いているといいます。
機内もその傾きを考慮した工夫がなされている一方、客室乗務員は傾きに注意しながらサービスをしているそうです。いったい、どれくらい傾いているのでしょうか。
巡航中も水平じゃない そのメリットは
滑走路から離陸した飛行機は、機体が傾いているのがはっきりとわかります。ANAによると、離陸推力の設定や重量などもよるものの、離陸上昇時は機首を15度前後上げた状態だそうです。
そして所定の巡航高度に達すると、飛行機は「水平飛行」に入ります。シートベルトのサインが消え、機内食がある路線ではその給仕が始まることもあり、ホッと一息つくときかもしれません。

水平飛行時は、飛行機を持ち上げる揚力と、機体重量による重力が釣り合った状態です。ここで機首が水平に近いと十分な揚力が得られず、一方で機首を上げすぎると抵抗が大きくなってしまうのです。
そのため、機首を1.5度から3度くらい上げた状態で釣り合う重力と揚力が得られるよう、機体がデザインされています。
乗客が利用するシートのテーブルも、実はあらかじめ3度ほど前下がりになるようにデザインされており、水平飛行中に平行に近くなるようされています。

ちなみに、着陸時も機体はやや傾いています。機材により若干の違いはあるものの、約4度から5度機首を上げた状態で着陸(接地)しています。
この着陸姿勢は、空港の条件や風向、風速に応じ、フラップや着陸速度によって変化します。

空弁ヨネスケのこだわり天むす
5種類の味を楽しめる天むす
「ヨネスケのこだわり天むす」は、駅弁・空弁に造詣が深く、書籍なども刊行しているタレントのヨネスケ氏の監修を受けて開発した、食べやすさにこだわった、飽きのこない5つの「味付け」をセットした新しい空弁です。

海老天2本(プレーン、こしょう風味)、れんこん天1個、笹身天(梅風味)1個、ほたて天(ゆず風味)1個が入った、駅弁・空弁を食べつくした落語家のヨネスケ氏監修の”こだわり”の天むすです。

天むす
発祥店は三重県津市大門 の「千寿」である。(諸説あり)
現在は主に尾を取ったアカシャエビ(サルエビ)の天ぷらが使用されているが、ごく初期の段階ではエビの種類もアカシャエビではなく、尾も付けたまま揚げたものが使用されていた。
具はエビのみの場合が多いが、一部の店では、エビと小さめの野菜でかき揚げにして入れている。

津市の「千寿」の天むすは具の天ぷらがおにぎりの中に入っていて外から見えないタイプであるが、全国的には名古屋の「地雷也」に代表されるおにぎりの上部に具の天ぷらが見えているタイプのものが多い。
味としては「千寿」はエビ天が塩味で形はおにぎり全体が大きめ、「地雷也」などはえび天が醤油ベースの味付けでおにぎりの全体サイズも1口サイズになっている。
1950年代に、三重県津市大門にある天ぷら定食店「千寿」の賄い料理として考案されたのが始まりである。
昭和30年代の初め、初代水谷ヨネが忙しくて夫の昼食を作る暇がない折に、車えびの天ぷらを切っておむすびの中に入れたのが発想のきっかけで、その後味付などを試行錯誤し、常連客向けの裏メニューとして振舞うようになったとされる。
好評を得た天むすは「千寿」の正式なメニューとなり、1959年(昭和34年)頃に天むす専門店となった。1965年(昭和40年)、天むすを商標登録する。

のれん分け
1980年(昭和55年)、愛知県名古屋市中区大須の藤森時計店が本店の事業展開により、移転する。土地と店舗が空いたため、妻の藤森晶子は新たな商売を開こうと考える。
そんな時、思い出したのが娘が幼い頃、海水浴に連れて行った津で偶然食べた「千寿」の天むすであった。

藤森は早速「千寿」を訪れ水谷夫妻に天むすの作り方を伝授してもらえないかと願い出るが、あえなく断られてしまう。
だが藤森はあきらめず、「千寿」の店舗だけではなく水谷夫妻の自宅にまで通うなどし、一ヶ月に亘る交渉を続けた結果、根負けした水谷夫妻から、天むすを世間に広めないことを条件に、作り方の伝授とのれん分けの承諾を得た。

こうして1981年(昭和56年)に開店したのが名古屋の「千寿」である。
当時名古屋をもう一つの活動拠点としていた笑福亭鶴瓶がその評判を聞きつけ来店。
天むすを味わった鶴瓶はその味を気に入り、名古屋から次の現場への移動の際には必ず手みやげとして大量に購入して持ち込むようになる。
これがきっかけとなって、天むすは東京のテレビ局関係者の間でも評判となり、マスコミもこぞって話題に取り上げるようになっていく。こうして天むすは、全国的に知名度を上げていく結果となった。



