世界初黒蝶真珠養殖発祥の地
乳呑み児を抱く人魚像
琉球真珠では1975年(昭和50年)11月、会社敷地内の川平湾を一望する場所に、「川平湾が未来永劫きれいな海であるように」との願いを込めて、海の守護神である木彫りの人魚像を建立しました。

そして、この人魚像が古くなったために、1982年(昭和57年)8月、彫塑家の西表信氏が制作したブロンズ製の乳飲み児を抱く人魚像を新しく建立。

現在では、川平湾を背にしながらこの人魚像と一緒に記念撮影する観光客も多く、人気の観光スポットとして知られています。
世界初黒蝶真珠養殖発祥の地・川平湾
天然の黒蝶真珠は40万個に1個の割合でしか発見されません。
その希少性ゆえに“幻の真珠”と言われております。
1953年(昭和28年)日本の最南端、ここ川平湾で、「世界初の黒蝶真珠」が誕生しました。
その9年後、1962年にタヒチは黒蝶紫綬養殖に成功し、1975年前後から本格的な養殖が行われました。
ここ川平湾で浜揚げされた「黒蝶真珠」が、1968年、世界的に有名な「ミキモト」のニューヨーク支店で販売され話題を呼びました。
当時の黒真珠と言えば着色したものしかなく、それが世界の真珠市場で定着して
いました。
ところが突然、琉球真珠の養殖黒蝶真珠が登場したので、ニセモノか本物かで世界の宝石業界で議論となり、科学的に立証され、ようやく世界で認められました。
同年代に生産された黒蝶真珠が現在アメリカのスミソニアン国立博物館の沖縄民族コレクションに展示されています。
この「世界初黒蝶真珠」の産みの親、渡嘉敷 進(当社会長)は、半世紀を黒蝶真珠養殖に精魂を傾け、今尚、より美しい黒蝶真珠を求め研究開発に取り組んでいます。
この川平湾で生まれた黒蝶真珠は美しい沖縄の珊瑚礁の海が生んだ世紀の傑作といえるでしょう。
お〜りと〜り
那覇空港で見掛ける「めんそーれ」看板は「いらっしゃいませ」の意味ですが、 宮古島では「んみゃーち」、石垣島では「おーりとーり」といいます。

真珠あるいはパール
貝から採れる宝石の一種である。
真珠は貝の体内で生成される宝石である。生体鉱物(バイオミネラル)と呼ばれる。

貝殻成分を分泌する外套膜が、貝の体内に偶然に入りこむことで、(例えば、小石や寄生虫などの異物が貝の体内に侵入した時に外套膜が一緒に入り込み)天然真珠が生成される。
つまり成分は貝殻と等しい。貝殻を作る軟体動物であれば真珠を生成する可能性がある。

天然では産出が稀であるが加工が容易で「月のしずく」「人魚の涙」とも呼ばれているほどの美しい光沢に富むため、世界各地で古くから宝石として珍重されてきた。

またその希少性から薬としての効能を期待し、服用される例がしばしば見られる。
日本でも解熱剤として使用され、2004年6月現在[いつ?]も風邪薬として販売されている。
日本は古くから真珠の産地として有名であった。北海道や岩手県にある縄文時代の遺跡からは、糸を通したとみられる穴が空いた淡水真珠が出土している。

養殖
真珠養殖の歴史は古く、中国大陸で1167年の文昌雑録に真珠養殖の記事があり、13世紀には仏像真珠という例がある。ただしこれらは貝殻の内側を利用する貝付き真珠である。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、フランスのルイ・ブータン、イギリス人ザビル・ケントなど各国で養殖真珠の研究が行われていた。
日本では、1893年(明治26年)に東大三崎臨海実験所箕作佳吉の指導をうけた御木本幸吉が英虞湾神明浦で養殖アコヤガイの半円真珠の生産に成功した。
また、1905年(明治38年)に御木本幸吉は英虞湾の多徳島で半円の核を持つ球状真珠を採取したことが知られている。
この採取によって御木本幸吉は真円真珠の養殖成功を確信する。この1905年(明治38年)が真円真珠の生産に成功した年と書かれることが多いが、これは誤りである。
真円真珠の発明者は、日本では西川藤吉・見瀬辰平の2人があげられる。1907年(明治40年)見瀬辰平が、はじめて真円真珠に関し「介類の外套膜内に真珠被着用核を挿入する針」として特許権を獲得した。
続けて西川藤吉が真円真珠生産に関し真珠形成法の特許を出願する。この一部が前述の見瀬辰平の特許権に抵触するとして紛争が起こる。
調停の結果、西川籐吉の名義で登録し特許は共有とすることとなった。この真珠養殖の特許技術は日本国外では「Mise-Nishikawa Method」として知られている。
また1916年(大正5年)および1917年(大正6年)に西川藤吉の特許が4件登録された。西川藤吉は既に物故していたため、息子の西川真吉が権利を受け継いだ。

現在の真珠養殖の技術は西川藤吉のこれらの技術に負うところが多い(西川藤吉は御木本幸吉の次女の夫である)。
その後、様々な技術の改良を経て真珠養殖は広まり、英虞湾、宇和海、長崎県対馬などで生産が行われた。
1921年にイギリスで天然真珠を扱う真珠商や宝石商を中心に養殖真珠が偽物だという排斥運動が起こる。
パリで真珠裁判が行われたが、1924年5月24日、天然真珠と養殖真珠には全く違いが無いということで全面勝訴した。
その後もフランスでは訴訟が繰り返されたが、逆に養殖真珠の評判は上がっていった。
1930年代にクウェートやバーレーンなど真珠を重要な産業としていた国は、養殖真珠の出現と、それに伴う真珠価格の暴落によって真珠産業が成り立たなくなり、世界恐慌の時期と重なったこともあり経済に大打撃を受けた。

特に食料自給率が低く輸入に依存する割合が高いクウェートでは多数の餓死者を出すほどの惨事となった。
その後、油田の開発によりクウェート経済は発展し、真珠産業は実質的に文化保存事業の規模にまで縮小してしまったが、現在でも真珠広場など真珠に由来する場所や真珠を採取するイベントが行われるなど、真珠に関する文化が残っている。
また、天然真珠価格の暴落によってヨーロッパ資本の宝石商は大きな損失をうけ、ティファニーやカルティエも天然真珠の取り扱い量を減らしてしまった。
1953年の台風で三重県内の養殖いかだが「全滅」の被害を受けたこともあったが、1950年代を通じて養殖真珠生産体制を確立した日本は、世界の9割のシェアを誇るようになる。
御木本の「真珠のネックレスで世界中の女性の首をしめる」という言葉を現実のものとした。
養殖真珠を排斥していたフランスの真珠商ローゼンタールも養殖真珠を扱うようになった。 1960年(昭和35年)、日本の真珠輸出高は100億円を超える。

1967年(昭和42年)を境に、ミニスカートが流行するなど、従来のファッションの流行が変わり世界の真珠の需要が激減したこと、過剰生産と粗製乱造が重なったこと、さらにニクソンドルショックによる円高のため、海外のバイヤーが真珠を敬遠するようになった。
一方で経済成長に伴う所得増加のため日本国内の需要は増加し、日本の真珠養殖業者は国内市場を主戦場とするようになった。

真珠養殖が始まってからほぼ100年が経過したが、1996年(平成8年)頃から始まったアコヤガイ赤変病によるアコヤガイの大量斃死現象や真珠摘出後の廃棄貝、および生産地周辺の排水による湾の富栄養化などの要因から日本のアコヤ真珠の生産量は低下した。
現在真珠取引の中心となる市場は香港に移りつつある。










