東郷平八郎上陸の地
日露戦争の英雄、東郷平八郎が上陸した地です。


 

日露戦争でバルチック艦隊を全滅させたことで有名な東郷平八郎が、船浮桟橋の近くの集落内にあるこの地に上陸し、休憩を取ったと伝えられています。

元々あった立て看板の老朽化に伴い、地元の有志により碑文が設置されました。


 

西表館・史跡保存会による碑文には次のように記されています。
「~大将とラッキョウの秘話~明治三八年五月、

ロシアのバルチック艦隊の撃沈の重責を負った東郷大将は、駆逐艦で台湾・宮古・八重山に立ち寄り船浮港では上陸され、学校を訪問。


 

職員・村人・隊員を励まされ、帰りに立ち寄った民家(次呂久家)でお茶とラッキョウの接待を受けられ、同年8月に大任を果たされた大将は次呂久 のばあちゃんにラッキョウのお礼のハガキを寄せられた。

このハガキによって学校長も東郷大将であったことを知ったと、手記で述べている。西表館・史跡保存会」

日本史の教科書にも載っていない地元ならではの秘話に心躍ります。今でもお礼のハガキが、残されていたらと考えてしまいます。

 

東郷平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1848年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日)は、日本の武士(薩摩藩士)、軍人である。階級は元帥海軍大将。栄典は従一位・大勲位・功一級・侯爵。

 

↑ 戦艦三笠 ↓

記念艦三笠

神奈川県横須賀市稲岡町82-19

 


 

明治時代の日本海軍の指揮官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた一人である。


 

日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。


 

当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。


 

日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、東郷と同藩出身者であり同じく日露戦争における英雄である満州軍総司令官・大山巌と並び、「陸の大山 海の東郷」(旅順攻囲戦における第3軍司令官乃木希典陸軍大将と絡め「陸の乃木 海の東郷」とも)と称され国民の尊敬を集めた。

 

 

日露戦争
東郷は、明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、旗艦「三笠」に座乗してロシア海軍太平洋艦隊(後に第一太平洋艦隊へ改称)の基地である旅順港の攻撃(旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。

 

6月6日には大将に昇進する。

 

 

そして明治38年(1905年)5月27日に、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。


 

この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。


 

本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。


 

各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。東郷は丁字戦法、その後「トウゴウ・ターン」と呼ばれる戦法を使って海戦に勝利を納めた。


 

↑ 三笠の艦長室 ↓


 

この海戦における勝利は、当時ロシアの圧力に苦しんでいたオスマン帝国においても自国の勝利のように喜ばれ、東郷は同国の国民的英雄となった。 


 

その年に同国で生まれた子供たちの中には、トーゴーと名づけられる者もおり、また「トーゴー通り」と名付けられた通りもあった。



 

ただし、「トーゴー通り」の名称は、「Toygar sokagi」で、「Toygar」はヒバリを意味する単語なので、東郷とは何の関係もない可能性もある。
 

 

日露戦争後
日露戦争終了直後、訪問艦にて同盟国のイギリスに渡洋、他の将校や乗組員とともにサッカー(フットボールリーグ、ニューカッスル・ユナイテッドのホームゲーム)を観戦。



 

明治38年(1905年)から明治42年(1909年)まで海軍軍令部長、東宮御学問所総裁を歴任。

明治39年(1906年)、日露戦争の功により大勲位菊花大綬章と功一級金鵄勲章を授与される。

 

↑ 海軍元帥の肖像と艦長室 ↓

 


 

明治40年(1907年)には伯爵を授爵。大正2年(1913年)4月には元帥府に列せられ、天皇の御前での杖の使用を許される。大正15年(1926年)に大勲位菊花章頸飾を受章。

 



当時の頸飾受章者は皇太子・裕仁親王と閑院宮載仁親王だけだった。また、タイム誌の同年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなった。

 

 

↑ 艦長室から甲板への階段 ↓