伊勢崎市の重要文化財であり、景観重要建造物に指定されています。
街中に何気なくそびえたつレトロなたたずまいは、SNSなどの写真スポットにもピッタリ。

伊勢崎藩陣屋敷の敷地内になる旧時報鐘楼は群馬県最古の鉄筋コンクリート構造の建築物。

横浜で薬種商を営んでいた二代目・小林桂助氏の寄付によって大正5年(1916)竣工。以降昭和12年(1937)まで市内に時報を届けていた。

戦時の金属回収により釣り鐘や塔屋を供出されたが、戦後に復旧。市政施行五十周年の記念に大正当時の姿に復元された。
レンガ積みの外壁やルネッサンス風の窓、そしてドーム屋根に大正ロマンを感じられる。

機械式時計の始まりは1300年代に作られたキリスト教修道院の塔時計と言われており、現存している最古の機械式時計はソールズベリー大聖堂の塔時計(1386年)とされています。

日本で最初に作られた塔時計も実はキリスト教徒によるもので、1603(慶長8)年に長崎のキリシタン文化の中心地であった“岬の教会(被昇天のサンタマリア教会)”に建てられました。

徳川幕府の禁教令により破壊され、現在目にすることは叶いませんが、記録によると時計の文字板には西洋式のローマ数字による目盛と干支による目盛、陰陽両式のカレンダーの表示があり、文字板を見ながら三つの鐘が奏でるチャイムを楽しむために市民が毎時間見学に訪れたそうです。

この塔時計の製作者はイタリア・ルネサンス派の画家であるジョワンニ・ニコラオ神父と言われています。画才のみならず工芸の才能に恵まれたニコラオは、セミナリヨやコレジヨ(聖職者育成教育機関)で絵画だけでなく時計の製作技術も教えていました。

後に和時計へと発展する日本の時計製作技術の源流はセミナリヨやコレジヨにおけるニコラオの教育にあったのでは、と専門家は指摘しています。

明治期に建てられた時計塔は学校や兵舎などの官庁施設だけではなく、殆どは時計店によるものでした。
特に「八官町の大時計」と呼ばれていた「小林時計店本店時計塔」(明治9年竣工)、同じく「外神田の大時計」と呼ばれていた。
「京屋時計店本店時計塔」(明治9年頃竣工)は東京名物として東京市民に親しまれていました。
赤石楽舎(伊勢崎陣屋)
慶長6年(1601年)、当地に封じられた譜代大名稲垣長茂により伊勢崎藩の藩庁として築かれた。
稲垣家は2代藩主稲垣重綱の代に転封となり、替わって酒井忠世が封じられたが、忠世が本家前橋藩を継いだため、一時期伊勢崎藩は廃藩となり陣屋も廃止された。
その後60年余りして2万石を分けられた酒井忠寛が入り、本家の転封により播磨姫路藩の分家として陣屋が再建された。
以降江戸時代末まで維持され、9代忠彰の時、明治維新を迎えた。
現在陣屋敷地は市立北小学校となっている。
伊勢崎市立北小学校が小学校と地域交流センターの合体した「赤石楽舎」になりました。
伊勢崎藩の陣屋跡にある伊勢崎市立北小学校が、小学校と地域交流センターの合体した街かなの学びの拠点として新築されました。
この校舎の前には、伊勢崎市指定重要文化財の旧時報鐘楼があります。この建造物は大正4年に建てられたこので鉄筋コンクリート構造の建造物としては、県内最古のものです。
建物の入口には「赤石楽舎」の表示があります。
垂直軸型の小型風力発電装置(ジャイロミル型)
飛行機の羽根と同じ断面を持つ垂直翼形の風車。
自力で回転開始が可能となり、回り始めると周速比は高く回転トルクも高く注目度は高い風車である。

筒状に配置した垂直軸型なので風向を選ばず、0.8m /秒程度の微風でも始動する風力発電装置。

揚力と抗力双方のエネルギーを利用することで回転効率を高めた。ダイレクトドライブ方式なので発電効率も高い。振動や風切り音が小さいことも特徴。

武家門通り
右(北)へ進むと伊勢崎駅へ。






