伊勢崎明治館へ


 

↑ アメニティー用品 狭小駐車場 ↓


ホテル前にはクリー二ング済の「アメニティー用品」が搬入されていました。




狭小駐車場
駐車スペースを確保するために、敷地が道路と接する部分のほぼ全てを駐車スペースとして活用することもあります。そのような場合、車の出し入れのために門扉や塀、フェンスなどがあれば利用しづらくなりますから、こういった外構を設けることがほとんどできません。


 

 

伊勢崎明治館(黒羽根内科医院旧館)

◆伊勢崎市曲輪町31-4
◆電話   0270-40-6885
◆開館時間 10:00~17:00 
◆休館日  月・火曜日(祝日は開館)
 ※祝日開館をした週は水曜日が振替休館となります。
◆入館無料


 

明治45年に建築された「いせさき明治館(黒羽根内科医院旧館(旧今村医院))」
明治末年に建てられた県内で最も古いとされる木造洋風医院建築で、伊勢崎市の本町通りの南側に建っていました。


 

建物所有者の市への寄贈の意志を受けて、平成14(2002)年9月に伊勢崎市の重要文化財に指定され、新たなまちの拠点施設化を目指して同年11月、中心市街地を約100m曳き家され、現在地(曲輪町)へと移転しました。

二日間かけ、多くの市民に見守られる中での曳き家移転は、伊勢崎の街中に新たな文化資源の誕生を予感させる出来事となりました。


 

黒羽根内科医院旧館(旧今村医院)の沿革
発見された棟札には「明治45年7月11日 今村信四郎 之を建つ、設計技師:阿部石松、棟梁:藤丸兼吉、副棟梁:相崎倉吉」と記されています。

建主の今村信四郎は、かつて伊勢崎藩の藩医等を務めていた今村家の人です。

 

4代前に遡る人物の一人に、江戸中期の尊皇論者として有名な山形大貳がいました。

その第二子長蔵は、長じて医術を学び開業、名前を「今村長順」として伊勢崎藩の藩医に登用されました。

俳諧でも名を馳せ、俳名を「岨雲」と称し、清江舎と老松館という2つの俳句結社をつくっています。



 

長順の第三子「今村了庵」は江戸に出て医術を学び、伊勢崎藩医を継いでいます。その後幕府医学官講師となり、明治12年には大正天皇の皇太子時代の侍医になっています。

その後東京帝国大学(現在の東京大学)で皇漢医学の沿革を講じて漢方医学を伝えました。
了庵の後はその娘婿である信州高遠藩士鈴木家の「春斎」が医業を継ぎ、本町一丁目に居を定めました。

そしてこの春斎の長女が新田郡尾島町から医者の婿「信四郎」を迎えて、明治30年2月に当地で開業し、その後明治45年に建物を洋風建築に建て替えたものと思われます。

信四郎は大正2年に伊勢崎佐波医師会が誕生すると当初から会員として従事し、大正9年には伊勢崎町の町医となっています。しかし昭和4年令息美多氏と合併するために東京へ向かうこととなり、同年12月伊勢崎を転出しました。

その後の利用形態は不明ですが、昭和19年10月頃、「伊勢崎保健所」が当建物で開設されています。

その後縁があり、昭和22年頃に宮元町(現在の三光町)で内科医院を開業していた「黒羽根忠雄」氏が購入し、「黒羽根内科医院」となりました。


 

↑ 黒羽根内科医院図面(ネットから拝借) ↓

 

 

さて黒羽根忠雄氏ですが、山形県鶴岡市生まれ、昭和9年東京医専を卒業、東京医専付属淀橋病院助手となり、傍ら東京慈恵医大にて大脳生理、および条件反射学総説大脳感応現象の研究をし、その後縁あって伊勢崎で開業しています。

赤ひげ先生と呼ばれ、お金のない患者からはお金を取らないと言うことでも知られていました。

 

 

昭和59年、忠雄氏の長男である「黒羽根生自」氏が後を継ぐために新館が建てられ、診療所としての機能は新館に移され、戦後40年近く続いた旧館の診療所としての役割は終わりました。


 

平成14年、生自氏の意向により、建物を伊勢崎市の歴史的文化資源として保存し、新たなまちの拠点施設として活かすことを目的に、建物が伊勢崎市へ寄贈され、移転・改修工事の完成の運びとなりました。