金城山 養寿寺
養寿寺は、平安時代中期の永保三年(1083年)の開基とされ、その後平安時代後期になり開山された天台宗の寺院です。
創建当初は「相応寺」と称していたと云います。
↑ 金城山養寿寺門柱 天台宗 ↓
寺伝によれば、あずま道(東山道)にもほど近く、源義経が奥州に逃れ下る途中に立ち寄り、その際にお茶を勧めたことから「茶呉山相応寺」とも呼ばれていたとの云われています。
↑ 国定忠治の説明版 養寿寺本堂 ↓
現在の養寿寺と改称されたのは江戸時代中期の元禄年間(1688-1707)頃になります。
また、養寿寺は幕末(江戸時代後期)の侠客、国定忠治の菩提寺として知られております。
↑ 養寿寺地蔵尊 椎名庄次郎寄贈 ↓
↑ 寺務所 ↓
神社の事務所は社務所と言いますがお寺の事務所は寺務所で読みは同じ「じむしょ」です。
檀信徒(だんしんと)
檀徒(檀家・檀中)と信徒(信者)のことで、仏教に帰依し、お寺や教団を護る人々のことです。
檀信徒にとってお寺は自身の祖先の安住処であり、自身の魂の落ち着く場所であり、人生に光明を見いださせてくれる場所でもあります。
また、お寺は檀信徒の信仰生活の場であるばかりでなく、社会生活と密接に結ばれている場所でもあるのです。
墓地
墳墓を設けるために墓地として都道府県知事に許可を得た区域をさします。
都道府県からの許可を受けて、個々のお墓を建立することができる場所、区域全体を指しています。
寺院の中のお墓が建っている場所だけでなく通路も駐車場も「墓地」ということになります。
墓所は、墓地の中のお墓を建てるために区画整備が行われた場所のことです。
厳密に言うと違いがありますが、一般的には墓地も墓所もお墓のあるエリアとして扱われていることが多いので、話す相手に伝わりやすい言葉を使うと良いでしょう。
また、墓地とは寺院の境内地にあるものという意味もあります。墓地を購入するためには、その墓地を管理している寺院の檀家になる必要があります。
檀家になると墓地を建てる権利を得ることはできますが、それだけではなく寺院の運営の支援者にならなければいけません。
寄付や修繕費の負担をすることになります。
一方、霊園は少し意味が異なります。一般的に、霊園は、寺院に属さない墓地のことです。
↑ 墓地の門柱 長岡忠治の墓 ↓
国定忠治の本名は長岡忠次郎.。
上野国佐位郡国定村(旧 佐波郡東村国定地区、現 群馬県伊勢崎市国定町)の豪農の家の長男として生まれる。
↑ 大戸関所(忠治が磔(はりつけ)の刑に処せられた場所 ↓
以下の写真は2021年9月20日に撮影したものです。
国定村は赤城山南麓の村で、生業は米麦栽培のほか農間余業として養蚕も行われており、長岡家でも養蚕を行っている。
長岡家の菩提寺であるここ養寿寺の墓碑によれば父は、国定村の百姓与五左衛門、母は弘化二年(1845年)五月十四日に死去している。
↑ 群馬県吾妻郡東吾妻町 大戸宿関所跡 ↓
父与五左衛門が文政二年(1819年)五月二十日に死去したため、忠治は青年期に無宿となり、家督は弟の友蔵が継ぐこととなった。
弟の友蔵は養蚕のほか糸繭(いとまゆ:製糸用に供する繭)商を興し、無宿となった忠治を庇護している。
忠治や友蔵は長岡家の菩提寺である養寿寺で寺子屋を開く住職貞然に学んでいると考えられており、養寿寺には友蔵の忠治宛金借用証文も残されている。
その後忠治は上州勢多郡大前田村(現 群馬県前橋市)の博徒大前田英五郎の縄張りを受け継いで百々村(どうどうむら)の親分となり、日光例幣使街道、間宿の境町を拠点とする博徒で英五郎と敵対する島村伊三郎と対峙する。
↑ 大戸関所跡説明版 ↓
↑ 休憩所 ↓
忠治は伊三郎の縄張りを荒らし捕らえられたが、伊三郎から助命された。
しかし忠治は伊三郎に怨恨を抱き、子分の三木文蔵が伊三郎の一派と諍いをおこしたのをきっかけとして、天保五年(1834年)、忠治は伊三郎を殺しその縄張りを奪うと、関東取締出役に追われる身となり、一時関東取締出役の管轄外であった信州へ退去し、再び上州へ戻ると一家を形成。
以降一貫して長脇差、鉄砲などで武装し、赤城山を根城としてお上と戦い、関東通り者(広く世間に名の知られている者)の典型となった。
逃亡、潜伏を繰り返すうち、天保七年(1836年)信州の義弟兆平を殺した波羅七を討つため大戸(現 群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)の関所を破ったり、天保13年には博奕場を急襲した八州廻りの手先で二足の草鞋の三室勘助を、子分の板割浅太郎(忠治の甥)を使って殺すなど幕府のお膝元関八州の治安を脅かす不遜な存在となった。
この忠治の逃亡、潜伏を支えたのは一家の子分の力もあるが、忠治をかくまった地域民衆の支持もあった。
伝承によれば、天保七年(1842年)の飢饉(天保の大飢饉)に私財を投じて窮民に施したり、上州田部井村の名主西野目宇右衛門と語らい博奕のあがりで農業用水の磯沼をさらったりしたと云います。
忠治は弘化三年(1846年)に上州に帰還するがこのころには中風を患い、嘉永二年(1849年)には跡目を子分の境川安五郎に譲る。
忠治は上州に滞在し盗区(忠治が仕切る土地・縄張り)において匿われていたが、翌嘉永三年(1850年)八月二十四日には田部井村名主宇右衛門宅で療養中に関東取締出役によって捕縛され、一家の主要な子分も同じく捕縛された。
捕縛後は江戸の勘定奉行池田頼方の役宅に移送され取調べを受け、小伝馬町の牢屋敷に入牢。
博奕・殺人・殺人教唆等罪名は種々あったが、最も重罪である大戸関所の関所破りにより時の勘定奉行・道中奉行池田頼方の申し渡しによって上野国吾妻郡大戸村大戸関所に移送され、大戸処刑場で磔(はりつけ)の刑に処せられる。
そして十四度まで槍を受けて最後まで衆目を驚かせたという。享年四十一歳。
忠治の遺体は三日間晒された後に取り捨てられた。首を含めた遺体は何者かに盗まれ、国定村の養寿寺住職・法印貞然の「一札」によれば、貞然は忠治の首を密かに寺に貰い受け、供養したという。
その後、関東取締出役が探索を強化し、貞然は忠治の首を再び掘り起こすと別の場所に秘匿したという。貞然の「一札」によれば、戒名は「長岡院法誉花楽居士」。
忠治の十三回忌にあたる文久元年(1861年)には貞然が死去し、同年九月には大戸村の土屋重五郎・本宿村もしくは大柏木村の霞藤左衛門を世話人として、大戸刑場跡に忠治地蔵が造立された。
また、群馬県伊勢崎市曲輪町に所在する善應寺には忠治の妻・菊池徳が造立した「情深墳」があり、忠治の戒名を「遊道花楽居士」としている。
明治十五年(1882年)には長岡家の嗣子である権太により忠治夫妻の墓誌が建立され、碑銘は元伊勢崎藩の儒者・新井雀里が手がけている。
当時、忠治の対極にいた幕吏(代官)羽倉簡堂は「劇盗忠二小伝(赤城録)」を著して、凡盗にあらずして劇盗と評した。
幕府からは嫌われ者だった忠治も民衆からは大きな支持を受け、「強きをくじき、弱きを救う英雄」と称えられることとなりました。
死後の忠治は,時代が閉塞状況となるたびに国家権力と戦う民衆のヒーローとして映画や芝居などを通して甦ることとなり、現代でも身近なところでは「八木節」に歌われていたり、講談や演劇、大衆文学などのテーマとして取り上げられてきたことから、広くその名を知られ、語り継がれています。
また、「忠治の墓石を削って持ち歩くと賭け事のお守りになる」、「忠治の墓石を煎じて飲むと賭け事に強くなる」などの噂が広まり、墓参りに訪れて墓石を削って持ち帰る人が多くなってしまいました。
このため現在では柵で囲われ、触れることができなくなりました。墓石の表面は彫られた事で文字も判読できない状態になっております。
境内には忠治の墓所だけではなく、「国定忠治遺品館」があり遺品ご遺物のほか、忠治の実物大の木像と七百年前の薬師如来の木像があります。(境内案内板、Wikより)