空気清浄機
空気中に浮遊する塵埃や花粉、ハウスダスト等を除去するための機器。「空気清浄器」とも表記される。また、エアクリーナーともいう。
空気清浄機の歴史は19世紀はじめの産業革命当時のイギリスから始まったという。当時のエネルギー源は主に石炭であり、それを燃やすことによって出る煤煙の除去を目的として作られたと伝えられる。

それまで、空気を清浄にすることは換気によっていたが、清浄な空気を取り入れるべき場所も汚染されはじめたため、能動的に空中の汚染物質を取り除く必要に迫られたということである。

一方、日本における初の家庭用空気清浄機(フィルターを備えたもの)は1962年ごろ松下電器産業(現在のパナソニック)が発売した。

ときあたかも高度経済成長期の真っ只中であり、四日市ぜんそくなどの大気汚染による公害が社会問題となる前夜である。

これはイギリスにおけるロンドンスモッグ事件の前夜ともいえる時期に空気清浄機が出てきたことと一致する。
もちろん現在でもそうしたいわゆる大気汚染物質の除去のために用いられることも多いが、1980年ごろからは、これもやはり社会問題化した花粉症のために使われることが多くなった(高気密化した住宅における喫煙等の問題もある)。

しかし、近年のように多くの人が使うようになってきたのは、1990年ごろからである。
2003年の空気清浄機の普及率はおよそ23%とされ、これは10年前の2倍以上となっている。
ただ、毎年のように前年出荷を上回る成長を続けてきたが、スギ花粉飛散量が著しく少なかった2004年(2003年度)は前年を下回った。さまざまな需要があるとはいえ、やはり花粉症対策としての需要が大きい証拠といえる。
ここ数年の家庭用空気清浄機の動きとしては、従来の業務用を凌駕するほどの大風量タイプが出始めているのが特筆できる。

また、抗菌だけではなく、各種アレルゲンの分解・除去などを行うと称するものも増えており、空調家電というより、さながら健康家電と呼んだほうがいいほどの状況になりつつある。
朝霧
朝方に立ちこめる霧。霧は接地層で微細な水滴が大気中に浮遊する現象である。
日本の気象観測では水平視程1km未満の場合をいう。
雲との違い
通常、根本的な発生原因は大気中の水分が飽和状態に達したものなので、水滴の状態は雲と同じであると考えてよい。

雲との一番大きな違いは水滴の大きさなどではなく、両者の定義の違いである。すなわち、当現象は、大気中に浮かんでいて、地面に接しているものと定義され、地面に接していないものを雲と定義している。なお、山の地面に接する霧または雲のことをガスと呼ぶことがある。

靄(もや)との違い
本質的には霧と同じ現象だが、一般に霧よりも視程の広いものを靄と呼ぶ傾向にある。気象観測では視程が1km以上のものを靄と呼んで区別する。

霧の性質
霧が発生している状態では大気中に浮遊する水滴が光を散乱するために、大気は白く霞んで見え、視程(見通すことのできる水平距離)が狭くなる。

↑ 川原湯温泉の対岸(八ッ場ダム)川原畑地区 ↓
霧に十分に光が当たっているときは霧粒をはっきりと確認することができる[1]。通常、霧の中の相対湿度は100%に近く、湿っぽく冷たい感触の環境である。

靄(もや)の場合は相対湿度は通常70%以上になっているが100%にはならない。霧は通常白色だが工場地帯では煙と塵埃のために灰色や黄色になることがある。

↑ 山木館を八ッ場ダム側から見る 川原湯温泉側のダムサイト・案内板右端 ↓
ダムサイト
ダムサイトとは、ダム本体が造られる場所の事である。ダム本体周辺の事を指し示す場合もある。ダムサイトには管理所だけでなく、PR展示館や駐車場・トイレ・土産屋なども併設されている事もある。

日本最古のダム
日本のダムの歴史
日本におけるダムの歴史を時代ごとに詳述する。日本のダム事業史は616年頃に建設された狭山池より始まり、時代の変遷と共にダム建設の目的・技術・意義そしてダムを取り巻く様々な環境も変わっていく。

↑ なるほどやんば資料館 ↓
1964年(昭和39年)改訂の河川法・1976年(昭和51年)施行の河川管理施設等構造令に準拠して高さ15メートル以上のものを「ダム」と表記し、それ未満の高さを有する河川構造物については基本的に「堰堤(えんてい)」・「堰」と表記する。
また記事中における人物の肩書き、地域・自治体・組織・施設名は当時の名称を用い、「現在」という表記は2021年(令和3年)を基準とする。

日本におけるダム建設が何時頃から開始されたのかは、明確な資料がないために不明である。
中国大陸より弥生時代に稲作が伝来し、水田や畑地に用水を供給するための灌漑技術が次第に浸透したが、具体的に灌漑用のため池に関する記述が登場するのは『古事記』と『日本書紀』であり、特に5世紀に入ると渡来人であった倭漢氏が土木技術において先進的な技能を有していたと記されている。

↑ 八ッ場大橋を渡りなるほどやんば資料館へ ↓
仁徳天皇の時代に茨田堤や横野堤といった堤防が建設されたという伝承があり、渡来人または仏教を伝来した僧侶が中国大陸の最新土木技術を日本に伝え、次第にため池やダム建設技術が向上していったと考えられている。
「日本最古のため池」とされている奈良県奈良市に建設された蛙股池(かえるまたいけ)は162年に建設されたという説と607年推古天皇の治世下で建設されたという説があり、決着を見ていない。
こうした古代におけるため池建設において、21世紀の今に残る河川法上のダムは大阪府の狭山池(西除川)と香川県の満濃池(金倉川)がある。

狭山池の建設
『日本書紀』によれば崇神天皇が「今、狭山の田圃は水が少ない。それでその国の農民は農を怠っている。そこで池や溝を掘って民の生業を広めよう」という詔を発した。
また『古事記』では垂仁天皇の子の印色入日子命が狭山の池を作った。しかし記紀には狭山池の規模や構造は何も記述されておらず、従ってダムとしての狭山池の明確な建設時期は長らく不明であった。
建設時期についての調査に具体的な進展を見たのは「平成の大改修」と呼ばれる狭山池ダム再開発事業が1980年(昭和55年)から2001年(平成13年)に掛けて施工された時であった。
この事業は灌漑専用目的の狭山池をダムかさ上げと貯水池掘削によって貯水容量を増大させ、洪水調節目的を持たせるというものであったが、この事業において発掘された木製の樋管を年輪年代測定法で測定した結果、616年に伐採された木材であったことが判明し、ダムとしての狭山池の建設時期は7世紀前半とする説が現在有力である。
しかし一般に水利構造物は継続して使用される上に風雨洪水にさらされるため自ずから耐用年数を有し長期的には廃棄と更新が繰り返されるものであるため、616年に伐採された木材で作られた樋管がダム創設当時のものか、廃棄後の更新時のものかは不明であり、創築時期に関して4世紀から7世紀の改修記録が残る時期まで幅広い説がある。
狭山池は645年の大化の改新により公地公民制を打ち出した大和朝廷によって直轄管理され、いわゆる国直轄ダムの端緒にもなった。
732年(天平4年)には狭山下池の改修が行われたが、この時に改修の総指揮を執ったのが後に東大寺大仏の建立にも関わり、聖武天皇の信頼を得て大僧正にまで上り詰めた行基である。
しかし762年(天平宝字6年)に狭山池の堰堤が決壊、延べ8万3000人を動員して修復が行われた。その後狭山池は幾つかの記録に残され、清少納言は『枕草子』の「池は」の段で「狭山の池」に言及している。
鎌倉時代に入ると、狭山池は1202年(建仁2年)に大改修が実施されるが、この総指揮を執ったのは平重衡による焼き打ちに遭った東大寺の再建に尽力した重源である。
以後安土桃山時代まで狭山池に関する記録はなくなるが、江戸時代に入り再び大改修(慶長の大改修)が行われた。
関ヶ原の戦いで天下人の後継者から摂津国・河内国・和泉国68万石の大名に転落した豊臣秀頼の家老・片桐且元が奉行となって堰堤基礎の補強や樋管の交換がなされている。
豊臣氏が大坂夏の陣で滅亡した後狭山池は河内狭山藩主となった後北条氏が一旦支配するが、1699年(元禄12年)から1721年(享保6年)、および1749年(寛延2年)に江戸幕府の天領となり再び国直轄ダムとなった。
明治以降は1904年(明治37年)、1926年(大正15年/昭和元年)にそれぞれ改修され、2001年平成の大改修を経て現在に至る。狭山池は完成から1,400年近く経過しているが現役で運用されている日本最古のダムである。







