地蔵菩薩
サンスクリット語でクシティ(大地)・ガルバ(胎内)。大地のように広い慈悲で人々を包み込んでくださる菩薩様とされている。


 

↑ 巣鴨 真性寺と旧中山道 ↓

 

ここ旧中山道を通る旅人の中には弁当を食べるため、街道沿いの農家に立ち寄り、縁側を使わせてもらう人などもいました。

旅人は、農家の庭先や土間で見慣れない野菜を見かけると、国元で栽培しようと、種子を欲しがる人も多く、やがては農家の副業として種子を販売するようになりました。

その後、江戸・東京が生んだ滝野川ゴボウ、滝野川ニンジンなど優れた野菜が出現すると、種子を扱う専門店ができ、明治の中期には巣鴨のとげぬき地蔵から板橋区清水町にいたる約6キロの間にタネ屋問屋が9戸、小売店が20戸も立ち並ぶ、タネ屋街道になっていました。

寛永20年(1643)の代官所に申告した書き付けに、長野県諏訪の種の行商人が榎本種苗店(豊島区西巣鴨)に仕入れにきた模様が記されています。

馬12〜3頭を曳いて種子を仕入れ、帰り道「萬種物」の旗を立て街道筋の種子問屋に卸していったり、農家に販売して歩くなど、さながら富山の薬売りと同じように種子も行商により商われていました。

 


仏教では、釈迦が入滅して(死んで)から56億7000万年後に弥勒菩薩が現れ、悟りを開いて人々を救うと考えられている。


巣鴨 真性寺
東京都豊島区巣鴨にある真言宗豊山派の寺院。山号は医王山。院号は東光院。本尊は薬師如来。眞性寺とも表記される。


 

↑ 参道と弘法大師一千五拾年・興教大師七百五拾回供養塔 ↓

 

 

↑ 弘法大師一千五拾年・興教大師七百五拾回供養塔
弘法大師・空海は、真言宗の開祖。興教大師・覚鑁は、真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖です。
 

江戸六地蔵尊開眼三百年祭 ↓

 



歴史
この寺の創建年代等については不詳であるが、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開いたことが伝えられている。江戸時代に入り元和年間(1615年~1624年)に中興されている。

 

江戸時代には江戸六地蔵の第四番が安置され、また江戸幕府8代将軍徳川吉宗もたびたびこの寺に立ち寄ったとされる。


 

↑ 真性寺地蔵菩薩坐像と真性寺本堂 ↓

 


文化財
銅像地蔵菩薩坐像 - 東京都指定有形文化財(彫刻)
正徳4年(1714年)に造られた、江戸六地蔵の4番目(巡拝では3番目)。

 

頭部は前後に、体部は15個の部材に分けて鋳造し、鋳掛けや鋲止めなどで接合している。

 

このように別々に鋳造した部材同士を組み上げる技法は、江戸時代の大型像によく見られ、像の制作や運搬の労力を減らすことが出来る合理的で優れた技法である。

 

毎年6月24日には、江戸六地蔵の供養のために「百万遍大数珠供養」が行われる。

 

↑ 本堂と山門 ↓

本堂
薬師如来像としていますが、古来より秘仏として一切開扉されていません。

 

山門
眞性寺の山号は醫王山で、奈良県桜井市初瀬にある総本山長谷寺の末寺です。

 


江戸六地蔵尊
本堂左手の「銅造地蔵菩薩坐像」は、高さ2m68cm、蓮花台を含めると3m45cmの大きさがあり、江戸六地蔵の一つとなっています。

 

↑ 真性寺地蔵菩薩坐像由来 ↓

 


深川の地蔵坊正元が病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒し、お礼として江戸の出入口6箇所に京都の六地蔵に倣って造立したものが江戸六地蔵です。

 

1706年に発願し、江戸市中から広く寄進者を得て1720年に結願しました。
 

 

江戸六地蔵尊
本堂左手の「銅造地蔵菩薩坐像」は、高さ2m68cm、蓮花台を含めると3m45cmの大きさがあり、江戸六地蔵の一つとなっています。

 

 

 

↑ 子育て地蔵 ↓

 

 

眞性寺に造立されたのは4番目の1714年ですが、巡拝としては第三番となっています。

第一番 品川寺 品川区(東海道)

第二番 東禅寺 台東区(奥州街道)

第三番 真性寺 豊島区(中仙道)

第四番 太宗寺 新宿区(甲州街道)

第五番 霊巌寺 江東区(水戸街道)

第六番 永代寺 江東区(千葉街道) 

 

 

尚、江東区永代寺の第六番は現在の富岡八幡宮の二の鳥居付近にありましたが、明治になって出された神仏分離令に基づく廃仏毀釈によって永代寺が廃寺になり、取り壊されてしまったために現存していません。

 

現存する第一番から第五番まではすべて東京都指定の有形文化財です。

 

 

↑ 真性寺山門と本堂を道路に出てみる ↓

 

 

眞性寺は当時からここに位置しており、周辺の道街道沿いには数多くの「茶屋」が点在していたようです。

 

 

「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる現在の巣鴨の原型は明治24年に「とげぬき地蔵尊」として知られる高岩寺が上野から移転してくると、この辺りは商業や信仰の街となりました。

 

 

眞性寺の創建については不明ですが、奈良時代に聖武天皇の勅願により行基菩薩が開いたと伝えられています。

 

 

↑ 社務所 ↓

 

 

 

江戸時代の初期に再興されると1714年に4番目の江戸六地蔵が安置され、また八代将軍の徳川吉宗が鷹狩を行う際にたびたび立ち寄ったとされています。
 

 

 

↑ 阿弥陀堂前石仏群と納経印 ↓

 

 

 御朱印(納経印)左9月7日巣鴨真性寺 右8月16日高崎少林山達磨寺 

 

朱印帳と納経帳の違い。
朱印帳は通常一冊に色々な寺社・神仏の朱印を納めます。

それに対し納経帳は霊場巡礼専用のもので、その霊場札所に参拝しお経を(読経や写経などで)奉納してご縁を結びましたよ、という証になります。
2度、3度…と巡礼を重ねると、納経帳に参拝の回数だけ印が重ねられていきます(重ね印)。

 

 

↑ 境内の記念碑 芭蕉の句碑 ↓

「志ら露も 古保連ぬ萩の う禰里哉」これは、白露もこぼれぬ萩のうねりかな
というものです。

この句碑は、寛政5年(1793)の芭蕉の百年忌に、彩茶庵梅人(さいとあんばいじん)とその社中によって建てられたものといわれます。

 

芭蕉十哲の一人、杉山杉風の「萩植えて ひとり見習う 山路かな」の句も裏面に刻まれています。
 

 

 

↑ 弘法大師 巣鴨町長石井君碑 ↓

 

弘法大師

一千五拾年・興教大師七百五拾回供養塔

 

巣鴨町長石井君碑
明治期に旧巣鴨町の町長を21年間務められた石井小兵衛(いしいこへえ)という方を顕彰した碑。