影向堂
これはなかなか読めないと思いますが、「ようごうどう」と呼びます。

 

 

↑ 浅草寺本堂から影向堂を見る ↓

 

 

 

↑ 影向堂(御朱印所)案内図  ↓

 

 


観音さまをお助けする十二支の守り本尊のお堂

本堂の北西に建つ、寄棟造りの堂宇が影向堂である。現在の影向堂は、平成6年(1994)に浅草寺中興開山慈覚大師円仁さまのご生誕1200年を記念して建立された。



影向とは、神仏が姿かたちとなって現れることである。浅草寺では、観世音菩薩のお説法やご活躍に不断に協力されている仏さまを「影向衆」と呼び、影向堂に生れ年(干支)ごとの守り本尊八体(影向衆)を祀る。



堂内は内陣と外陣に分かれ、内陣の須弥壇中央には聖観世音菩薩を祀り、その左右に千手観音、虚空蔵菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、勢至菩薩、大日如来、不動明王、阿弥陀如来を祀る。



また、外陣には浅草名所七福神の大黒天を祀っている。影向堂は当山の朱印所であり、参拝証としてご本尊の聖観世音菩薩と大黒天のご朱印をお授けしている。


境域には、元和4年(1618)に架設された石橋、青銅製の阿弥陀如来(元禄6年=1693)、宝篋印塔(宝暦11年=1761)など古い文物が多く存在する。

本堂東南にあったお堂(現淡島堂)に替わって平成6年(1994)10月20日現在地に落慶。

鉄筋コンクリート寄棟造、錣屋根本瓦葺 間口13.3m・奥行13.3m・棟高12.9m・軒長19.7m

棟飾り    写真:浅草名所七福神の大黒天金箔押の「鴟尾(しび)」。長さ0.7m・高さ0.8m・幅0.3m 「阿吽(あうん)」の龍がそれぞれ浮彫りされている。

鴟尾を取り付ける時には、不思議と雨を呼ぶといわれている。平成6年(1994)の夏は記録的な日照りの年であったが、この鴟尾を取り付けるとその後、恵みの雨がもたらされた。


西仏板碑(さいぶついたび)
中央上部に大きく釈迦如来を表す種字を配し、その下に蓮台に立つ地蔵菩薩と蓮華を生けた花瓶、右側には童子像、下部には西仏が家族の今世と来世における幸福を願う文章が刻んであります。

建立者の西仏については、『吾妻鏡』建長五年(1253)八月廿九日条で下総国下河辺荘の築堤工事を命じられた奉行人「鎌田三郎入道西仏」のことだと考えられていました。しかし、ほかにも何人か候補がおり、詳しく分かっていません。


 


三尊名号供養塔
正面に南無阿弥陀仏 右に観世音菩薩 左に大勢至菩薩と刻まれている阿弥陀三尊に由来する供養塔。

文政10年(1827年)に江戸屏風坂下(上野)の鹿島屋弥兵衛が菩提を弔うために寄進したものだそう。


 


仏頂尊勝陀羅尼碑
19世後半に真言宗の僧が建立したものです。当時は浅草寺は天台宗。宗派を超えて受け入れています。「

仏頂尊勝陀羅尼」は尊いお経で唱えると御利益が授かるとして人々に受け入れられました。
碑の文字は梵語で人々に見て詠んでもらうものではないようです。大きな石には人々への御利益を願ったのことです。


 


金龍権現・九頭龍権現
寺伝の縁起によれば、浅草寺ご本尊観音さまのご示現にあたり、天より百尺ばかりの金龍が舞い降りて、その功徳を讃え観音さまをお守りしたとされることから、浅草寺の山号を「金龍山」という。これにより奉安されたのが、この「金龍権現」である。


この九頭龍権現は長野県戸隠山の地主神で、昭和33年(1958)の本堂再建にあたって、その成就を祈るべく勧請された。現在も浅草寺の伽藍安穏の守護神である。

 

 

↑ 金龍権現・九頭龍権現 ↓

 



六地蔵石灯籠
高さ180 ㎝余りで、六角形の火袋の各面に地蔵像が彫ってあります。しかし、現在では地蔵像も文字もほとんど風化し、火災に遭っていることもあり、判読できません。



都内に現存している石燈籠の中でも、最も古い時代の制作に属するものの一つであると考えられています。



銅造観音座薩
銅製、鋳造で、総高が208.4センチメートル、像高は100.2センチメートルあります。



銘文によると、宝暦年中(1751から1764)に室生寺の僧、快心が発願し、江戸の鋳物師いもじ粉川市正こかわいちのかみが制作して榧寺の本堂前に安置したものです。

また文政10年(1827)には本像と石壇の修理が行なわれました。修理にあたっては、丸山佐助が多くの勧募を募り、やはり江戸の鋳物師、多川民部たがわみんぶが修理を行ないました。



粉川市正は江戸神田を拠点に、18から19世紀にかけて活躍した鋳物師です。作例は多く、元禄12年(1699)銘鐘(大長寺[神奈川県開成町])から明治4年(1871)銘銅灯篭(増上寺[港区])まで、全国的に100例以上が知られます。


代々粉川市正を名乗り宗信、宗次、国信、甫信など5から7代ほど続いたと考えられ、本像を制作したのは、他の作例から粉川市正藤原宗信と推定されます。

一方、多川民部は正徳年間(1711から1716)以降、作例が確認できる鋳物師で、神田鍛冶町3丁目に住しました。遺例は僅かであることから、本像は多川民部の活動を知る貴重な資料です。


本像は、台座に刻まれている銘文から、奉納者、制作者、制作年代などを知ることができます。

本像は江戸を代表する鋳物師の作風を伝えるものとして貴重な遺品であり、江戸時代の鋳物師を考える上で基準となる作例のひとつです。