半七塚の碑
捕り物小説の生みの親、岡本綺堂を記念して、捕り物作家クラブ同人が昭和24年に建立。

 

岡本綺堂(おかもと きどう、1872年11月15日(明治5年10月15日) - 1939年3月1日)は、小説家、劇作家。本名は岡本 敬二(おかもと けいじ)。

別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。新歌舞伎の作者として知られ、また著名な作品として小説「半七捕物帳」などがある。

 

 


↑ 高橋石斎の碑
江戸後期-明治時代の武士、書家。文化14年生まれ。名は豊珪。
字は子玉。別号に煙岳。

父に二刀流を学び、尾張名古屋藩の撃剣師範になる。

のち江戸にでて書家として名をあげた。明治5年死去。56歳。遺族の願いにより建立。熊谷武五郎氏の撰文。

一葉観音像(石造) ↓
文政9年(1826)花隠道人司直が上屋田寉子女の貞節を賞して建碑。

 


↑ 瓜生岩子女子銅像 ↓
岩子は通称。正しくは”岩”という。
文政12年(1829)2月15日、岩代耶麻郡(いわしろやまぐん/現在の福島県耶麻郡)熱塩村渡辺家に生れたが、9才の時、父を失い、母は岩を連れて生家へ帰った。

そのため、岩は母方の姓瓜生氏を称した。14才の時、若松(現福島県会津若松市)の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を勤める山内春瓏(しゅんろう)の薫陶を受け、堕胎間引きの防止に関心を持つに至る。

17才で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み、一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。
明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、明治22年貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努めた。

明治30年(1897)4月19日、福島で没す。享年69。
生涯を慈善事業に捧げた岩の善行を賞揚し、明治34年4月、篤志家によって、浅草寺境内にこの銅像が造立された。

台石正面には、下田歌子女史の撰文を刻む。平成8年(1996)7月 台東区教育委員会


 

 

↑ 戸田茂睡の寿碑(都旧跡) ↓
五輪塔をかたどった逆修碑が戸田茂睡寿碑。1705年建立。当初は牛込万昌院にあったが、佐佐木信綱らにより1917年に浅草寺奥山庭園に移された。



茂睡は江戸時代初期の歌人で通称を八兵衛といい、梨本庵または寒露軒と号した。

 

1629年、徳川氏の家臣渡辺忠の子として誕生して1706年死去するまでに歌論「梨本集」五巻や江戸の地誌を書いた「紫の一本」など、多くの著書を残す。



一時は叔父戸田藤右衛門に養われ、のち木田忠国に仕えて300万石を給されたこともあったが、1671年に浅草手向野へと移り住んで草庵を結んだ。

 

「塵の世と思う心の積もりては身の隠れかの山となりける」とよみ、隠れ家の茂睡と時の人々に呼ばれていた。