桜咲く上野恩賜公園へを再開します(3月30日撮影)。
東京藝術大学
国立学校設置法の公布施行により、東京美術学校(現在の美術学部)、東京音楽学校(現在の音楽学部)を包括して、昭和24年5月に設置され、美術学部(絵画科・彫刻科・工芸科・建築科・芸術学科)、音楽学部(作曲科・声楽科・器楽科・指揮科・楽理科)の2学部10学科と附属図書館が置かれました。
↑国立博物館前から辯天堂へ向かう途中、東京芸大美術学部と音楽学部の正門が↓
その後何度かにわたって学部の拡充改組が行われ、現在は美術学部(絵画科・彫刻科・工芸科・デザイン科・建築科・先端芸術表現科・芸術学科)、音楽学部(作曲科・声楽科・器楽科・指揮科・邦楽科・楽理科・音楽環境創造科)の2学部14学科と、附属図書館、大学美術館、演奏芸術センター等の施設で構成されています。
↑ 同じく都立上野高校の前を通過します ↓
東京都立上野高等学校
上高の通称で呼ばれている。1924年に関東大震災後の学校不足解消のために、旧東京市が第二東京市立中学校として開校 。
上高の通称で呼ばれている。1924年に関東大震災後の学校不足解消のために、旧東京市が第二東京市立中学校として開校 。
学校は上野公園の端、東京芸術大学と上野動物園に接しており、東京大学本郷キャンパスからも徒歩圏の文教地区内に位置する。
立地の良さを生かし、それら近隣の文化施設への訪問を授業や課外活動や進路指導に取り入れている。
森鷗外と水月ホテル
森鷗外は、「舞姫」「雁」「阿部一族」「高瀬舟」など、今も読み継がれる数々の名作を生み出した明治の文豪。
森鷗外は、「舞姫」「雁」「阿部一族」「高瀬舟」など、今も読み継がれる数々の名作を生み出した明治の文豪。
幕末の津和野藩に御典医の息子として生まれた鷗外は、幼少時代から学業優秀、神童と呼ばれて育ちます。
19歳8ヵ月という若さで東大医学部を卒業、陸軍軍医となり、ドイツへ留学します。
帰国後、28歳の時に、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、上野花園町の赤松家の持家に住みます。水月ホテル所有の鷗外荘。
ここで「舞姫」をはじめ、「うたかたの記」「於母影」などの作品が執筆されました。
↑ 上野不忍池弁天堂と上野動物園弁天門 ↓
不忍池辯天堂
江戸初期の寛永年間に、天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。
天海大僧正は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していきました。
これは、寛永寺というお寺を新しく創るにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味します。
これは、寛永寺というお寺を新しく創るにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味します。
例えば「寛永寺」というお寺の名称は、「寛永」年間に創建されたことからついたのですが、これは「延暦」年間に創建された天台宗総本山の「延暦寺」というお寺を見立てたものです。
こうして天然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、また元々あった聖天(しょうてん)が祀られた小さな島を竹生島に見立て、さらに水谷伊勢守(みずのやいせのかみ)勝隆(かつたか)公と相談して島を大きく造成することで竹生島の「宝厳寺(ほうごんじ)」に見立てたお堂を建立したのです。
琵琶湖と竹生島に見立てられたお堂であったため、当初はお堂に参詣するにも船を使用していたのですが、参詣者が増えるにともない江戸時代に橋がかけられました。
昭和20年の空襲で一帯は焼けてしまいましたが、お堂は昭和33(1958)年に復興し、また昭和41(1966)年には芸術院会員であった児玉希望(こだまきぼう)画伯による龍の天井絵が奉納されました。
↑ 長谷川利行の碑 ↓
石碑とは
人類が何らかの目的をもって銘文(碑文ともいう)を刻んで建立した石の総称。
人類が何らかの目的をもって銘文(碑文ともいう)を刻んで建立した石の総称。
「碑(いしぶみ)」ともいう。墓石としてなど他の目的を持たず、銘文を刻むこと自体を目的とするものをいう(ただし、英語の stele の場合は、木製のものや墓碑も含む場合がある)。
なお、何かの記念として建てられたものを記念碑(きねんひ)、和歌・短歌や歌の歌詞を刻んだものを歌碑(かひ)、俳句を刻んだものを句碑(くひ)、詩を刻んだものを詩碑(しひ)という。
↑ 八橋検校顕彰碑 ↓
十二世杵屋
↑ ふぐ供養碑 ↓


























