エルゥイン・ホン・ベルツとジュリウス・スクリバ

 

 

↑ 西の河原には至る所に足湯が有ります ↓

 

 

 

 

 

↑ 好天の日でも高温泉の湯気が立ち上り、冬季は湯気だらけになります ↓

 

 

 

 

 

 

西の河原(公園の中ほど、少し小高くなった所に温泉客を見下ろすように、2体の胸像が佇んでいます。
左がベルツ博士、右がスクリバ博士。
 
 
ドイツの著名な医学者ベルツ博士は、1878年に草津温泉を訪れて以来、度々草津を訪れては時間湯や泉質を熱心に研究し、草津を世界に紹介しました。
 
エルヴィン・フォン・ベルツ(1849年1月13日 - 1913年8月31日)
 

ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。
27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くした。滞日は29年に及ぶ。
 
草津温泉との関わり
草津温泉を再発見、世界に紹介した人物でもある。
1878年(明治11年)頃より草津温泉を訪れるようになり、「草津には無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。
 
もしこんな土地がヨーロッパにあったとしたら、カルロヴィ・ヴァリ(チェコにある温泉)よりも賑わうことだろう」と評価する。
 
 
1880年(明治13年)、別爾都(ベルツ)著『日本鑛泉論』(中央衛生会、1988)を発刊。日本には多くの温泉があり療養に利用されているが、これを指導する機関がない。政府は温泉治療を指導すべきであると説いている。
 
1890年(明治23年)、草津に約6000坪の土地と温泉を購入、温泉保養地づくりをめざす。
1896年(明治29年)、草津の時間湯を研究した論文「熱水浴療論」が『ドイツ内科学書』に収蔵される。
 
草津温泉にはベルツの名を冠した「ベルツ通り」がある(2014年現在)。
ベルツは大変な健脚で噴火直後の草津白根山にも登頂したことがあり、その際の手記は現在でも貴重な火山学的資料になっている。
 
伊香保温泉には別荘を構えて友人知人と幾度となく訪ねた。
 
日本の天皇家や高官の別荘地葉山との関係
澤村修治によると、明治天皇は殆ど皇居内で過ごし避暑、避寒はされなかったが、後に大正天皇になる嘉仁親王の健康が思わしくなく、侍医となったベルツが転地保養を勧めた。
 
有栖川宮熾仁親王はイタリア公使マルチーノの別荘に明治22年に訪れている。親王は明治24年に別邸を作り、皇太子もそこに訪れている。葉山の御用邸が作られたのは明治26年であり翌年1月完成した。
 
 
蒙古斑
ベルツの医学的貢献でよく知られているのは1885年(明治18年)の蒙古斑の命名である。
ベルツ水
1883年(明治16年)、箱根富士屋ホテルに滞在中、女中の手が荒れているのを見たのをきっかけに、「ベルツ水」を処方する。
 
ジユリウス・カール・スクリバ(1848年6月5日 - 1905年1月3日)
ドイツの外科医。明治期のお雇い外国人で日本における西洋医学の発展に重要な貢献をした。
 
 
1870年代はじめ日本の明治政府はヨーロッパで最も進んでいると考えたドイツ医学界から、医学教育を革新するために医師の派遣を要請し、レオポルト・ミュルレル、テオドール・ホフマンらが招かれ、内科のエルヴィン・フォン・ベルツとジュリウス・スクリバはその次の世代として日本の医学教育に貢献した。
 
1881年7月6日から東京帝国大学で外科、皮膚科、眼科、婦人科を教えた。契約の満了によりドイツに一度戻るが、契約は1889年9月2日から1901年9月10日までに延長されたため再来日する。
 
1892年に日本における頭蓋陥没骨折治療のために頭蓋骨切除の手術を行った。後に日本の外科学をリードする外科医を育成し、助手の三宅速などが著名である。
 
ドイツ大使館の医師を務め、1901年に退職した後は聖路加病院の外科主任を務めた。日本外科学会の名誉会員、東京大学の名誉教授となった。
 
下関で、下関条約締結のために来日していた清国の李鴻章負傷事件、ロシア帝国の皇太子ニコライが負傷した大津事件などで、日本政府の要請により現地に出張した。
 
水原 秋桜子(みずはら しゅうおうし、明治25年10月9日-昭和56年7月17日)
日本の俳人、医師・医学博士。秋櫻子とも表記する。
 
 
本名は水原豊(みずはら ゆたか)。松根東洋城、ついで高浜虚子に師事。短歌に学んだ明朗で叙情的な句風で「ホトトギス」に新風を吹き込んだが、「客観写生」の理念に飽き足らなくなり同誌を離反、俳壇に反ホトトギスを旗印とする新興俳句運動が起こるきっかけを作った。
「馬酔木」主宰。別号に喜雨亭。

東京市神田区猿楽町(現・東京都千代田区神田猿楽町)に代々産婦人科を経営する病院の家庭に生まれる。
 
父・漸、母・治子の長男。獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)、第一高等学校を経て1914年に東京帝国大学医学部へ入学。
 
血清化学研究室を経て1918年同医学部卒業。1919年、吉田しづと結婚。1928年に昭和医学専門学校(現・昭和大学)の初代産婦人科学教授となり、講義では産科学を担当、1941年まで務めた。
 
また家業の病院も継ぎ、宮内省侍医寮御用係として多くの皇族の子供を取り上げた。

 
 
 
 
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