ベトナム共産党のD67地上・地下会議室
冷戦時代の軍司令部であるD67地上・地下会議室があります。
 
この建物は、冷戦時代に北ベトナムがソ連の支援を受けて建てられたものだそうです。
共産党の軍司令部の本拠地は、地上部分では無く地下にあります。
 
地下に続く階段を下っていくと、頑丈な鉄の扉に閉ざされた会議室がいくつかありました。
会議室内には、ベトナム軍がアメリカ軍から奪い取ったウォーターボトルが展示されていたり、かつて実際に使われていた通信機器や地図が展示されています。
 
 
↑ 軍司令部の本拠地は地下に ↓
 
 
 
ベトナム戦争
インドシナ戦争後に南北に分裂したベトナムで発生した戦争の総称。
第二次インドシナ戦争ともいわれた。

アメリカ、韓国の他にSEATO(東南アジア条約機構)の主要構成国であるタイ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドが南ベトナムに派兵した。
 
ソビエト連邦や中華人民共和国は、北ベトナムに対して軍事物資支援を行うとともに多数の軍事顧問団を派遣したが、アメリカやSEATO諸国のように前面に出る形での参戦は行わなかった。
 
 
 
 
北朝鮮は飛行大隊を派遣し、ハノイの防空を支援した。
ベトナム戦争を巡って世界各国で大規模な反戦運動が発生し、社会に大きな影響を与えた。
 
 
 
 
 
 

旧北ベトナム、現在のベトナム社会主義共和国では米国戦争、対米抗戦、抗米救国戦争などと呼ばれる。
 
ベトナム戦争は宣戦布告が行われなかったため、戦争がいつ開始されたかについては諸説ある。
 
この戦争は、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソビエト社会主義共和国連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との間に、第二次世界大戦後に生じた対立(いわゆる冷戦)を背景とした代理戦争でもあった。
 
ホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)側は、南ベトナムを「アメリカ合衆国の傀儡国家」と規定し、共産主義イデオロギーを背景に、ベトナム人による南北ベトナム統一独立国家の建国を求めるナショナリズムに基づく植民地解放戦争であるとした。
 
 
 
 
 
 
 
戦争の影響
1960年よりベトナム人同士の統一戦争として開始され、その後アメリカ合衆国が軍事介入し、15年間続いた戦争によって、南北ベトナム両国は500万の死者と数百万以上の負傷者を出した。
 
このことは、掲げる政治理念や経済体制にかかわらず、労働力人口の甚大な損失であり、戦後復興や経済成長の妨げとなった。
 
アメリカ軍の巨大な軍事力による組織的な破壊と、北ベトナム軍や南ベトナム解放戦線による南ベトナムに対する軍事活動やテロにより国土は荒廃し、破壊された各種インフラを再整備するためには長い年月が必要であった。
 
また、共産主義政権による武力統一、および統一後の性急な社会主義経済の施行は、フランス統治時代より活発に行われていた資本主義経済と、それがもたらす消費文化に長年慣れ親しんだ南ベトナム経済の混乱を招いた。
 
また統一後の言論統制などが都市富裕層や華人の反発を招き、その後多くのベトナム難民(ボートピープル)を生む理由となった。
 
一方で、南北間には対立があり、例えば取り残された南ベトナム人は乗り込んできた北ベトナム軍によって、家屋敷や公共施設は接収され警察、病院、学校などは全て北ベトナム人が要職を支配した。
 
さらに南ベトナム人の家屋敷を召し上げ北の要人がそこに住むに至って、南ベトナム人の北ベトナム人に対する悪感情は強いと言う。
 
 
 
↓  D67地上会議室正面
 
 
 
 皮に太極図を模した大太鼓・ハノイの建都1000周年記念に贈られた亀の像が置かれている ↓
 
 
 
アメリカはこの戦争で、延べ250万人以上の兵士を動員して5万8,718人の戦死者と約2,000人の行方不明者にこれに負傷者を加えるとおよそ30万人を超える人的損失を出した。
 
またアメリカは、旧南ベトナム政府や軍の首脳陣、そして南ベトナムから流出した華人、および政治的亡命者などのボートピープルや難民を受け入れた。
 
テレビ放送が普及したのちでは、最初に勃発した大規模戦争だったため、それ以前の戦争と異なり、戦争の被害が、その日のうちにテレビ番組で報道され、戦場の悲惨な実態を全世界に伝えた。
 
アメリカ国内では、史上例を見ないほど草の根の反戦運動が盛り上がり、「遠いインドシナ半島の地で、何のためにアメリカ軍兵士が戦っているのか」という批判がアメリカ合衆国連邦政府に集中した。
 
青年層を中心に『ベトナム反戦運動』が広がり、ヒッピーやフラワーピープルなど、カウンターカルチャーが興隆した。