水墨画
ベトナム紀行・其の62
トゥアンチャウ国際港を出航(写真は全て2016年10月17日撮影)

彫刻作品のような島々の景観は、太陽の位置によって輝きが変化し、雨や霧によってまた趣のある雰囲気を醸し出す。
 
地質学的には北は桂林(中国広西チワン族自治区)から、南はニンビンまでの広大な石灰岩台地の一角である。

石灰岩台地が沈降し、侵食作用が進んで、現在の姿となった。
この景観を見ていると「水墨画」を連想する。

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同一写真の一方を「グレー」にしてそんな雰囲気を比較してみました。

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水墨画とは、「墨」一色で表現される絵画で、墨線だけでなく、墨を面的に使用し、暈かしで濃淡・明暗を表す。墨絵(すみえ)とも言う。

中国で唐代後半に山水画の技法として成立し、宋代には、文人官僚の余技としての、四君子(梅兰竹菊)の水墨画が行われた。

また、禅宗の普及に伴い、禅宗的故事人物画が水墨で制作された。明代には花卉、果物、野菜、魚などを描く水墨雑画も描かれた。

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日本には鎌倉時代に禅とともに伝わった。日本に伝わった絵画は、『達磨図』・『瓢鮎図』などのように禅の思想を表すものであったが、徐々に変化を遂げ、「山水画」も書かれるようになった。

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初期水墨画
中国における水墨画表現は唐時代末から、五代~宋時代初め(9世紀末~10世紀)にかけて発達した。

中国の水墨画が写実表現の追求から自発的に始まったものであるのに対し、日本の水墨画は中国画の受容から始まったものである。

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日本における水墨画の受容と制作がいつ頃始まったかは必ずしも明確ではない。すでに12世紀末頃の詫磨派の仏画に水墨画風の筆法が見られるが、本格的な水墨画作品が現れるのは13世紀末頃で、中国での水墨画発祥からは4世紀近くを経ていた。

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13世紀末から14世紀頃までの日本の水墨画を美術史では「初期水墨画」と呼んでいる。水墨画がこの頃盛んになった要因としては、日本と中国の間で禅僧の往来が盛んになり、宋・元の新様式の絵画が日本にもたらされたことが挙げられる。

13世紀になり、無学祖元、蘭渓道隆らの中国禅僧が相次いで来日した。彼らは絵画を含め宋・元の文物や文化を日本へもたらした。

鎌倉にある円覚寺の仏日庵の所蔵品目録である「仏日庵公物目録」(ぶつにちあんくもつもくろく)は、元応2年(1320年)に作成された目録を貞治2年(1363年)頃に改訂したものであるが、これを見ると、当時の円覚寺には多数の中国画が所蔵されていたことが分かる。

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日本の初期水墨画は、絵仏師や禅僧が中心となって制作が始められた。
師資相承(師匠から弟子へ仏法を伝える)を重視する禅宗では、師匠の法を嗣いだことを証明するために弟子に与える頂相(ちんぞう、禅僧の肖像)や禅宗の始祖・達磨をはじめとする祖師像などの絵画作品の需要があった。

この時期に制作された水墨画の画題としては、上述の頂相、祖師像のほか、道釈画(道教および仏教関連の人物画)、四君子(蘭、竹、菊、梅を指す)などが主なものである。

なお、水墨画と禅宗の教義とには直接の関係はなく、水墨画は禅宗様の建築様式などと同様、外来の新しい文化として受容されたものと思われる。

鎌倉時代の絵巻物に表現された画中画を見ると、当時、禅宗以外の寺院の障子絵などにも水墨画が用いられていたことが分かる。

14世紀の代表的な水墨画家としては、可翁、黙庵、鉄舟徳済などが挙げられる。可翁については作品に「可翁」の印が残るのみで伝記は不明だが、元に渡航した禅僧の可翁宗然と同人とする説が有力である。

黙庵は元に渡り、同地で没した禅僧である。鉄舟徳済は夢窓疎石の弟子の禅僧で、やはり元に渡航している。
出典・ウィキペディアフリー百科事典。

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