ベトナム紀行・其の47

バッチャン村
レンガ遺跡に見られるように建築にすぐれ海上交易を中心とした商業活動で財をなした王国。中世日本との交易も活発であった。

古代
西暦734年遣唐使判官・平群広成が帰国の途上、難破して崑崙こんろん、クンルン)国に漂流し抑留された。フエ付近に都があったチャンパ王国と考えられる。

チャンパ王国は、ベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在したオーストロネシア語族を中心とする王国。

その主要住民の「古チャム人」は今日のベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。中国では唐代まで林邑と呼び、一時環王国と自称したが、宋代以降は占城と呼んだ。

広成はその後、中国に脱出し、渤海経由で帰国している。反対に、チャンパ王国からは仏哲という僧侶が736年(天平8年)に日本に渡って、東大寺で法要を読んでいる。

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↓ 作業員の昼飯用具 

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753年には遣唐使藤原清河や阿倍仲麻呂が帰国の途上、同じく漂流し、当時中国領だった安南のヴィン付近に漂着した。

東シナ海から南シナ海に南下する海流の関係でこのような漂流ルートが存在したようだ。これが縁で阿倍仲麻呂は761年から767年まで鎮南都護・安南節度使としてハノイの安南都護府に在任した。

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室町時代から江戸時代
14世紀から15世紀にかけて、交易国家として栄えた琉球はチャンパ王国とも通好があった。江戸時代・17世紀になると、朱印船がベトナム方面へ進出し、江戸幕府は北ベトナムの大越黎朝や南ベトナムの広南阮氏政権とも外交文書を交換し、朱印船が出入りした。

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↑ 送迎用の電気自動車 ↓

電気モーターを動力源とする電気自動車は、車載電池から電力を得る電池式電気自動車と、走行中に電力を外部から供給する架線式電気自動車とに大きく分けられる。
電池式電気自動車は、外部からの電力供給によって二次電池(蓄電池)に充電し、電池から電動機に供給する二次電池車が一般的である。

車両自身に発電装置を搭載する例としては、発電専用エンジン(レンジエクステンダー)を搭載する電気自動車、太陽電池を備えたソーラーカー、燃料電池を搭載する燃料電池自動車がある。

電池を用いた方式は構造が単純であるため、自動車の黎明期から今日まで遊園地の遊具、フォークリフト、ゴルフカートなどに多く使用されてきた。

日本では築地市場などで運搬に利用される、ターレットトラックでもその数を増やしている。しかし、従来の二次電池は、出力やエネルギーあたりの体積と質量が大きく、コストも高く、寿命も不十分であった。

また、急速な充電を避ける必要もあり、稼働時間に対し長い充電時間も短所であった。そのため、交通機関の主流たりえなかった。

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ホイアン(會安)には、1000人程の日本人町も形成されていた。朱印船はまた南遷していたチャンパ(占城)でも唐船(中国船)と出会い貿易を行っている。ベトナムの通貨の名称・ドンは、ベトナムの主要通貨であった銅銭を意味するベトナム語ドンティエンに由来する。

日本の銅銭・寛永通宝はその材質の良さから、東南アジアの基軸通貨の一つとして流通し、国際取引の決済通貨として使われていた。

しかし、朱印船がカトリックの宣教師の密航の手段として用いられたことや、また、朱印船を通じた武器や牢人の流出が、日本を国際紛争に巻き込む火種とみなされたことを受けて、1630年代になると江戸幕府は、長崎奉行に対する職務規定(鎖国令)の発布で、日本人の東南アジア方面への渡航を禁止した。そのため、日本人町は廃れていった。
出典・ウィキペディアフリー百科事典。

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↑ 陶磁器会社のショールーム ↓

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