旧古河庭園は、東京都北区にある都立庭園である。1919年(大正8年)に古河虎之助男爵の邸宅として現在の形(洋館、西洋庭園、日本庭園)に整えられた。
現在は国有財産であり、東京都が借り受けて一般公開している。国の名勝に指定されている。東京のバラの名所として親しまれている。
1956年(昭和31年)4月30日に都立旧古河庭園として開園。面積は30,780.86m²(平成26年10月1日現在)。公園種別は特殊公園(歴史)。
平成25年の年間利用者総数は237,257人。1982年(昭和57年)8月、東京都名勝指定。2006年(平成18年)1月、国指定文化財(名勝)指定。
歴史
創建
明治20年代、政治家・陸奥宗光が当地を購入し別宅とする。明治38年、宗光の次男・潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子(2代当主)となったため、古河家に所有が移った。当時の建物は現存しない。
明治20年代、政治家・陸奥宗光が当地を購入し別宅とする。明治38年、宗光の次男・潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子(2代当主)となったため、古河家に所有が移った。当時の建物は現存しない。
1914年(大正3年)、古河財閥3代目当主の古河虎之助(市兵衛の実子)が周囲の土地を購入し、9,470坪を古河家の本宅用として、整備を開始した。
1917年(大正6年)5月、西洋館と洋風庭園が竣工。洋館と洋式庭園は、イギリス出身の建築家、ジョサイア・コンドル(他に旧岩崎邸洋館、鹿鳴館、ニコライ堂など)により設計監理された。
さらに虎之助により、大正8年(1919年)、日本庭園も竣工し、現在の形となった。日本庭園は近代日本庭園の先駆者・京都の庭匠「植治」こと七代目小川治兵衛(他に京都無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園など)により作庭された。
創建当時の古河家
古河財閥の創始者、古河市兵衛は奉公人から商才で出世し、足尾銅山に投資し「銅山王」と言われた。
古河財閥の創始者、古河市兵衛は奉公人から商才で出世し、足尾銅山に投資し「銅山王」と言われた。
しかしその背後には足尾鉱毒事件や激しい労働争議などの問題を抱えていた。市兵衛には当初子がなかったので、二代目に陸奥宗光次男、潤吉を養子に迎えた。
古河潤吉は1905年(明治38年)に古河鉱業会社を設立し社長になり、副社長に原敬を迎え合理化を計るが、同年、35歳で病没する。
ところで、市兵衛には1887年(明治20年)、側室との間に実子、虎之助が生まれていた。慶應義塾普通部を経て米国コロンビア大学に留学していたが、潤吉死去の報を受け帰国し、古河家第三代当主となる。
社業は第一次世界大戦による好況で急成長し、1917年(大正6年)には古河銀行を設立するなど経営の多角化をすすめ、「古河財閥」の基盤を確立した。西ヶ原の邸宅が現在の形になったのはこの時期に当たる。
関東大震災の救済活動
1917年(大正6年)、虎之助夫妻は西ヶ原の新居に本邸として住み込んだ。 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災が起こる。
1917年(大正6年)、虎之助夫妻は西ヶ原の新居に本邸として住み込んだ。 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災が起こる。
西ヶ原の古河邸はほとんど被害を受けなかった。しかし都心や下町方面から避難者が押し寄せ、正門前には群衆がたむろした。
虎之助はこれを見て、門を開き、邸内を開放した。さらに本館も開放し医師を動員し負傷者の治療を行い、「滝野川救療所」として翌年3月まで活動した。
また、庭園内の温室も取り壊し、バラック住宅86戸を建造し避難民524人を収容した。
牛込若松町への転居
関東大震災前の1919年(大正8年)秋には足尾銅山に労働争議が起こり、坑夫の家族が大挙して西ヶ原の本邸に押しかけ、直訴するという事件があった。
関東大震災前の1919年(大正8年)秋には足尾銅山に労働争議が起こり、坑夫の家族が大挙して西ヶ原の本邸に押しかけ、直訴するという事件があった。
虎之助はこれに対し「惻隠の情」が起こったと述懐している。(「古河虎之助伝」)さらに、1921年(大正10年)には養子・市太郎が急死したことをきっかけに、信仰に入る(詳細不詳)。
関東大震災における救済事業もその信仰心の発露であった。こうした心境の変化により、1926年(大正15年)、虎之助は贅沢な西ヶ原の屋敷から質素な牛込若松町に転居したのである。
以後、西ヶ原邸は、会社経営の内外商客接待のための迎賓館とされた。
昭和の激動
1931年(昭和6年)、虎之助は維新の元勲、西郷従道の孫、従純を養子に迎える。満州事変が勃発すると、軍需産業が拡大し、1938年頃、古河財閥は空前の活況を呈する。
1931年(昭和6年)、虎之助は維新の元勲、西郷従道の孫、従純を養子に迎える。満州事変が勃発すると、軍需産業が拡大し、1938年頃、古河財閥は空前の活況を呈する。
日中戦争が進行する1939年(昭和14年)の一時期、虎之助は軍部の要請により、南京国民政府設立前の汪兆銘を西ヶ原邸にかくまった。古河邸内部には忍者屋敷的な秘密構造もあった。
そうした中、1940年(昭和15年)、虎之助は「よう」(皮膚病の一種)を病み、54歳で没する。従純は37歳で古河財閥の四代当主となる。
太平洋戦争末期に西ヶ原邸は陸軍第9師団の連隊本部将校宿舎として接収される。また、当主従純も応召する。東京大空襲による被害は建物、庭園ともに免れた。
終戦後は1952年(昭和27年)まで連合軍に接収される。この間、英国大使館付武官の宿舎とされたという記録が散見されるが、サンフランシスコ平和条約(1951年締結、1952年発効)以前、日本は独立国として承認されておらず、従って英国の大使館は置かれないと考えられるので、誤りである可能性が大きい。
都立公園に
1946年(昭和21年)6月、古河家は占領軍の財閥解体に伴い財閥家族に指定され、生活費まで認許を受けるような処置を受ける。
1946年(昭和21年)6月、古河家は占領軍の財閥解体に伴い財閥家族に指定され、生活費まで認許を受けるような処置を受ける。
さらに9月には公職追放により、会社経営に参画できなくなる。1947年、西ヶ原邸は財産税等の物納で国有財産となる。
昭和27年に占領軍による接収は解除されたが、大蔵省の管轄となる。古河家へ払い下げの動きもあったが不調に終わった。
一方、地元東京都や北区からは旧古河家の庭園を公園化してほしいという強い要望が出された。
こうした要望に応えて1955年(昭和30年)4月、大蔵省は、東京都に貸し付けることを決定した。こうして、約一年の整備を経て、1956年(昭和31年)4月30日、「旧古河庭園」として都市公園として開園した。
しかし、貸付の対象は土地、および付属物に限られ、建物は払い下げ関係者との係争が決着せず、含まれなかった。
洋館等の建物は、その後約30年間放置された状態で「お化け屋敷」と言われるほど荒廃が進んだ。
1981年刊行の北村信正「旧古河庭園」には洋館は「きづたに覆われている」とあり、蔦に覆われた洋館の写真も掲載されている。
1982年(昭和57年)に東京都名勝の指定を受けると、それから1989年(平成元年)まで7年をかけた修復工事が行われ、現在の状態まで復元された。
2006年(平成18年)には、大正時代初期の形式をよく留める庭園が評価され、国の名勝に指定された。
特徴
武蔵野台地の斜面を巧みに利用した造りとなっており、台地上に洋館を、斜面に洋風庭園、斜面下の低地部に日本庭園が配置されている。
武蔵野台地の斜面を巧みに利用した造りとなっており、台地上に洋館を、斜面に洋風庭園、斜面下の低地部に日本庭園が配置されている。
バラの季節
1917年(大正6年)5月竣工。延べ414坪。地上2階・地下1階。外観はスコティッシュ・バロニアル様式を目指したとされる。
1917年(大正6年)5月竣工。延べ414坪。地上2階・地下1階。外観はスコティッシュ・バロニアル様式を目指したとされる。
古河虎之助がコンドルに設計を依頼した時期や経緯は明らかではないが、大正3年頃、洋館の設計がなされている。
屋根はスレート葺き。煉瓦造の躯体を、黒々とした真鶴産の新小松石(安山岩)の野面積みで覆っているのが特徴的である。
南側の庭園から見た外観は、左右対称に近く、両脇に切妻屋根を据え、その間の部分は1階に3連アーチ、2階には高欄をめぐらしたベランダが設けられて、屋根にはドーマー窓を乗せている。
全体的に野趣と重厚さにあふれ、スコットランドの山荘の風情である。 内部に入ると、玄関扉にはステンドグラスが設けられ、古河家の家紋、鬼蔦のデザインが見られる。
1階は食堂、ビリヤード室、喫煙室などの接客空間ですべて 洋室である。大食堂の壁面は真紅の布張りで、大きな暖炉が設けられ、天井にはパイナップルやリンゴなど果物の装飾が見られる。応接室にはバラのモチーフが配されている。
2階は家族の居室など私的空間で、ホールと寝室が洋室である以外はすべて畳敷きの和室である。ホールと各和室は洋風のドアで区切られた上、板の間の小空間があり、さらに障子や襖で区切られて和室空間に入るという構造になっている。
仏間には前室との間に禅寺を連想させる火灯窓風の出入口がしつらえられている。
また、客間は書院造である。コンドルの和と洋の共存への苦心が伺われる。同じコンドルの旧岩崎邸庭園の和洋館並列形式ではなく、和室内蔵型洋館である。
現在は財団法人大谷美術館が洋館の管理を行っている。
洋館内部は1日3回、時間を決めて行われているガイドツアーに参加すると見学可能。
本館部分の1階から2階までを解説付きで見学できる。(所要時間1時間、見学料800円入園料別)自由に内部の見学ができないので注意が必要。
この見学会は往復はがきでの事前予約が原則だが、当日に予約の空きがあれば予約がなくても参加可能。ただし、バラの開花時期には予約が定員を超えることも多いので、予約をしておくと確実で待ち時間なく見学会に参加できる。
また、洋館1階の一部には喫茶室が設けられており、春と秋には窓越しにバラ園を望みながらお茶を飲むことができる。この喫茶室にも時間になると見学ツアーが入ってくるので、お茶を飲みながら説明の一部分をツアー参加者と一緒に聞くこともできる。
また、結婚式やコンサートで洋館を貸し切ることも可能で、大正時代の瀟洒な洋館での記念行事は雰囲気が良く人気のようだ。文化財という場所柄の特別な条件や制約もあるが申し込みは誰でも可能で、諸条件は電話での問い合わせや実際に下見に行って聞くことができる。(貸切日の洋館内部の公開は休止となる。)