金婚記念旅行の欠席者を巡る旅最終回
北陸紀行2日目・29金沢ひがし茶屋街」
(写真は全て2015年10月19日撮影)

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株式会社森八(もりはち)は、石川県金沢市にある和菓子メーカー。日本三大銘菓のひとつである「長生殿」の製造、販売をおこなっている。
藩政時代から続く和菓子の老舗として有名である。

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主な商品

長生殿
日本三銘菓のひとつに数えられる。上質な和三盆糖をもちいた落雁の一種。

千歳
加賀一向一揆の兵糧に起源をもつ。こしあんを求肥で包み、和三盆糖の粉末をふってある。

黒羊羹
前田利家が創作を命じたと伝えられる。

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森八のお菓子(以下、森八HPより抜粋)
森八家の始祖・亀田大隅の胴丸に描かれていた紋章・龍玉を商標に390年。森八は、菓子づくり一筋に歩み続けてまいりました。

初代である大隅宗兵衛は、河北郡森本町から金沢城下紺屋坂に居を移し、屋号を森下屋と称し名を八左衛門と改めました。

城下の大火で藩主より替え地を命ぜられた2代目八左衛門は尾張町に移り、寛永2年(1625)に菓子屋を創業。

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3代目八左衛門が藩主前田利常候より町年寄役を命ぜられた時より、代々町年寄、銀座役を勤めました。

藩主より江戸表に召された3代目八左衛門は、藩主利常の創意により小掘遠州の筆になる「長生殿」の三字を原型とした、名菓「長生殿」を世に生み出しました。

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文久8年(1863)11代目八左衛門の時に家柄町人として苗字帯刀をゆるされ、「森下屋」から森下と改め、明治2年(1869)には屋号を「森八」と改称しました。

13代の夭逝で12代目八左衛門は長女を14代目としましたが、後継者がなく、明治44年(1911)10月、姻戚関係の中宮茂吉に家業の一切を譲ることになりました。

15代当主中宮茂吉は、翌年10月に合名会社森八を設立。大正、昭和と激しい時代の流れの中、東京支店の開設など順調に近代企業への歩みをすすめてきました。

第2次世界大戦勃発による休業、終戦、16代中宮茂一の戦死という最悪の状態から、職人の復員と原材料の統制緩和により昭和24年商売を再開。

その後の著しい経済復興とお客様の変わらぬお引き立てにより再興。金沢市内、富山、東京に直売店を出店、41年本社屋の建設、翌42年株式会社森八への改組。52年無公害工場の新築。平成4年にはさらに地球規模で考えた新工場を完成させました。

金沢に電灯をともした男

12代森下八左衛門が電気事業に初めて関心を抱いたのは、明治22年(1889)でした。静岡県で電気会社の開業式を見て感激し、文明開化の根本をなすものは電気と鉄道だと考え、金沢での実用を思い立ったのです。

まず、親類、知己を勧誘しましたが、「水の力で電気を起こす?そんなばかなことがあるものか」と一笑に付され、賛同するものはわずか1人か2人だったといいます。

第2代金沢市長の長谷川準也(じゅんや)が、電気事業は公共事業だとして金沢市で経営する方針を打ち出したために、事業を金沢市に譲渡しました。
市会は明治27年(1894)、資本金15万円全額を公債とする市営発電所設置案を可決、世論を盛り上げるために兼六園内と尾山神社に、火力による250カンデラのアーク灯がともされました。

↓ 葛切り

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葛切り(くずきり)は、葛粉を水で溶かしてから加熱し、冷却して板状に固めたものをうどんのように細長く切った麺状の食べ物。
冷して蜜をかけて食べたり、乾燥したものを鍋料理の具として用いたりする。
葛粉は体を温め血行をよくするとして、風邪の対症療法として葛根湯や胃腸不良の時の民間治療薬として古くから利用されてきた。
一方、葛粉は供給量が少ない為、葛ではなくジャガイモ澱粉などを原料にして葛切りを模した食材が一般に使われるようになっているが、ジャガイモ澱粉は体を冷やす作用がある。

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