金婚記念旅行の欠席者を巡る旅最終回
北陸紀行2日目・19「金沢ひがし茶屋街」
(写真は全て2015年10月19日撮影)

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↑金沢野菜↓
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↑金沢野菜の説明を受ける「バスツアー客」↓
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↑金箔屋さくだ↓
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金沢と金箔
金箔は、金を微量の銀や銅とともに金槌で叩いてごく薄く伸ばし、箔状態にしたもの。紀元前1200年頃にエジプトで製造が始まったと考えられている。
現在は真鍮からなる「洋金箔」も普及しており、本来の意味での金箔は「純金箔」として区別される。

箔打ちの始まりについて
当地における箔打ちは、加賀藩祖・前田利家が文禄2年(1593)豊臣秀吉の朝鮮出兵に従って滞在していた肥前名護屋(現在の佐賀県)の陣中から、七尾で金箔を、金沢で銀箔を打つように命じたことから、16世紀末には行われていたことが明らかになっています。

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金沢での箔打ちがいつから始まったのかは明確ではありませんが、この頃には既に製造されていたことがわかります。

江戸時代。
江戸時代に入ると、寛文7年(1667)に幕府が各地で貨幣を製造することを禁止して金銀銅の地金を管理します。元禄9年(1696)には江戸に箔座が設置され、全国の金・銀箔の製造と販売が禁止されました。

加賀藩では元禄11年(1698)に領内に金・銀箔の使用を停止する命令を伝えており、ここで金沢における箔打ちは一度途絶えたと想像されます。

江戸の箔座は宝永6年(1709)に廃止されますが、統制は金座・銀座により継続しました。

文化5年(1808)金沢城の二の丸が全焼します。再建のため大量の金箔が必要となり、藩は幕府に願い出て京都から職人を招いて金箔を作らせました。

その仕事を見覚えた金沢の人々が箔を打ちますがうまくできなかったため、仲間の一人が京都へ行き修得した技術を同業者に伝えます。しかし文政3年(1820)、同7年(1824)と幕府は箔打禁止令を発し、箔の統制は続きます。

天保13年(1842)金沢の町人であった能登屋左助が、江戸で作られて金沢へ運ばれる間に破損した箔の打ちなおしの許可を藩に願い出ます。

許可はおりませんでしたが、左助は弘化元年(1844)に江戸で作られた箔を藩内で独占的に販売する権利を認めるよう藩に願い出ます。

翌年この権利が認められ、左助は藩の許しを得て越野左助と名前を改めて江戸へ出、幕府から公式の許可を得ます。

安政3年(1856)には金沢に箔の細工場(金・銀・真鍮箔などを打つ工場。金・銀箔については打ち直しを名目とした)が作られるなど箔打ちが盛んに行われるようになり、元治元年(1864)幕府から越野左助は金沢城の修復や藩の御用箔に限り、箔を打つ許可を得ます。

明治時代
金座・銀座が明治2年(1869)に廃止されて箔の統制が解除されると金沢の箔の生産は増加します。金沢の金箔の独占的地位が高まるにつれ業者数も増加しましたが、販売競争と品質の低下を招き、さらに不況が重なり廃業するものが続出しました。

そこで、明治21年(1888)現在の石川県箔商工業協同組合の前身である箔の有志同業組合が結成され、品質・価格の協定、生産制限を実施しました。

その結果、明治34年(1901)には箔は金沢市の産物として羽二重に次ぐ地位を占めるほどに成長します。

大正以降~戦後
金沢の箔職人・三浦彦太郎が大正4年(1915)に箔打ち機を開発すると生産効率は飛躍的にあがりました。

また、箔打ち紙は兵庫県の名塩産の手漉き和紙を主に使用しますが、石川県能美郡川北村(現在の川北町)でも昭和7年(1932)に箔打ち紙用の手漉き和紙の製造に成功するなど、製箔道具が充実し始めます。

しかし第二次世界大戦に突入し、金の使用制限令や奢侈品等製造販売制限規則が施行されるなどして箔の生産が困難になり、箔業は壊滅状態、箔職人にとって厳しい時代が続きました。

戦争が終わり、徐々に金箔製造が復活します。昭和25年(1950)には朝鮮戦争の特需景気となり、また石川県箔商工業協同組合が成立しました。昭和36年(1961)には親鸞上人大遠忌で箔の需要が増加します。

近代において
社会の近代化は公害の発生と深い関わりを持ちます。騒音規制法が昭和43年(1968)に施行され、金箔の製造に欠かせない箔打ち機の振動が法の対象となりました。

そこで昭和44年(1969)金沢市の郊外、福久に箔団地用の用地を買収して造成を開始。昭和51年(1976)箔団地へ18工場30戸が移転します。

とはいえ、市内で製箔を行う職人がすべていなくなったわけではなく、住宅と作業場が一体となった市内中心部の住宅で引き続き製箔を行う職人、住宅は市内中心部に残して箔打ち作業を箔団地で行う職人など、作業形態が多様化しました。
 
明治以降の流れを見ると、製箔は世間の好不況に大きく影響されることがわかります。昭和から平成にかけて箔の生産金額は上昇していますが、それ以降の長期的な不況の中、箔の生産は減少傾向にあり職人の数も減ってきました。

このような中、平成21年(2009)に「金沢金箔伝統技術保存会」が設立され、伝統的な製法で作られる縁付(えんづけ)金箔の技術を次の世代へ伝承する動きが興っています。

金箔は、製作用具が昭和46年(1971)国の重要民俗資料に指定、また昭和49年(1974)に伝統的工芸品産業の振興に関する法律(いわゆる「伝産法」)が施行されると、昭和52年(1977)に「金沢箔」として指定伝統的工芸材料となっています。

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↑和装のグループ↓
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↑喫茶店藍↓
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↑民家↓
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↑土産店↓
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↓人力車
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