熊野古道の中で私が群を抜いて惹かれていたのが「補陀落渡海」の聖地ともいうべき補陀落山寺であった。

 

 補陀落渡海とは、はるか南方海上にある観音浄土を目指して、僅かな食糧を船に積み生きたまま太平洋へ流され入定するというもので、歴史上では40人(うち当寺から20人)が渡海に挑んだらしく、これまでも様々な書物に目を通してきたが中でも井上靖の『補陀落渡海記』はえげつないとしか言いようがない。

 しかしながら脳裏に強烈にしみついてしまい、たとえ、現存するものが文化財やレプリカしかなかったとしても、これだけはどうしても自分の目で見ておかなくてはという衝動に駆られたのだった。

 

 そんなわけで行程を逆にしてまでも、初日に那智へと向かった。

 

進入口を知らせるサインもしゃれとんしゃーよ

 

見た目はフツーの本堂。天台宗寺院なので見慣れてるのかな?

 

 何も知らずに訪れた本堂だったが、なんと夢にまであらわれた「那智山系曼荼羅」が誇らしげに飾られていた。「スゲースゲー」といつになく興奮していると、寺務所の方がやってきて絵解きを勧めてくれた。

 しかも、おひとり500円という破格値で、勿論お願いした。

 「通常ですと15分ほどになりますが、話を進めていくと30分とかになることがあるんですけど、お時間は大丈夫ですか?次のご予定などあれば」とお気遣いいただいたが、全く問題無いどころか1時間以上話してもらっても構わない。嬉しすぎ!

 実をいうと、観光協会が行う絵解き会は日曜の朝にしか行っておらず、参加しようか連休が始まる前に帰ろうかと迷っていたのだった。

 

これこそ、渡りに船!のタイミング

 

 絵解きガイドは思った以上に素晴らしかった。『聖地巡礼 熊野紀行』の中で著者の釈徹宗氏が述べていた一部を引用したい。

 

 まさに聖地巡礼のためのガイドマップの性格を持っていたことがよくわかりました。しかも要所ごとにストーリーがあり、日常の苦悩があり、生と死の物語があります。この曼荼羅を使った語りを聞いた人は、熊野への情景の念を強くしたことでしょう。

 

 参詣曼荼羅と絵解きについて的確に言い当てているし、このガイドシステムは良くできた着地型観光商品とも言えるのではないか。

 

 すべてを覚えているわけではないが、一部を紹介してみよう。

 

那智の浜と補陀落山寺。渡海船が向かう沖合には四つの岩山が見える。そのうちのひとつ「金光坊島」は井上靖の短編小説の舞台にもなっている。

 

渡海船に同行する僧や民衆。浜辺には赤い烏帽子を被った三人がいて、そのひとりは平維盛だと思われる。

 

那智詣には関所を通らねばならなかった。今は無料

 

橋のたもとで桜を眺めるのは和泉式部。女性でもお参りできるというのが熊野詣の効果的なアピール要素であった。

 

橋の下で禊を行う参詣者。お祓いをしている女性こそが当時のインフルエンサー「熊野比丘尼」であり、絵解きのほかに歌や演奏を行うアーティストもいたらしい。

 

熊野比丘尼が稼いだ米俵は熊野へと運ばれる

 

ふたつめの「振加瀬橋」は俗世と聖域を振り分ける堺になる。那智山に入る前に肉を喰らっている。お寺の方によると当時はジビエ料理が提供されていたのではないかとの説。

 

橋を渡ると現在も名所の「大門坂」へ。立派な仁王門があったそう。

 

右手には「那智の滝」。不動明王の背中にある火炎が滝に浮かんで見える。お不動様のご加護があるのだろう。

 

凍える文覚上人を解包するのは矜羯羅童子・制吒迦童子で、紅白のカラーリングは偶然にも補陀落山寺の像と同じ彩色であった。

 

左手にのぼると「女人高野」ともいわれる熊野妙法山阿彌陀寺。749mの山寺は真言宗で、密教が入り乱れているのもある意味カオス。

 

那智大社の本宮、新宮、若宮、八社殿は多くの参詣者で賑わってます。シンボルの八咫烏も寛いでますね。

 

こちらは社寺で授与される「牛玉宝印(ごおうほういん)」という護符(お守り)。熊野三山の宝印は八咫烏が効果的にあしらわれ、洗練されたデザインであることがわかる。

 

 大分へ戻ってから県立図書館へ行き、「絵解き」や「熊野比丘尼」に関する書物を探してみたところ、面白そうな古書がたくさん見つかった。

 先にもふれたが、絵解きガイドを巡礼前に行うのはかなりアリだと感じるので、これからも大いに研究していこうと思う。

 

 

 

 

 でわ!