ミステリアス・・ | 呑気な頼さん

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私の暮らす磐余の里は桜井市の南西部一帯の古き地名。日本書紀・古事記・万葉集などに数多く登場し十二代もの宮都が置かれた町です。大物主の鎮座する神山「三輪山」の麓には日本最古の市である「海柘榴市(つばいち)」や「仏教天来の地」、日本最古の道「山の辺の道」が通じてます。

 

橿原神宮元宮『神武天皇社』
神武天皇社は奈良県御所市柏原246に鎮座する神社、初代天皇である神武天皇を祀っています。祭神は神倭伊波礼毘古命(神武天皇)で、末社として厳島神社には市杵島姫命、火産霊神社には火産霊命が祀られています。また、境外摂社の嗛間神社の祭神は神武天皇の妃である、吾平津媛(あひらつひめ)とされます。
 
この神社が神武天皇の即位した場所であると言われる背景には、いくつかの歴史的記録や伝承があります。享保21年(1736年)の大和誌には「橿原宮。柏原村に在り」と記されており、本居宣長も明和9年(1772年)の「菅笠日記」にて、現橿原市周辺には橿原という地名が存在せず、神武天皇の即位地は一里あまり西南にあるとの里人からの話を記録しています。
 
 
また明治初期には、この神社が宮跡として指定されることを恐れた住民が証拠書類を焼却したという説もあり、これが神武天皇の即位地であるという信念を強めています。この地域はかつて柏の密生地であり「旧掖上村柏原」と呼ばれていました。「掖上」という地名の「掖」には宮殿の意味があり、これも神武天皇の即位地とされる理由の一つです。現在の橿原市にある橿原神宮が神武天皇の宮跡とされるのが一般的な説ですが、江戸時代には御所市柏原の方が有力視されていました。昭和46年(1971年)には随筆家の白洲正子がこの地を訪れ「かくれ里」にその体験を書き残しています。
 
 
■由 緒
神倭伊波礼比古命(神武天皇)を祀る旧指定村社。神社の背後の山は神武天皇が登幸された?間丘だとの伝説があり、当社に神武天皇を祀るのはこれによると考えられる。『日本紀』に畝傍山の東南橿原の地とあるのは、南を東南と書き誤ったのでこの地が橿原の地だとする一説もあった。『宗教法人法届出書』の境内社には、厳島神社(祭神市杵島姫命)・火産霊神社(祭神不詳)と届け出ている。当社の南の字をヨウバイというが、当社の神を伏せ拝みした所で、遥拝からきた地名とみられ、御酒田は神社に献納する神酒を醸す米を耕作した田と言われている(『御所市史』神社の項)。
-奈良県史(神社)より-
 
 
 
嗛間神社(ほほまじんじゃ)は神武天皇の妃である吾平津媛(あひらつひめ)を祀っています。吾平津媛は神武天皇とともに東へ移動し、この地に住んだと言われています。
 
 
吾平津媛は「さわりの神」と呼ばれています。伝説によると、神武天皇が大和を平定した後、三輪の大物主神の娘である五十鈴媛命を皇后に迎えました。それにより、吾平津媛は仕方なくこの地にひっそりと住むことになったと言われています。この吾平津媛の怨念は夫婦の縁を呪うとされており、そのため、この地域では昔から嫁入りの行列が嗛間神社の前を通ることは避けられていました。現在も神社入り口には扉が設けられ施錠されてます。