実は先週日曜は紅葉を見に行こうと思っていた。ところが、お恥ずかしいことに

前日、雨にちょっとぬれながらテニスをしていたら風邪をひいてしまいお流れに。


いきたかったのは滋賀の湖東三山。是非この秋訪れようと思う。


湖東三山
緑豊かな山々の麓に西明寺・百済寺・金剛輪寺という三つのお寺があります。
竜応山西明寺 西国薬師第32番霊場
平安時代の開山。鎌倉時代・室町時代と修験道場として栄えた古寺。
本堂に向かって右手には、二重三重の屋根の間隔を小さくした均整のとれた美しい三重の塔がある。堂内いちめんに法華経の図解・三十二菩薩が極彩色で描かれ、鎌倉時代の壁画ながら今も鮮やかに保たれている。住職一代に一度の御開帳の秘仏として祀られている本尊薬師如来をはじめ、釈迦如来、錦幡など重要文化財の宝庫だが、万全を期して仏像以外は各地の博物館に預けられている。 西明寺の紅葉は特に美しく、多くの人が心の安らぎを求め参拝に訪れる。
松峰山金剛輪寺 近江33観音第15番札所
奈良時代行基の開山と伝えられる湖東三山真ん中のお寺。
寺伝には聖徳太子の勅願によって、天平十三年(741年)に行基によって開基され、嘉祥年間(848年-850年)に延暦寺の慈覚大師によって中興されたとある。行基の作と伝えられる秘仏本尊聖観世音菩薩をはじめ十四の仏像は重要文化財に指定され、本堂大悲閣は鎌倉時代の和風建築物として国宝に指定されている。三重の塔・本坊明寿院・茶室水雲閣・庭園と見所が多く四季を通して参拝者が絶えることはない。
ツツジ・サツキ・アジサイ・シャクナゲでも知られる花の寺でもある。
釈迦山百済寺 近江33観音第16番札所
推古天皇の時代に聖徳太子の勅願によって、高麗僧恵慈を導師として、百済僧道欣が創建したという渡来人とかかわりの深いお寺。 過去三度火災にあい、その最大のものは織田信長の焼き討ちで、全山が消失したが、聖徳太子の自作である十一面観音立像は住職らによって運び出された。お顔や胸に焼け痕が残り百済寺の歴史が偲ばれる。
本堂・仁王門・山門などは慶安三年(1650年)に彦根藩井伊家や甲良豊後守宗廣らにより再興されたものだ。
本坊喜見院の池泉回遊式庭園はその美しさで特に有名

海底に7ツ星ホテル!?人類の夢、海底生活が始まる
アメリカのポセイドン・アンダー・シー・リゾート社は人類初の超高級海底ホテルの開業を予定している。ついに子どもたちの夢だった海底生活が可能になるのだ。ホテルのオープンは2008年。クレセント・ハイドロポリス社も同様のコンセプトのホテルのドバイでの開業を計画中だ。いよいよ人類が海に住む時代がやってきたのだ。

超豪華な海底リゾート、開業間近
ポセイドン・アンダー・シー・リゾート社が2008年5月18日オープンに向けて、開発を進めている海底ホテルは非常に豪華だ。

ポセイドン・アンダー・シー・リゾート社の海底ホテルのイメージ図

ホテルは同社が持つフィジーの島に開設され、水面下40フィート(約12メートル)に設置される。20ある客室は、すべて同サイズで全長10メートル・幅5.1メートルのカプセル状だ。面積は約51平方メートル。150トンの重さがあり、床は50ミリ、柱には25ミリの鉄板が使われ、ドアはカーボンファイバー、5枚の窓には潜水艦や水族館に使われているアクリル板を使用している。

ホテルはサンゴ礁の真ん中にあり、窓から見える風景は竜宮城も顔負けだろう。なお緊急時には客室ごと通路から切り離し、浮上させることができる。

地上とホテルはゲスト用とスタッフ用の2台のエレベーターで接続され、海中に出たい場合はダイバー用のロックアウトモジュールを利用する。客室の内部気圧は1気圧に保たれているので、地上との出入りに加圧減圧は不要だ。

客室はモジュール化されており、海底でダイバーによって接合される

レストラン、バーラウンジも設置され、料理が作られるのもホテル内。映画館と結婚式のためのチャペル、図書館も用意、7ツ星ホテルと同等の最上級のサービスが提供される。さらに島全体もリゾートとして開発される予定で、テニスコートやハーフのゴルフコース、スパやヘルスクラブを備えたレセプションセンターが建造される。

空港から専用機で海底ホテルで2晩を過ごし、地上のバンガローで4晩宿泊。食事とワインなどの飲み物はすべて無料、さらに小型潜水艦の操縦やウィンドサーフィンなどのウォータースポーツの教習がすべて含まれて、1週間1万5,000ドルのツアーが組まれる。200万円弱のこのツアーを高いと思うか安いと思うかは夢と財布のバランスだろう。


日本にもあった海底居住計画
海底ホテルのアイデア自体は60年代後期から70年代にかけて世界各国で実現されており、日本でも1968年に民間企業が最大5気圧まで耐えられる海底ハウス『歩(あゆみ)号』を製造、『歩号2世』はホテルタイプで海底村と呼ばれ、多くの観光客を集めた。ただしポセイドン・アンダー・シー・リゾート社のような華やかさはない。

資金難から建造中止となったクレセント・ハイドロポリス社がドバイに作っていた海底ホテルも、年内には建造がスタートする見込みで、順調に行けばこちらも2008年中にオープンする。

海底ホテルに使われる技術は潜水艦のものと同様で、ポセイドン・アンダー・シー・リゾート社のモジュールの設計は、民生用潜水艦を専門に設計・開発を行っているUSサブマリン社が手がけている。

70年代に各国で研究が進められていた海底基地は、現在の海底ホテルとはまったくの別物。日本では1971年から90年まで海底居住計画『シートピア』が進められ、深度300メートルに居住基地を設置、海洋資源開発のため、ダイバーがパイプラインの敷設などの海底作業を行う実験が行われた。

海底では深さに応じた水圧がかかる。シートピア計画では、海底と居住ブロックを加圧減圧ナシに行き来するために、海上の母船で海底と同じ30気圧まで加圧、300メートルの深海まで水中エレベーターで降下した。加圧しなければ、肺の中の空気が30分の1まで収縮、肺が潰れて死んでしまうからだ。

反対に海上に浮上する時も減圧が必要。肺の空気が30倍に膨張、肺が破裂して死んでしまうからだ。減圧には12日間もかかるため、普通の人が行ける世界ではない。選抜されたダイバーはスペースノーツならぬアクアノーツと呼ばれたそうだが、それも納得の過酷な世界だ。

子ども雑誌にあったような未来の海底都市では、海底に家が建ち、イルカと戯れながら自在に海中を泳ぐ人たちの絵が書かれていたが、21世紀の現在でもこれは無理。水圧の壁はそう簡単にはクリアできない。

小さな潜水艦のような部屋から海中を見上げるのがやっとなのだが、それでも誰もが海底を眺望できる時代がやって来たことは間違いなく、(実に21世紀らしいではないか)と感無量なのだ
日時:2006年11月4日、5日
場所:みのたにグリーンスポーツホテル
http://www.sempos.or.jp/kobe/
人数:8名(4日)、7名(5日)

テニス合宿 @ みのたに 続き


ちなみにこのお宿WEBから予約できます。
http://www.sempos.or.jp/kobe/yoyaku.html

あと、平日ならテニスパックなどお得なメニューも沢山あります。
2日目:
昨日、割と遅く寝たにもかかわらず温泉に入りたくて6時半に
起床した。特に女性宿泊者が少ないこのホテルの朝風呂は
気持ちがよかった。昨日と男湯、女湯が入れ替わっていてまた
新鮮だった。ここは11種類のお風呂が楽しめる。




夜とは全く違う気持ちよさがある露天風呂。木々の間から
朝日が漏れていて清々しさといったら言葉にできないほど。
いつまででも入っていられそうなお風呂ですが、8時から
朝食をとることにしていたので時間配分を考えて部屋へ戻る。
8時に全員揃ってレストランへ。
予想外に豪華なバイキングに全員で「もっと早くこれば良かった・・・」

和洋どちらも充実しておりどれもこれもと許容量を超えて
取りたくなる。ご飯は赤飯までありテンションがあがる。
全員、たらふく食べて案の定、9時ぎりぎりになりあわてて部屋へ
戻る。テニスは9時からだ。毎度、合宿の2日目は必ずちょっとだけ
遅れる。
超特急で用意して精算。
コートへ向かうと9:20くらいになっていた。
早速準備運動もそこそこにテニス開始。
今日から合流するかわいい服飾デザイナーの女の子も
昨日終電まで働いていたにも関わらず9:30には到着。
細くて綺麗な女性なのに根性があるので彼女は好きだ。
7名そろって存分に打ちまくる。
10時~はちょっと練習して試合をする。昨日より熱い太陽に
じりじりやられながらあっという間にお昼。
今日は昨日のレストランが空いていなかったので温泉に
ついている休憩所でのど自慢をみながら昼食。
和風讃岐風らーめんが一番人気。そのあとでかすぎる
ソフトクリームを食して大満足。皆畳の上で寝転んでごろごろ
していた。

また気を取り直して昼の部開始。
昼の部は特に上手な男子に相手をしてもらい、笑いかけた手が
完全に笑った。最後は試合三昧で楽しかったテニス合宿が
終了。
いやー、よくやった。2日あわせて計11時間ほど。
今回4度目の温泉に入ることにした。宿泊者は半額。
あの素晴らしい温泉に400円で入れた。
使いすぎた体を熱い温泉が癒してくれる。一気に疲れが吹き飛んだ。
露天と露天横にあったつぼ湯でしこたま喋っていたら足のだるさも
どこへやら。


すっぴんのまま待ち合わせ場所へ。
温泉恒例、瓶のコーヒー牛乳を一気のみしたら天国にいるかの
ような幸せ。
ご飯を食べて帰ろうということになり、2台の車にわかれたは
いいが、途中で会えなくなってしまった。しかも携帯を持っていなかった。
運命的というかなんというか、もう一台が帰ろうとしているときに
会うことができた。
適当に入った店で食べた四川風味噌煮込みうどんがとても
おいしかった。みんなスポーツ後なのでがっつりいっていた。

いよいよ、合宿も終り。
今回は近場だったので帰りも早い。連休の最終日はなんとも
いえぬさみしさがこみ上げてくる。でも眠たすぎてそんなさみしさも
味わう間もなく眠りに落ちていった。
日時:2006年11月4日、5日
場所:みのたにグリーンスポーツホテル
http://www.sempos.or.jp/kobe/
人数:8名(4日)、7名(5日)

テニス合宿 @ みのたに

1日目:

恒例テニス合宿。いつものテニスメンバー(大学時代の友人+何故か
うちの両親・・・)プラスαで秋空のしたテニス三昧をしよう計画だ。
かなりの頻度で行っている。全く気を使わないメンバーなので
非常に楽にテニスが楽しめる。

場所はいつもながら決まらず、滝の社、篠山など上がったが
結局、一番近いという理由でみのたにになった。前から気になっていた場所でも
あったのでよいのだが。
(メンバーの一人にとにかく近くなくてはいけないという人間がいる。)

行きは車で1時間くらいで到着。この近さはありがたい。
新神戸トンネルを抜けて田舎ロードを走ると看板が出てくるので
迷うことはないだろう。

ほぼ全員時間通り到着。大学を卒業して10年ほど経っているのに
こうやって変わりなくあってテニスできるのはとても楽しい。

コートは¥1800/時間と立地からいくと高めだが、非常にいいコートだ。
状態もいいのだが、絶賛すべきはコートの後ろに広がる絶景だろう。
大きな空と綺麗な山。見とれて空振りしそうなくらい雄大で気持ちがいい。
紅葉の頃に来ればどんなに美しいだろうと思いをはせる。
抜群のコート環境と大好きなテニス。至福の時だ。



が、晴れ男、晴れ女が集まりすぎて天気良すぎ・・・。

11月とは思えない日差しに黒こげの予感。

8名で2面取っているので全員フル出場。全員年齢の割りには非常に
元気。あっという間にお昼を迎える。

お昼は本日宿泊予定のホテルレストランで食すことに。
レストランも一面窓で気持ちがいい。
あと料金もリーズナブルな上、全食事にフリードリンクがつくのが
素晴らしい。気に入った。勝手にファミレス状態でドリンクを何回も
おかわりして(こういうサービスではありません)、喋っていたら
昼の部の時間になっていた。





絶好調にまぶしい太陽の下、もう日焼けも気にせずまた練習を
始める。全員手を抜かず練習、試合を繰り返し体がガタガタに
なった頃漸く太陽が赤くなってきた。

真っ赤な夕陽。この大自然の中で大量の汗をかいて最高に爽やかな
連休中日が終わろうとしていた。

17時。太陽も沈みかけた頃我らのテニスも終りホテルへ向かう。
ホテルはすぐ横なので非常に便利。






日焼け止めと砂まみれの体をとにかくまず綺麗にしようということで
お風呂へ向かう。



ここ、お風呂がいいのです。非常に広い温泉があり、また露天も
街中と違って自然に囲まれているので、本当の露天のよさが味わえる。
しかも、趣向を凝らしたお風呂が結構沢山あって長時間楽しめる。
気候も最高なので気持ちいいったら!!
最高に気に入ったのは熱い石に寝転ぶお風呂。満月を見ながら
大自然の中、素っ裸で横たわる。なんでしょう、これ。
日本じゃないみたいな開放感。
http://www.sempos.or.jp/kobe/onsen.html

ご飯を18:30からにしていたので1時間ほどお風呂を楽しんでとりあえず
あがる。

お風呂に入ったら非常におなかがすいてきた。
早速ビールを注文してご飯をまつ。皆、スポーツ、温泉後の
ビールはさぞかしうまかったに違いない。

2500円の一番安いコースにも関わらず結構いい内容だった。
なんというのか見た目ばかり豪勢というかいらないものが沢山
あるというかそういんではなく、きっちりおなかがいっぱいに
なる適度な量。個人的にすごくよかったです。スポーツのあとに
ありがたいお料理でしたね。



お部屋に帰ると全員、20時過ぎにも関わらず非常に眠たそう。
布団を引っ張り出してごろごろし始めた。約一名は既に寝かかっていた。
そうそう、ここは宿泊費も非常に安いのですがお部屋はかなりいいですよ。
ただし、布団をしいたりするのはセルフですが。



バレーの試合をテレビでみながらお茶を飲む。時々マッサージ
などしあいながらぼやぼやしていると10時になりかけていた。
あわててまたお風呂に向かう。温泉地に来たら3回はお風呂に
入りたい。夜の露天、人がいなくて非常に気持ちがよかった。
お肌も日焼け止めまみれになっていたのが嘘のように温泉の
おかげですべすべ。
部屋へ戻りテレビを見ていたつもりがナイナイサイズの最後の方で
記憶を失ってそのまま最高の眠りへ・・・・・・
2日目に続く・・・。
日時:2006年11月3日(金/祝)
場所:半兵衛麩→六波羅密寺→安井金比羅→知恩院→カフェ
人数:3


前述したエセレブランチを半兵衛麩で行い、六波羅蜜寺へ向かった。
その後、安井金比羅へ行き、知恩院へ・・・・。閉館時間を迎え、
楽しみにしていたカフェへ向かうことに・・・

カフェ
カフェも候補が数個上がっていたものの決まっていなかった。
ちなみに候補は次。
1)efish
五条の辺にある鴨川をみながらお茶が飲める雰囲気のいい店。
前行った時はいっぱいで入れなかった。
2)ACEカフェ
ここも鴨川が望める
3)ボンボンカフェ
4)清水界隈の抹茶の店
で迷っていた。知恩院まで北のでefish は微妙に遠くなった。
ACEは友人の一人が行って普通だったということで却下。
じゃ、ボンボンカフェに行ってみようということになったが、
ここはさすがに歩きはきついということで京阪電車に乗ることに。
で、折角出町柳まで行ったのに・・・・・・・・・・・・
なんと二次会で貸切・・・・・。Oh my god.
仕方ないので近くのコンビニで他のカフェを探すことに。
そのコンビニに本が充実しておらず一番近くの住所の
カフェへ向けて川沿いを結構歩いた。
やっと見つけた!!!と思ったら今はテイクアウトオンリーです・・・。
最新号にカフェ併設って書いてるのに????
シュシュだったかなんだったか忘れましたが、ちゃんと調べるように!!!
ここで、京都在住の友人がカフェに詳しいという友人に電話してくれた。
今の居場所を告げ、一番近くでいけてるカフェはないかと。
さすが京都ネットワーク。さくっと道案内をしていただき、
ちょっとわかりにくい場所ながらも友人はちゃんと迷わず到着。
素晴らしい!!!
そこはSARASAカフェ
ありがとう。友人の友人。我らだけでは絶対来ないだろう
場所にある。1Fは雑貨屋さん。アンティークメインな感じ。


2Fがカフェだが空間を十分にとったおしゃれな空間が広がっており
とてもよい。更に来ている人がお洒落さんばかり。なぜ??
しかもメニューも非常にリーズナブル。これはいいなぁ。
一人で来ているお客が多いのも頷ける。
ここは更にロフトみたいな部屋もある。下から見るに植物が
多くてソファ。あそこは顔なじみしかいけないのだろうか??
とにかく甘いものが食べたかったのでコーヒーとケーキを
注文。ここのメニューはヘルシーメニューが多い。
ごまとか・・・。ケーキはちょっとあっさりすぎるかな。
そしてコーヒーはこだわっているらしく深入り
SARASAブレンドを頼んだが、非常にコクがあり美味だった。
カップも大きくてかわいい。




昼をがっつりいきすぎておなかはすいていないと思っていたが
喋っているうちにおなかがすいてきた。
ここはディナープレートも1000円、ディナーセットでも1200円と
リーズナブル。味も悪くなかった。
それにしても京都の男性はハンチング帽におしゃれめがねの人、
多くないですか?とっても気さくな店員さんもまさにその典型の
ビジュアルだった。
そうそう、お手洗いもドアが黄緑で非常にかわいかった。
なんせ、天井が高く、テーブルも大きいのでとても落ち着く。
隣が気にならない。かなり気に入ったカフェだった。ここが近くに
あったらコーヒー美味しいし、結構かようだろうな・・・。
明日、また朝早い用事が入っているのでそこそこの時間で
解散。とはいえ、安価で長時間居座ってしまいました。
楽しい1日はあっという間に過ぎ去った。大阪よりかなり寒い
京都をあとにして帰路につく。
明日からテニス合宿だ。さっさとお風呂に入って寝よう。
日時:2006年11月3日(金/祝)
場所:半兵衛麩→六波羅密寺→安井金比羅→*知恩院→カフェ
人数:3

前述したエセレブランチを半兵衛麩で行い、六波羅蜜寺へ向かった。
その後、安井金比羅へ行き、この知恩院へ・・・・。以前の詳細は
別ページでご覧ください。

知恩院

ここは3人ともいやっちゅーほど来ているお寺。何回見てもかっこいい。
本当に偉大だ。私が外国人を接待するならここへはつれて来たい。

さて、今回きたのは縁結びシリーズで(友人のご要望により)、
ここの奥の方にある千姫の墓とやらに行きたかったからだ。

わざわざ電話すると16:30閉館。ダッシュすれば何とか間に合う時間だったので
またも豪速で歩き知恩院へ向かう。3人とも体力には自信がある人ばかり
だったので難なく(ちょっと汗ばみながら)到着。




長い階段をのぼるとそこにはかっこいい本堂。しかし、今日はそこに
用はない。早速地図をみて千姫の墓を探す。
かなり奥だ。足早に向かうが途中よくわからなくてお寺の人に尋ねると
更に上に上がって門をくぐれと。まだ大丈夫といわれたので更に
階段を昇ったのに門のところにいる人にもう入れないといわれた。
まだ16時だったのに。


ここまできたことに、満足していたものの、ここまで来たからには
行きたかったという思いが交錯する中、名残惜しそうに恨めしい言葉を
はきながらも来た道を帰る。縁結びはさておき趣があるところなので
再度たずねて見たいと思った。
この後、今日は絶対カフェに行くぞ!と決めていたのでカフェへ
向かう。それはこれまた明日へ続く・・・・。

<千姫の墓、WEBより>

1)http://naokun.cocolog-nifty.com/nekozura/2004/02/post_16.html  
京都の散歩道 縁結びの神様
今日紹介するのは、濡髪大明神。縁結びの神様とされている神社です。
濡髪大明神は、知恩院の境内にあります。
濡髪大明神の位置

御影堂の東にある石段を登ると勢至堂に至ります。この勢至堂の横を抜けると墓
地になっていて、まず目に付くのがいくつも並んだ立派な墓石です。多くは、知恩
院の歴代門主の墓ですが、中に一際大きな墓石があって、よく見ると三つ葉葵の
紋が刻まれているのが判ります。これが、徳川家康の孫娘で豊臣秀頼の妻であっ
た「千姫」の墓です。千姫の墓は、東京の伝通院と水街道市弘教寺にもあります
が、徳川氏の帰依する浄土宗の大本山にも特に墓を築いたのは、運命に弄ばれ
た一門の姫に対する憐情があったからでしょうか。
さて、本題の濡髪大明神ですが、この千姫の墓のすぐ後ろにあります。ここに祀ら
れているのは知恩院の守護神とされる白狐。なぜ、この白狐が濡髪大明神と呼ば
れるようになったかには、次のような説話があります。
江戸時代のはじめ頃、火災で焼失した堂塔伽藍が徳川氏の肝入りで再建された
のですが、その一つの御影堂の落慶法要の際に、一人の童子が現れます。その
日は雨だったのですが、法要を終えた霊厳上人が廊下に出てみると、雨に濡れた
可憐な童子が佇んでいました。上人は、気の毒に思い傘を貸してやったのですが、
その童子は、「私は元この地に住んでいた狐です。この堂が建ったため住む事が
出来なくなり、恨みを晴らそうと出て来たのですが、ただいまの上人のお話しを聞
いて、心を改めました。この上は、当寺が再び火災に遭わないように守護いたしま
しょう。」というなり、姿を消してしまいます。そして、次の日、御影堂の軒下に上人
が貸した傘が差し込まれていました。上人は、童子の言葉を信じ、境内の東に祠
を建てて、守護神として祀りました。以後、知恩院が火災に見舞われる事は絶えて
ないと言う事です。
どこにも濡れ髪なんて出てこないじゃないか、と言われそうですが、雨の中に童子
が立っていたというところがポイントです。この童子の髪が濡れていたことから来て
いるのですね。では、なぜ縁結びの神様になったのか。それは、濡れるという言葉
が、男女の仲の艶っぽさを連想させるところから来ているようです。主として、祇園
の舞妓、芸妓衆を中心に信仰が広まったようですね。
この濡髪大明神ですが、祇園を除いて、地元でも知らない人が多いようです。奥まっ
た場所であることからか訪れる人も少なく、じっくりと願い事を聞いてもらう事が出来
そうな気がします。

2)歴史
以前に紹介した濡髪堂の真ん前に、
一番大きく目立つのが千姫のお墓です。
徳川秀忠の娘で、幼少七歳で豊臣秀頼に
嫁ぎ、波乱の人生を送った女性です。

慶長2年(1597)徳川秀忠とお江の長女
として誕生します。
僅か2歳で豊臣秀頼と婚約、政略結婚
以外の何ものでもないですが、慶長8年
(1603)に秀頼の元に嫁ぎます。

1603年と云えば関ヶ原に勝利した家康が
徳川幕府を開いた年、この時、豊臣秀吉
は既に亡くなっており、豊臣秀頼は
六十三万石の一大名となってしまって
いて、大勢は決していたとも云えますが、
豊臣秀吉が残した巨万の富、難攻不落の
大阪城、秀吉恩顧の家臣には、家康も
僅かばかりの危惧を抱いていたのに違い
ありません。

慶長19年(1614)、思いもよらぬ事件、
豊臣方にとってはいいがかり、徳川方に
とっては千載一遇の事柄が起こります。
「国家安康 君臣豊楽 子孫殷昌(いん
しょう」、そう方広寺大仏殿鐘銘事件です。



方広寺大仏殿鐘楼歴史の勉強のようになってしまいますが、
この鐘に刻まれた銘は「家康」の文字を
分断しており、家康の滅亡を祈願したもの
だと、いいがかりを付け、秀頼、淀君母子
の江戸詰を迫ります。

ここに豊臣方はその挑発に乗って?、挙兵、
”大阪冬の陣”、(1614)、”大阪夏の陣”
(1615)へと突き進みます。

千姫にとっては、実家と嫁ぎ先による戦、
それまで城内では淀君らに敵の娘として
見られ、不自由な日々を送ったと伝わり
ますが、秀頼とは仲睦まじい夫婦であった
とも云います。



今は大仏殿はなく鐘楼のみが残ります。しかし、歴史は時として非情なもので、
難攻不落の大阪城も、冬の陣で埋められた
外堀では防ぐ手だてもなく、火が放たれ、
炎の中で落城、秀頼、淀君母子は自害して
果てることに…

千姫は、と云えば、孫娘の身を案じ、
「これを助けたものには千姫を嫁にやる」
と云う家康の触書の元、大野治長の
計らいによって大阪城を脱出します。
俗説は坂崎出羽守が猛火をかいくぐり
助け出すと云う物語になっていますが、
史実とは異なるようです。

史実と異なると云えば、錦絵や浪曲の
題材ともなっている千姫の”吉田御殿の
御乱行”、夜ごとに道行く人に声を
かけては御殿に誘い込み、享楽の果てに
毒殺したと云う話。

これもどうやら作り話のようで、千姫を
担いで豊臣家再興を図ろうとする元家臣ら
への対策説、また、落城後二ヶ月余りで
再婚した千姫への当てつけ、などの訳
あって生まれてきた話のようです。


判りにくいですが「国家安康 君臣豊楽」の部分千姫は慎ましやかな女性で、元和2年
(1616)、本多忠政の息子、忠刻と再婚、
姫路城に移り、播磨姫君とも呼ばれ平穏に
暮らしたそうです。

しかし、その平穏な生活も忠刻までが
病死で破綻、千姫は出家して天樹院と号し、
娘の勝姫と共に江戸に戻るも、3代将軍家光
が彼女を暖かく迎えたと云われます。その後、
千姫は江戸の竹田御殿で余生を過ごし、
70歳で波乱の人生を閉じたのでした。

戦乱の世、政略結婚、今の私達には想像の
世界でしかないですが、知恩院に眠る
千姫のお墓は実として歴史を伝えます。
日時:2006年11月3日(金/祝)
場所:半兵衛麩→六波羅密寺→*安井金比羅→知恩院→カフェ
人数:3


前述したエセレブランチを半兵衛麩で行い、六波羅蜜寺へ向かった。
その後の行程である。

安井金比羅

六波羅密寺を後にする。すると目の前に有名な「幽霊子育飴.」が見えてきた。
名前も恐ろしいが、興味本位で中を覗くと昭和臭を発した子供が飴を
売っていた。それはもっと怖い光景だった。
その飴屋を右へ曲がる。またも友人に連れられ次の目的地、安井金比羅へ
向かう。迷うことなく到着。ここは縁切り縁結びで有名だそうだ。
もう空が夕方になっていたので足早に中へ入る。

中へ入ると有名な縁切り縁結び石が目に入る。
穴の空いた石にこれでもかというほど貼り付けられた形代。すごいです。
内容も読んでいると面白い。

<メモ:縁切り縁結び石>
高さ1.5メートル、幅3メートルの巨石で、中央の亀裂を通して神様のお力が下の円形の穴に注がれています。
「○○君と幸せに結婚できますように」という可愛いお願い事から、「夫と浮気相手との縁を切って下さい」といった事まで、様々なお願い事を書いた形代(かたしろ、身代わりのおふだ)が張ってあって、碑が見えないほどです。
まず、形代に願い事を書いて、碑の表から裏へ穴を通って悪縁を切り、裏から表へ通って良縁を結びます。
最後に形代を碑に貼って祈願します。

上述の通り、石の穴を通ります。我らはもちろんあまり祈ることもないので
通っていませんが、この穴、非常に小さい。通るのはかなり勇気が要ります。



何故か縁切り神社でお金が降るほど儲かるとかいうお守りを記念に
購入しておきました。これが金色で結構かわいかったので。
お金に関するお祈りばかりしているのでいい加減神様に怒られそうです・・・。
友人達は一人は縁結びを購入、一人はおみくじを引いておりました。

ここはさしてお祈りもせずすっと通る。しかし縁を切りたいってすごいな・・。
あるいは祈っていると悪縁が出来ないのだろうか。
結構人が来ていたので全員に質問してみたかった。

<メモ2>
◆ご祭神
崇徳天皇(すとくてんのう)
大物主神(おおものぬしのかみ)
源 頼政(みなもとのよりまさ)

◆ご由緒
第38代天智天皇(てんちてんのう)の御代(668~671)に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が一堂を創建し、紫色の藤を植え藤寺と号して、家門の隆昌と子孫の長久を祈ったことに始まります。

第75代崇徳天皇(すとくてんのう)(1123~41)は特にこの藤を好まれ、久安2年(1146)に堂塔を修造して、寵妃烏丸殿(からすまどの)を住まわされました。
 崇徳上皇が保元の乱(1156)に敗れて讃岐(香川県)で崩じられた時に、烏丸殿は寺中の観音堂に上皇より賜った自筆の御尊影をお祀りされました。

下って治承元年(1177)、大円法師(だいえんほうし)が御堂にご参拝されましたときに、崇徳上皇がお姿を現わされ往時の盛況をお示しになられました。
このことを直ちに後白河法王(ごしらかわほうおう)にお伝えし、詔によって建治年間(1275~77)に建立された、光明院観勝寺が当社の起こりといわれています。

光明院観勝寺は応仁の乱(1467~77)の兵火により荒廃してしまいましたが、元禄8年(1695)に太秦安井(京都市右京区)にあった蓮華光院が当地に移建されました時に、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政を祀ったことから安井の金比羅さんの名で知られるようになりました。
明治維新の後、院を廃して安井神社と改称しましたが、第二次大戦後安井金比羅宮となり現在に至っています。

◆ご利益
悪い縁を切り、良縁を結ぶ
主祭神の崇徳天皇が、讃岐の金刀比羅宮でいっさいの欲を断ち切って参籠(おこもり)されたことから、当宮は断ち物の祈願所として信仰されてきました。
また、戦によって心ならずも寵妃烏丸殿とお別れにならざるを得なかった、崇徳帝の悲しみのお気持ちは、幸せな男女のえにしを妨げる全ての悪縁を絶ちきって下さいます。
男女の縁はもちろん、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切っていただいて、良縁に結ばれて下さい。
良縁に結ばれたご夫婦やカップルがお参りされても縁が切れることはありませんのでご安心を。

海上安全
崇徳天皇とご一緒にお祀りしています大物主神は、古くから道開きの神様として信仰されています。
特に讃岐(香川県)の金刀比羅宮は海上交通の守り神とされてきました。
当宮は京都市内唯一の金比羅さんとして、釣り人やマリンスポーツを楽しまれる方の信仰を集めています。

交通安全
海上安全と同じく、大物主神のお力によるご利益です。毎年5月10日の春季金比羅大祭に合わせて、交通安全祈願祭が斎行されます。
この後、次なる行き先は知恩院。これは明日へ続きます。

日時:2006年11月3日(金/祝)
場所:半兵衛麩→*六波羅密寺→安井金比羅→知恩院→カフェ
人数:3


六波羅密寺

前述したエセレブランチを半兵衛麩で行い、その後すぐ近くに
住む(五条在住)友人と待ち合わせてお寺めぐりへ。

お寺は前日までにそれぞれが興味を持つところをピックアップして
みたが、五条から遠い等問題があり、結局あって適当に
行こうということになった。14:40に五条橋で待ち合わせ、問題なく
合流。時間も時間ということで界隈のお寺を攻めることに。

さすが五条在住の友人は土地勘があり、さくっと目的地まで
連れて行ってくれる。まずは六波羅密寺を目指すことに。

京都の街は独特だ。京都人が頑なに地元を愛する気持ちもわかるが
頑な過ぎる気もする・・・。

あっという間に六波羅蜜寺へ到着。予想より拓けたお寺だった。
名前からして非常にあやしい雰囲気ただよう場所を想像していただけに
そこはがっくりきたが、それでもちょっと変わった感じをかもし出すお寺だ。
街中にあるのもまるでタイのチェンマイのようでいい。そう、お寺は
街に溶け込んでいるのがいい。







話はそれますが、たまたま朝テレビを見ていたら六波羅蜜寺の有名な
空也像のレプリカを制作した27歳の女性の特集をやっており、益々
興味深く訪れることができた。

さて、ここはその空也像や平清盛像などが有名。
それらは奥の有料展示で見れますが入り口まで行ったら中がほぼ全部
覗けてしまいます・・・。

メインのお寺は立派です。縁結びなども有名みたいです。
皆が書いたお札を(大変いけない行為ですが)読んでいたらものすごく
欲深い人がいて笑いがこみ上げてきた。

入り口には頭の上に色々な顔が山盛りのっかったなんとも言えぬ像
とまわしながら願いを唱える石があり、ちょっと面白い。
有料展示へ向かう途中左手にお墓が見えるのだがお墓に梵字などが
刻まれていた。







あまり時間をかけなかったが駅からも割と近くちょっと神秘的な感じも
漂うお寺であった。

WEBより

「六波羅密寺の歴史」

六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。
 当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)


 現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。


 上人没後、高弟の中信上人によりその規模増大し、荘厳華麗な天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄え、その数5200余りに及んだ。寿永2年(1183)平家没落の時兵火を受け、諸堂は類焼し、独り本堂のみ焼失を免れた。


 源平両氏の興亡、北条・足利と続く時代の兵火の中心ともなった当寺はその変遷も甚だしいが、源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉もまた大仏建立の際、本堂を補修し現在の向拝を附設、寺領70石を安堵した。徳川代々将軍も朱印を加えられた。


 現本堂は貞治2年(1363)の修営であり、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかに絢爛と当時の姿をしのばせている。


 なお、解体修理の際、創建当時のものと思われる梵字、三鈷、独鈷模様の瓦をはじめ、今昔物語、山槐記等に記載されている泥塔8,000基が出土した。重要文化財の質、量において文字どおり藤原、鎌倉期の宝庫と謂われる所以である。


[重要文化財]

空也上人立像
鎌倉時代(重要文化財)
平清盛坐像
鎌倉時代(重要文化財)
空也上人立像

運慶の四男康勝の作。胸に金鼓を、右手に撞木を、左手に鹿の杖をつき、膝を露に草鞋をはき、念仏を唱える口から六体の阿弥陀が現れたという伝承のままに洗練された写実彫刻である。

平清盛坐像

経巻を手にしたその風姿は平家物語に描かれている清盛の傲慢さは全くなく、仏者としての気品を覚える。一門の武運長久を祈願し、朱の中へ血を点じて写経した頃の太政大臣浄海入道清盛公の像である。

地蔵菩薩立像

地蔵菩薩立像

巨匠定朝の作。元六波羅地蔵堂の本尊で、面相も優しく彩色に切金を混用し、左手に頭髪を持った珍しい仏像で”鬘掛地蔵”といわれている。

地蔵菩薩坐像

地蔵菩薩坐像

運慶の作。一族の菩提寺十輪院の本尊。一名”夢見地蔵”といわれ眉目秀麗な面相や変化のある法衣のひだのまとめ方は実に優れている。

湛慶坐像

湛慶坐像

運慶坐像

運慶坐像

わが国の彫刻界の黄金期を築いた運慶・湛慶(運慶の長男)の父子の像。当時十輪院は運慶一族の菩提寺であったことから、本尊の脇侍のように祀られていた。


所在地及びアクセス:

 京都市東山区松原通大和大路東入二丁目

 JR「京都」駅下車。京都駅から京都市バス[206]系統(東山通・北大路バスターミナル行き)又は[100]系統(祇園・平安神宮行き)に乗車し、「清水道」で下車する。松原通を西の方向に約300m進み、左折し数10mで六波羅蜜寺に着く。バス停から徒歩約10分。
 阪急京都線「河原町」駅下車。地上に出て京都市バス[207]系統(祇園・九条車庫行き)に乗車し、「清水道」で下車する。松原通を西の方向に約300m進み、左折し数10mで六波羅蜜寺に着く。バス停から徒歩約10分。
 京阪電車「五条」駅下車。地上に出て五条通(国道1号線)を東の方向に約300m進み、国道1号線に架かる陸橋傍で北の方向に折れ、大和大路通を約150m進むとやや広い通り(柿町通:六波羅裏門通)と交差する。六波羅蜜寺への標識に従って、右折(東の方向)し約150m進むと六波羅蜜寺に着く。駅から徒歩約15分。

宗派:真言宗智山派

本尊:十一面観世音菩薩

開基:空也上人


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この後、安井金比羅へ向かうのだがそれはまた明日・・・・。

セレブランチ?@ 京都半兵衛麩

日時:2006年11月3日(金/祝)
場所:半兵衛麩
http://www.hanbey.co.jp/top.html  
人数:2


ここもかなり前から予約を入れて楽しみにしていたお店のひとつ。
全て麩で構成されたコースがいただける。
非常に人気店で割と早くから予約を入れておく必要がある。

絶好の秋晴れ。
友人はついでにお墓参りをするというので最寄の京阪五条駅で
待ち合わせたつもりがなんとばったり阪急十三駅で遭遇。
私は早く家を出すぎ、友人はちょっと遅れたとのこと。
すごい偶然。
京都を目指すにはちょっと遅めの時間だったためかそこまで
混んでいない電車で河原町までいく。
そこから友人のお参りする予定であるお寺まで一緒に向かった。
(ちょうど目的地の途中にあった)
人のお墓があるお寺を楽しむのも不謹慎だが、非常に立派な
お寺でまだ青いもみじと青い空のコントラストが素敵で友人が
お参りしている間、自然に癒されてしまった。









さて、目的地へ向けて歩き出す。割と歩いて五条橋が見えたら
橋に向かってちょっと左に曲がればすぐにわかる。
予想に反した建物に
キャアキャアいいながら暖簾をくぐると非常に
品のいいおば様が出迎えてくださる。ちょっと遅れていたが前のお客
がおしているとのことで写真撮影などして時間を過ごした。
店内も非常に凝っておりシャッターをきる手はとまらない。





食べる前からワクワクさせてくれるお店だ。おば様のおもてなしといい
食べる以外のスペースの余裕といい、名店はどこまでも細かいところに
心が配れているのだなぁと感心していたらついにお食事タイムへ。
店内もいい感じの照明に、ゆったりとしたスペース。
所作の美しい店員さん。完璧です。
我らは横並びのカウンター(ちょっとイメージ違うけど)
のようなところに通された。

まずはお手拭とお茶が出されてしばし料理を待つ。
大騒ぎしている集団ももちろんいなくてしっとりとしたこの大人な
雰囲気にお料理をいただく前から満足していました。
あまり大人数でいくよりは2人くらいで語らうくらいがいいと
思います。


いよいよお料理第一陣が目の前に。


凝った小料理満載で見た目にも大満足させてもらえます。
特に手前にあったお饅頭の美味なこと。麩だらけ・・・と聞いていたので
どんな料理だ・・と思っていましたがここまで趣向を凝らしていただくと
逆に今度はどんな味だろうと楽しくなってしまいます。
一口食べる毎にコメントしあっていると次のお料理が・・・。
(ゆば。これもうまいです)

(麩をあげたもの。これ、かなりおいしい)

(麩の霙風)

(これも満腹ながら白味噌??が抜群でしたね)
途中、おなかがパンパンになりましたが、何とか最後まで完食。
おわんの蓋を取るたびにきっちり麩が入っていて最後の方は
ちょっと笑えて来るほどとにかく麩づくしです。
全体的に割と味が濃い目で喉が渇きます。お茶がお上品な量しか
注がれないのがお上品ではない私にはきつかった。
てんぽよく運ばれてくるお食事を順調に平らげていたら1時間未満
ですべてのお料理を食べつくしていた。最後にお手洗いに
いきましたが、これがまた素敵でした。ちゃんとパウダールーム
もあり、割とゴージャスなつくり。トイレが素敵かどうかで
お店の格が見えますね。


かなり満足してお会計を済ませ、この後もうひとり合流してお寺
めぐりをする予定なので待ち合わせ時間まで店内を探索。
お庭も素敵。実際に麩を販売している併設店などをぶらぶらして
お店を後にする。



店を出るときもお迎えしてくれたおば様が我らが見えなくなるまで
丁寧な見送りをしてはった。これぞ一流店。こういうもてなしが
評価をぐんとあげる。
この後、友人と合流して京都探索するわけだが・・・それは明日
記載します。
半兵衛麩、ちょっとしっとり行きたいときには非常におすすめな店。

昨夜豊中のOKKIIというスンドウフ(豆腐鍋)
のお店に行きたかったのですが、定休日だった為、
西新地の「まん馬」に行ってきました。あの味かなり
ファンでした。韓国に行きたくなりましたね。アジアン最高です。

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夕食は予約の取れないお好み屋さんに行ってまいりました。
ワインと鉄板焼きを楽しめる、かなりお勧めのお店です。
機会があれば使ってみてください。
http://r.gnavi.co.jp/k853800/
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篠山「いわや」
http://www.eonet.ne.jp/~sanaka/
ボタン鍋、鶏鍋はお店の風情といいぜったいのお勧めです。