どうやら僕は「難しいことをいつも考えている人」として
記憶に残っているらしい。
それは的を得ている、と思う。僕は中学1年生の夏に、
家族と一緒に初めて海外旅行に出かけた。
行き先は東アフリカのケニアとタンザニア。
その途中で寄港したパキスタン南部のカラチが、
僕にとって初めての外国だった。
20年前のカラチは、中学生で多感だった僕にとって
あまりにも衝撃的で、その後の人生にも影響を
与え続けることになる。

1.パキスタン航空で東アフリカへ
当時、アフリカに行く飛行ルートは、2種類あった。
一つは北周り。欧州系の航空会社を使ってパリやロンドンに
直行便で飛んでから、トランジットして、アフリカに向かうルート。
もう一つは南周り。こちらは南アジアの国々を各駅停車のように
経由しながら、アフリカに向かうルート。ケニアの首都ナイロビに
行き着くのに合計2日以上かかるが、運賃が安いのでローバジェット
な旅行者には人気なルートだった。
僕らは家族4人で行くこともあり、もちろん南回りのルートを行った。
成田⇒マニラ⇒バンコク⇒カラチ、そしてカラチでトランジットして
⇒アブダビ⇒最終地 ナイロビ。合計4箇所も経由する
今ではちょっと考えられないルートだ。
航空会社はパキスタン国際航空(PIA)。頭文字をとって
"Perhaps I Arrive"(もしかすると、着くかもしれない)という
ブラックジョークがあるとおり、恐ろしく古い Boeing の中古機で
イスラム教のお祈りから始まるフライトだった。
すべては「インシャラー(神のみぞ知る)」で片付いてしまう世界。
カラチまでは、日本人 CA も搭乗していて、怖くないのか?の質問に
“湾岸戦争のときは、中東上空を飛ぶのが怖かったけど、
今は全然怖くないです、インシャラー” と答えてくれた。
※最後のインシャラーは創作です。
2.衝撃的なカラチ
僕はカラチで、日本では見たことないような貧困が
まるで当然のように日常生活の中にあるのを知った。
クルマが信号で止まるたびに、小さな子供たちがフロントウィンドウを
拭きにやってくる。信号が青になる前に拭き終えて、チップをねだる。
チップをあげるドライバもいればあげない人もいる。
あるいは、渋滞しているクルマの間をぬって、物乞いがやって来る。
手が変なふうに固まっていたり、ケロイド状になっているのを示して
お金をねだる。僕はクルマの窓を一つ隔ててそんな光景を見ていた。
僕を特別に可愛がってくれたドライバーさんは言った。
“私にも子供がいて、生きていればちょうど君と同じ年だった。”
当時のパキスタンでは、子供が生まれても生き残って大人になる
確率は少なかったようだ。

スラム街の中にあるような洗濯場を見学に行った。
お菓子やお金をねだりに来たこの子供たちは、
僕らが何もあげないと知ると、豹変して
小石を投げつけたり、唾を飛ばしてきた。
カラチで体験したことすべてが壮絶で衝撃的だった。
3.片目をつむって生きること
日本では「困っている人を助けるように」教育された。
ところが、パキスタンでは困っている人だらけじゃないか!
日本で生活してあたりまえだと思っていたことが、
そうではないことを知ってしまい、その後3年くらい
悩みに悩んで、夜うなされることもあった。
中学生には抱えきれないような宿題を、カラチからもらってしまった。
僕以外の人はカラチに行っていないのだから、学校で誰かに相談できる
はずもない。だから、僕は誰にも共感されることなく、
一人で問題を抱え込み、一人で乗越えるしかなかった。
まるで『デミアン』の主人公シンクレールが、嘘の誓いを立てたことで
その後の人生が一変してしまったように。僕は日本にいて、普通に生活
することがとても苦痛で罪深いことのように感じていた。
高校1年生の春だと思う。僕は、一つの答えに行き着いた。
僕は日本とは別の衝撃的な世界があることを知ってしまった。
しかし、誰かを助ける前に、自分を助けなくてはならない。
それまでは、片目をつむって生きよう。
世界にどんな現実があるとしても、日本での生活、
片方だけの現実を見て、とりあえず生きるしかないって。
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20年前のカラチ。それはものすごく衝撃的で、僕の中学時代や
その後に影響を与えた初めての海外旅行になってしまった。
カラチで経験したことは、やっと今になって話せるようになった。
しかし当時は、どうしても飲み込めない現実のひとつだった。








