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雨やどり

妄想小説『雨やどり』

 さて、お屠蘇気分もすっかり醒めてしまった1月半ば、暦の上では一番寒い時期の寒中だが、この男の心中は春の陽気だった。
『安眠』の常連客北斗は、日課のごとく今日も来ていた。
「マスター!このところっていうか、クリスマス前後から上機嫌だね。何かいいことでもあったの?もう、そろそろ教えてくれてもいいんじゃないかなぁ」
 この話になると、決まってはぐらかすのだ。
「まあまあ。そうだ。最近あの悪ガキども見ないけれど、どうしたんだろうね?」
「そうだよな~。俺も気にはなっていたんだが、年末から全く顔見ないなぁ。どこか調子でもわるいのかなー」
「集団でインフルエンザに罹ったとか。今年のは大変らしいよー」
「へぇー。俺も気を付けよう。みずほにうつって、それがちどりうつると、殺されるかもしれないからな~」
「ある意味、インフルエンザより怖いですからね。彼女は」
「言えてる!今頃くしゃみしてるかも。ハハハ」そう言ってふたりは爆笑したその時“ヘック・ション!”くしゃみが店内に響き、北斗は、何やら悪寒を感じた。偶然とはとても恐ろしいもである。
「おい!誰がインフルエンザより怖いって!?」
 北斗が振り返ると、そこに立っていたのはみずほだった。しかし声が違う、みずほの声ではないのだが聞き覚えのある声だ…。
「おぉ、みずほ」
「お兄ぃーちゃん!」
「今来たのか?」
 すると、みずほの影からちどりが現れた。
「あぁ、ちどりちゃん」
「何が“ちどりちゃん”だよ!!」
 そう言うと指をポキポキと鳴らした。
「俺じゃないよ。マスターだよ。マスターァ」
 そんな言葉に惑わされず、さらに北斗を睨みつけると「マスター悪い。今、大事なこと思い出した。勘定ツケといて」と言うや否や、新幹線の屋根上でジェットスキーをしているのかと思うくらいの疾風の如く「やっぱ、インフルエンザより怖いよ」と一言残して逃げ去った。
「ホント、兄貴、昔っから逃げ足だけは速いんだよね」
 みずほの一言に、ちどりは“ヤレヤレ”と思った。
“次は僕の番なのか”と思ったマスターは、カウンターの奥に逃げ込もうとした。その矢先、ちどりに呼び止められた。
「ところで、マスター」
 その言葉に“ドキッ”としてそのままビデオを巻き戻すように元の位置に戻ると、意外なことに「おめでとうさん」と言われ、ニッコリされた。耳を疑ったが、続いてみずほも 「おめでとうございます」と言って深々と頭を下げた。
 マスターは思わず「えっ!なんで!!なで知っているの!?誰にも言っていないはずなのに」と口を滑らせてしまった。みずほは不気味なほどニッコリ笑って「誰にも言っていない秘密って、な・あ・に?」と聞いてくる。ちどりも薄ら笑いを浮かべ、肩や首を回したりしてストレッチをして言った。
「正直に白状なさい。身のためよ」
 マスターはネコに追い詰められたらネズミのように万事休すである。“窮鼠猫を噛む”と言うことわざがあるが、彼にはそんなネズミの様な度胸すら持ち合わせていない。潔く白旗を上るのであった。
「誰にも言わないって約束してくださいよ」
 みずほとちどりはうなずいた。
「それから、レジのあやめちゃんも知らないので、大きな声では言えないけれど…」
「小さな声では聞こえません」
「みずほ、ナイス!って、そんな場合じゃねぇ!!」
 マスターはふたりのボケ・ツッコミについていけず、あ然とした。
「ノリ、悪いね~」とみずほが言ったが、ちどりが「で、本題は?」と切り出した。ちどりの顔色を伺いつつ話した。
「実は…、春に結婚を…することになりました」
「そうだろうね。だからおめでとうって言ったんじゃん。それで、相手は?」
 ちどりが口を開くたびに、ドキッとする。
「言わなきゃダメ?秘密にしたいんだけど…」
 すると今度はみずほが「別にいいのよ、秘密なら」と言うや否や「あやめちゃん!」と声を上げた。
 一瞬喫茶室の方に振り向いたが、幸い?接客中のあやめにはそんな余裕はなかった。と言うよりマスターとあすか先生のことはそれなりに知っていた。なぜならあやめが目撃者第一号でありマスターの思い込みであった訳で、マヌケ振りが現れていた。
 慌てふためいたマスターは「あぁぁぁ!わかりました。わかりましたから、全部話しますから、大きな声は出さないで…」と泣きついた。
「それで、相手は?」
 改めてちどりが尋ねる。
「・・・・・」
「ひょっとして、あすか先生じゃないの?」
 みずほのその言葉に、マスターはビクついた。もちろん、その瞬間を見逃すふたりではない。
「やっぱり!最近あすか先生も結婚するって噂が出た途端、なにか怪しかったんだよ」とちどりが言い出せば、みずほも「つまり、ふたりはグルだった訳だよね」と言って、マスターをさらに追い詰める。
「んで、いつも、あすか先生はどこに隠しているの?常連客だったのに、最近全然来ているの見ないんだもん」
 みずほのその問いに「いゃそれは~」と誤魔化そうとする。
「言えないの?じゃ…」
 ちどりの脅しに屈して「こ、工房でパン作りの…」と言い出した。
「そうか!あすか先生、パン作りの修行をしているんだ」
「それでだ!先生いつも眠そうな顔しているんだ」
「お昼は決まって『安眠』のパンだし」
「帰りは自宅直行だよ」
 みずほとちどりは口々に話し出した。
「朝、できたてのパンを並べるには、午前3時頃には工房に来て、こね始めないといけない訳でして…」
マスターはついに普段のあすかのことを話し始めた。

「ちーちゃん、朝3時だって」
「ありえねー!そもそも朝って言うのかね?」
「朝って言うより、未明だよ」
「だからだ!」
「ちーちゃん、どうしたの?」
「ほらほら、あすか先生、最近、電動アシストの自転車買ったじゃん」
「そっか、電車も動いてないもんね」
「と言うことは、いつも朝3時に来て、その後大学に行って、終わったら一目散に帰宅ってこと…」
「そうじゃない」

 マスターは申しわけなさげに、話に夢中のふたりに声をかけた。
「あの~…」
「なに?どうかしたの?」と、みずほは相変わらず、のんきだったが、その点ちどりはしっかり者である。
「あっ、ごめんなさい。本当に良かったですね。おめでとうございます。末永くお幸せに」とお祝いを申し上げた。
 そんなふたりにマスターは何かサービスしなくてはと思ったのか「今日は珍しい豆が手には入ったので…、試されます?」と言い出した。
 しかしみずほは何を勘違いしたのか「豆まきのお豆、もう買っちゃったんですか?これから節分の練習?」と言った。
「えっ!?」
 マスターはその意味を理解できずにいるが、ちどりはすかさず「節分用の大豆じゃなくて、コーヒー豆!」とみずほをたしなめた。
「ありがとうございます」
 とりあえずマスターはお礼を言った。
「珍しいって、どこのなんて言うコーヒー豆なんですか?」とちどりが尋ねると「ジャワ産のコピ・ルアクです。この豆は貴重な高級豆なので、まがい物が多いですが、これは間違いなく本物です。めったに入手できる代物ではありません。僕が保証します」と自慢気に答えコーヒー豆を見せた。
「そのコピなんとかって」
「コピ・ルアクです」
「それ。それって確かジャコウネコに豆を選別させるヤツじゃないですか?」
「さすがちどりさん、良くご存じですね。少々汚い話なのですが、ジャコウネコは良質で完熟した豆を好んで食べます。そして消化…」
「Stop!!それ以上言うな!」
 ちどりはマスターの話を途中で遮った。
「ちーちゃん、なんで話しを止めるの?」
「つまらない薀蓄なんて時間の無駄でしょう。ねぇーマスター」
 しかし、マスターはこの“ねぇーマスター”がいかにも“これ以上余計なこと話すとどうなるかわかっているよな!”と脅されているように聞こえた。
 ちどりとしては初詣後のトイレ事件をみずほに、思い出して欲しくなかった訳で、ましてこんな所で弾けられちゃーたまったものではない。さらにあんな呼び方をされたら…と思い起こすと寒気を催した。
 しかしながらみずほとしては、ジャコウネコが関係していることを耳にした以上、気になってしかたがない。まるで子犬のような瞳でマスターに訴えている。マスターはちどりのヘビのような眼とみずほの子犬の瞳、ふたりにまなざしの狭間で窮地に立たされた。そしてやっと思い付いた言葉は「とりあえず飲んでみませんか?飲んでいただければこのおいしさがわかると思います」であった。
 するとみずほは「あたし飲んでみたーい」と言ったが、ちどりは「私は遠慮する」と素っ気ない返事だった。
「ではちどりさんは何になさいます?」
 マスターの問いかけに、しばし考えたのち 「シナモン・ティーにします」と言った。
 マスターは 「シナモン・ティーですか?」と改めて聞き直した。
「ハイ。だってこのシナモン・スティックであることをすると、恋が成就するって噂でしょう」
「まあ、そんな噂があるみたいですね。噂ですがね。では今すぐコピ・ルアクのコーヒーとシナモン・ティーをいれますね」
 そう話すとカウンターの奥に引っ込んでしまった。

 マスターは焙煎された豆をミルにかけ、サイフォンに火をつけた。しばらくするとコーヒーの香りが漂い出した。あきらかにシナモン・ティーの香りなど楽しむことなどできそうにない。ちどりは、コピ・ルアク以外の高級コーヒーにすれば良かったと後悔したが、後の祭りである。
 やがて、ステンレスの丸盆にコーヒーと紅茶、そしてパンプキン・パイをのせてやって来た。
「どうぞ、カウンター席よりあちらの方がよろしいでしょう」そう言って、いつもあすかが座っていたテーブルに案内した。みずほとちどりも案内されるがままその席に着いた。マスターはカップとパンプキン・パイののったケーキ皿を丁寧に並べたが、丸盆にはコーヒーカップがひとつ残っていた。
「どうぞ、お召し上がりください。サービスですからご遠慮なく。もし…お邪魔でなければ僕も同席してもよろしいでしょうか?」
 丸盆に残ったカップですぐに察しがついたちどりは「構いませんよ。どうぞ」と言って席を勧めた。みずほはあまりよくわかっていなかったようだが、ちどりが気にならないなら構わないと思っていた。
 みずほはコーヒーを一口飲んだ。
「これがコピー…、コピー機じゃなくて、コピペじゃなくて、えっとー…。ネコのコーヒーですね。とってもおいしいです」
“ネコのコーヒー”なんて、みずほの適当語録に登録されかれない発言にちどりはすかさず「あんた、ネコのコーヒーって…。そもそもネコ用じゃないし、ネコはネコでもそこら辺にいる 野良猫じゃないんだよ!ジャコウネコ」と言うと、みずほも負けじと「ネココーヒーでけっこう、ケッコウ、コケコッコー!」と言返した。
 かたわらでは、マスターが笑いながら、コーヒーを味わい深く飲んでいる。
「やっぱり違いますねこのコーヒーは。みずほさんにとってはネココーヒーですか~。僕にはそんな発想、無いわー。持ってるわー」と半ばあきれたマスターの言葉に、みずほはなぜか上機嫌になった。しかし、ちどりにいたっては、完全にあきれかえっていた。
 結局、ちどりの思惑通りに進み、ジャコウネコの話は回避することができた。ただ、噂のシナモン・スティックの魔法を実行したかったのだが、マスターが目の前にいる訳で…。このような状況ではとてもフリすらできなかった。
「ちどりさん、シナモン・ティーお好きなんですか?もしや、好きな方がおられるとか…」とマスターが余計なことを言い出したものだから「えっ!?ど、どうして…」と慌てしまった。
 さらに「ちーちゃん、好きな人いるんだ~」などとみずほに冷やかされ「うるさい!!!!!」と怒鳴ってしまった。
 こうなるとなおさら怪しくなる。そしてみずほの容赦ない追及がはじまる。
「誰?誰??誰!?あたしの知っている人?」
「そんな人いません!あんたじゃないんだから。なんだったら全部言っちゃうよ。オジサンキラーのみずほちゃーん」
「ゴメン!降参です。白旗up!!」
「よーし。今回は大目に見よう。マスターはどうなの?なんならあやめちゃんじゃなくて、アイツらにバラそうか!?」
「ちどり様、恐れ入りました」
 ありもしない自分自身の恋バナで、ふたりの弱みを握ったちどりであった。

 一方『安眠』を逃げるように飛び出した北斗といえば、行く宛もなくただ駅に向かっていた。駅前には、どこにでもあるようなファーストフード店がゴロゴロあり、とりあえずそこで暇つぶしをすることにした。
「あぁ…まいった。まさかあのタイミングでちどりがいるとはなぁ…。“壁に耳有り、障子に目有り”って言うが、ホント、マジでヤバかった。あのままいたら確実に殺されているな」などとつぶやきながら店内に入ると、相変わらずホットコーヒーだけを注文した。味気ない紙コップに入ったコーヒーをトレイに乗せ、カウンター席の堅い椅子に腰掛けた。何気にため息を一度つくと、コーヒーを一口、口にした。
 そして思わず「え゛ー!なんじゃこりゃ!」と叫んでしまった。
“本当ならあの幻のコーヒー“コピ・ルアク”が飲めたはずなのに、何が悲しくこんなインスタントコーヒーに毛の生えたような、ぃゃこれならインスタントの方がまだマシだ!何が悲しくてここまで来て、この不味いコーヒーを飲まなきゃならないんだ?”と思っていると、視線を感じ辺りを見回そうと顔を上げた。先ほどの大きな叫び声で店内にいた客は、一斉に北斗の方に眼差しを向け、傍らのテーブルを拭いていた女子店員があわてて駆け寄り声をかけて来た。
「何か入ってぃ…、もとい、どうかなさいました?」
 店側としても最近、ポテトにビニール片が入っていたり、ナゲットに異物が混入するなどの事件が多いので、神経質になっているのだろう。
 北斗は即座に「いえ違います。大丈夫ですので!ホント大きな声を出してご迷惑をかけました」と平謝りしたが、なぜか女子店員は怪訝な顔をし舌打ちすると「カップにつまようじでも入っていたのかとびっくりしました。変なん声あげないで下さいね」と言うと去って行った。
 北斗はあっけにとられ、しばらく彼女の後姿を目で追った。

 偶然とは重なるものなのか、このファーストフード店には翼たちも来ていて、あの叫び声で北斗がいることを察知した。そして剣が北斗に声をかけて来た。
「先輩お久しぶりです。あの店員に何かしたのですか?メルアド聞いたとか?舌打ちしてましたけど…」
「no!no…。ここに入るのが今日初めてだから…」
 そんなことを話していると、翼が会話に入ってきた。
「ひょっとして、先輩のタイプじゃないですか!?ツンデレ系が好みなんですよね」
「バカ言え!!そう言う意味で見ていたんじやない!」
 すると今度は燕が加わりちゃかした。
「じゃーどう言う意味なんですか?ツンデレ系ならとっておきのいい子いますよ」
「どうーせ、ちどりのことだろう!」
「ピンポン!ピンポン!正解!!」
「アイツはツンばかりで、デレがないんだよ、デレが!!デレさえあればなぁ」
「そんなこと言わない方がいいですよ。後ろにいるかも?」剣が言えば、北斗はあわてて後ろを振り返った。
「先輩!やっぱりなんかあったんすか~?」と翼が尋ねた。そして北斗は『安眠』での出来事を話した。

「なるほど、それは災難でしたね」と翼が言えば
「口は災いの元ってことですね」と燕が言った。さらに剣が「それでここに来て、女子店員をナンパですか?」と尋ねた。
「そうじゃねー。暇つぶしだよ」
「でも、さっきの子、割と可愛かったじゃないですかー」
「そ、そうだったか…」そう言うと、北斗は先ほどの女子店員を目で捜した。すると偶然にもその女子店員と目が合ってしまい、彼女はニッコリ笑うとVサインをした。その結果、北斗は固まってしまった。
「先輩!国東先輩!」
 翼は、北斗の目の前で手を振って声をかけた。
 我に返った北斗はすこしあわてて「しかしここのコーヒー、不味いな!」と言い出し、燕は
「俺たちもここではコーヒーは頼まないんですよ」と言い、剣も「薄くて超アメリカンでしょう。『安眠』のコーヒーに慣れた者にとっちゃー、こんな所のコーヒーなんて飲めないですよ」と言い出し、翼も「あ~ぁ、『安眠』コーヒー、飲みてぇー!」と言った。
 その言葉を聞いて、北斗は「そう言えばマスター気にかけていたぞ。最近、お前らの顔すっかり見なくなって、どうしたのだろうって」と言った。
 翼たちは北斗の言葉に驚いた。剣は身を乗り出して北斗に尋ねた。
「マスターが本当にそんなこと言ったんですか?」
「ああ…」
 次は翼が尋ねた。
「俺たちのことが話題になって、不機嫌と言うか、落ち込んだりしていませんでしたか?」
「いや、そんなこともない。むしろ上機嫌だ」
 そして最後に燕が話し出した。
「そんなはずはないと思いますよ。だって、実は…、昨年末にシデカシしてしまって…」
「お前ら一体何やらかしたんだよ!?」
 三人は互いに顔を見合わせ、譲り合いの末翼が話すことになった。

「はぁー!?」
「マスターの恋路をバックアップする予定がハートブレイクに…。ホントすいません!悪気はなかったんです」
 余りに声が大きくなってしまったため、また客の注目を浴び、例の女子店員がまたやって来た。
「お客さま!若者をいじめないで下さい。彼も誠心誠意謝っているわけですから、ね~。ボクちゃん、わかった?」と言うと北斗の頭をポンポンとなでて上機嫌で戻って行った。翼たちは唖然として見送ったが、北斗は口を開けたまま固まっていた。
 やがて北斗は「俺ここにいたらいけないような気がする」と言えば、翼たちはうなずいた。「わるいが帰るわ。とにかくたまには『安眠』に行ってやってくれ。じゃー」そう言うと、一目散に出て行った。

                    ※

 暦はすでに2月になっている。翼たちは大淀教授に呼び出されていた。
「君たちは本当に卒業する気持ちがあるのかね?なんならもう一年頑張ってもらっても、僕としては一向に構わないのだがね」
 大淀教授のその言葉に三人はぐうの音も出ない。
「何か言いたいことはないのかな?」
「・・・・・」
「まぁ、少しは反省しているようなので、来週特別に追試をしてあげよう」
 三人は
「スミマセン」「申し訳ありません」「ありがとうございます」とそれぞれ言って部屋をあとにし、廊下を歩きながら話していた。
「去年の末は『安眠』の事件があったからな~」と剣が言い出せば、燕も「そうそう、そのせいで全然勉強する気にならなくてさー」と言い、翼も「あんときゃーめっちゃ凹んだもんな~」と言ったあと三人ともため息をついた。
 しばらく黙り込んでいたが、翼が思い出したように「久々に『安眠』に行ってみるか…」とつぶやいた。
 つられて剣も「そういや、国東先輩も言ってたもんな…」とつぶやき、燕の「じゃー行ってみるか!」の一言で『安眠』に向かうこととなった。

 翼たちは『安眠』の前までやって来たが、どうも入り辛いようで、扉の前で譲り合いをしていた。そんなことをするうち、突然扉が開き店内から出て来た女性客と翼がぶつかりそうになった。
「キャッ!スミマセン」
 その声にレジにいたあやめが気付き、外に出て来た。
「あれ~、翼さんじゃないですか。それに…悪ガキ三人組さんですね。お久しぶりです。ようこそいらっしゃいました。どうぞ入って下さい」と三人を招き入れようとした。しかし翼たちはまだためらっている。
「あやめちゃん…この前はゴメン、マスター…、元気?」
 翼はなんとか勇気を振り絞って話した。
 しかしあやめはあっけらかんと「マスターこぶる元気ですよ。今年に入ってからというもの、上機嫌ですよ。だから大丈夫。あっそうだよね。あの時はごめんなさい。言いすぎました」と言って頭を下げた。
 その態度に三人は恐縮して言った。
「いやいや」
「そんなことを…」
「頭、上げて下さい…」
「わかった。じゃー、とにかく入って!」
 そう言うと扉を開けて招き入れた。翼たちは小さくなりながらも、おずおずと入って行っが、喫茶室の前でまた足が止まった。
 さらにあやめが彼らの尻を追い立て、さらに「マスター!悪ガキ三人衆、やって来ましたよー!!」 と大きな声をかけた。
 三人はさらに恐縮したが「おぉ!久しぶり。まぁ入ってよ」と招き入れられた。
「元気そうで何より。今うまいコーヒーいれるから、好きなところに座ってよ」と上機嫌だ。
 だがそれゆえに、翼たちはあの日のことが思い出され、肩身が狭くなった。
「あの~マスター…」
 最初に声をだしたのは翼だった。
「うん?どうした」
「あの時は…」と言う翼の声に続けて三人、声をそろえて頭を下げた。
「すいませんでした」
「うぅん?なんのことだっけ?まぁー確かに君たちには常々何かとイジメられているからなぁ、たくさんありすぎて見当がつかないよ」と笑いながら話し、全く気が付いていないようだった。
 意を決して剣が尋ねた。
「あの…、ガ、ガラス窓のラブレターの件ですが…」
 すると思い出したのか、あっからかんと
「あーぁ、あれね。もう済んだことだし、気にしていないよ」と言い切った。
 これには、三人とも驚き顔を見合わせた。そしてあの時のことは“くれぐれも振れないようにしよう”と誓い合いうなずいた。

 やがてコーヒーの香ばしい匂いが漂い、翼たちを包み込むと一気に気持ちがリラックスしてくる。例のファーストフード店の物とは全く比較にならない。このすべての状況に、ここにやって来て良かったとつくづく思うのであった。
 やがてマスターがなぜか小さめのカップに入ったコーヒーを持って来た。
「君たちにはもったいない代物のストレートコーヒーだけど、久々に来てくれた歓迎の意味を込めてサービスするよ」
「ありがとうございます」
 うれしさのあまり三人は声をそろえて言った。
「でも、この香り、たまんねーなー」と燕が言い出せば、剣が言い返した。
「なにが“でも”だよ。まぁ確かにあの店とは匂いからして全然違うよな~」
 翼は、よほど気になったのか「これ、なんて銘柄なんですか?いつものホットじゃないですね」
と尋ねた。
「キリマンジャロだよ。特別だよ~。そうだ、これも食べてみて」と言ってパンプキン・パイを差し出した。
 三人は、正直あまりパンプキン・パイは好きではなかったので戸惑ったが、翼が「では、折角なのでいただきます」と言って、一欠片口に入れた。
 しかし,今まで創造していた味と違って、意外とうまかった。むしろ“意外と”が余計なほどだった。
 思わず「うまいっスね」と言ったものだから、剣と燕も一欠片口に入れた。二人は今までの先入観がなんだったのか?と思った。
「これって新作?ですよね。今までとは違うタイプですよね」と燕は尋ねたが「いいや、いつもと一緒」との返事。
 剣は「いや絶対何か改良したんでしょ?」と言ったが、むしろ「ぜんぜん。ひょっとして僕の作ったパンプキン・パイってそんなに不味いと思っていたわけ?」と聞き返された。
「いや、そう言う訳じゃなくて、甘いのって苦手と言うか…」
「パンプキンってかぼちゃだろう。野菜がお菓子になるってのも…」
「俺、実は野菜嫌いだからさ…」などとてんでに言い訳をした。
「でもうまかっただろう。女子は甘いのは好きだけれどカロリーを気にするからね~。だから甘さ控えめにして、むしろ素材の甘さを生かし、野菜独特の青臭さも気にならないように作っておりますものでね。よかったらこれからご贔屓に。そうそう、コーヒーも冷めないうちに味わって飲んでよ」
 そう言われて、思い出したかのようにコーヒーを口に含み、コーヒーの香りと苦味の中に潜むほのかな甘味に酔いしれる三人だった。

 やがてコーヒーとパンプキン・パイによって和んで来た頃、翼がマスターに尋ねた。
「何かいいことでもあったんですか?俺たちにこんなことまでしてくれて」
 マスターはあっけらかんと「久しぶりに常連さんだった君たちの顔を見れたんだよ~。サービスしたくなるじゃないかい」と言った。
 だが、翼たちはマスターの上機嫌がそのことでないことは察しがついていた。
「うまいこと言っちゃってー」「ホントは違うでしょう」「正直に教えてよ」とそれぞれ言ってはみたが、うまくはぐらかされてしまった。

 しばらくすると
「うゎー、コーヒーのいい匂い」
「やっぱ、この香りって落ち着くよね」
「あーちゃん、シナモン・ティー派じゃなかったの?」
「そう言うサクラだって…」
 などと口々に言ってやって来たのは、希たち女子三人組だった。
 剣が「ヨッ!久しぶり」と声をかけたが、あっさりスルーされた。
 隣にいた翼が「そう落ち込むなよ。いつものことじゃね~か」と慰めたが、果たして慰めになっていたのかどうだか。

 さて、女子三人組の方と言えば、剣のことなど意に介せず、いつものあすかの定席についた。
「マスター!今日はコーヒーをお願いしまーす」
 そう言って注文したのはあおばだった。
 続いてサクラも「飛びっきり美味しいヤツ、頼みまーす」と言い、希は「それからパンプキン・パイも3つお願い」と言った。
 するとマスターはそれぞれの注文に答えるように「ホットコーヒー3つね」「了解!じゃー今日は、僕のおすすめストレートコーヒーにするよ。みんないいよね?」「パンプキン・パイ、まいどありー」と得意気に言った。
 その姿は翼たちにしてみれば信じられないマスターの姿であり、ただポカーンと口を開けて眺めていた。
 そんな彼らの姿に気付いたマスターは「どうした?あごでもはずれたか?口にホコリが入るぞ」と言ったが、三人には届かなかったようである。
 そんな三人に“ゆっくりしていってよね”と言う意味を込めて軽く手を上げ、カウンターの奥に入って行った。

 再び店内に香ばしい匂いが漂いだし、その香りに包まれた時間を楽しんでいると、マスターが丸盆に女子が気に入りそうな可愛らしい小さめの花柄コーヒーカップと真っ白な皿に乗ったパイを乗せてテーブル席へと運んで行った。
 テーブル席の女子三人組は、カップの可愛さに思わず声を上げている。マスターはカップと皿を丁寧に並べ「こちらのコーヒーは、当店の今日のおすすめ“キリマンジャロ”のストレートです」
と言った。
「えぇー、これがキリマンジャロって言うコーヒーなんだ」
「のっち?知らなかったの?ブラジルとかブルマンとかと並んで有名じゃない」
「あーちゃんたら、カッコつけてブルマンだって!飲んだこともないのに」
 三人は大笑いした。
「ところでサクラ、このキリマンジャロってコーヒーどこの国で作ってんの?」
「コーヒーだから南米じゃないの?いや、ジャワ?ジャマイカ?まーいいか」
「なにボケ言っているの?コーヒーの発祥の地ってアラビアじゃなかったっけ?」
 などとろくにコーヒーの知識もないのに適当なことを言っていると、黙っていられなくなったのだろうかマスターが口を挟んだ。
「確かにコーヒーの発祥の地はアラビアですが、原産地はアフリカのエチオピアと言われています。このキリマンジャロはアフリカ・タンザニア産です。そもそもキリマンジャロとはアフリカ大陸の最高峰の山の名前で、この山麓でコーヒー豆の栽培がされているのでこの名が付きました。しかし今ではタンザニア産全般を言うようになりました。ちなみにアラビア産ではイエメンのモカ、インドネシア産ではトラジャ、マンデリンなどがメジャーですね。なお、ブルーマウンテンはジャマイカ産です」
「さすがマスター、コーヒーに関しては博学!」と希が言ったものだから、少し照れて苦笑いをした。さらに、サクラも「スゴい、スゴい」と褒め称えたが、あおばは「コーヒー以外の知識もあったらね~」 と言ったので、みんなで笑った。
「ところでマスター?ここのところスッゴく上機嫌だけれど、何かいいことでもあったの?」とサクラが尋ねた。
 すると希も「そうだよ!今日こそはそのことを正直に言ってもらいます」と言い出し、あおばも「ウソついたら承知しないぞー」とちょっと脅した。
 カウンター席の翼たちも固唾を飲んで、マスターが話し出すのを待っていた。しかしマスターは相変わらず「いえいえいつもと変わらないですよ。別にこれっと言っていいことがあった訳でもってありませんからね」と何事もなかったように装ったが、希は食い下がった。
「ウソだね。鼻がヒクヒクしているもの」
 すると、あおばとサクラも「ホントだ」「ヒクヒクしてるー」と言ったものだから、あわてて鼻を隠し「今日は、久しぶり彼らが来てくれたからだよ。ほら、あそこの三人組」と言ってごまかした。
「ホントかな~」
「めっちゃ怪しい」
「どうもごまかされたみたいな気がする」
 などと言ってみたが、取り合ってもらえなかった。

 このままでは不利だと思ったのか、カウンターに逃げ戻った。しかしそこでは翼たちが待ち構えていた。
「マスター、本当に俺たちがここに来たからテンション高めなのかよ?」
 翼のその質問に「そ、そうに決まっているだろう」と言い切ったが、それが要因とは到底思えなかった。

 テーブル席の女子はと言うと、もうすでに話題が変わっていた。
「あすか先生、最近ここには来ないのかな~?」とあおばが言えば「だって退職して結婚するんでしょう。きっと忙しいんだよ」とサクラが言った。
 希は「あすか先生のお相手ってどんな人何だろうね」と言い出し、イケメンだのスポーツマンだの御曹司だの、自分たちの理想のタイプを話しはじめた。さすがに聞き耳を立てていた翼たちも、これにはついていけなかった。
 あすかの話題が出ると、ばつが悪いのだろう、マスターは翼たちに気付かれないようカウンターの奥に隠れた。翼たちはそんなマスターの行動が不審に思うこともなく久しぶりのうまいコーヒーに酔いしれていた。
 女子たちの話にも聞き飽きた彼らは“あすか先生が…”と言っていたことが気にかかったのか、あすかの話題を話し出した。
「ミス・パンプキンも結婚してしまうのか~」
 剣はため息混じりで言い出し、その言葉にマスターは一瞬ドキッとしたがなんとか切り抜けることができた。
 燕はしみじみと「あのデカパイも誰かさんのものになっちゃんだよな~」と言ったため、その声が耳に入ったのか希たち女子三人組の白い視線を浴びた。
 そんな女子の視線を気にしながら翼は小さな声で尋ねた。
「あすか先生のお相手って、よもや大淀教授じゃないよな?」
 その時マスターは陰でほくそ笑んだ。
「それは有り得ないだろう」と剣が言えば「でも…☆明星祭☆のとき、二人一緒だっただぜ」と言い返した。
 すると燕がポツリと「幸せいっぱいの人間が“追試”なんてきびしいこと言わないだろうー」と言い出した。
「でもだ。サボってばかりの俺たちへの恩情かも知れないし…、ひょっとしたらマリッジ・ブルーってことも有り得る。そう思わないか?」
「それはないわ」
「それはないだろうよ」
 そんな彼らの会話をカウンターの奥で聞き耳を立てていたマスターは、思わず吹き出してしまった。
「マスター!何でそんなところで俺たちの話を立ち聞きしているんだよ!」
「何か俺たちの知らない秘密でも握っているのか!?」
「さっきからなんか怪しいと思っていたんだよな~」と翼たちに迫られてしまった。
 さらになぜか、希たちも加わってきた。
「マスター、ひょっとしてあすか先生のお相手、ご存知なのですか!?」
「それってさっき彼らが言っていた教授ですか?」
「結婚式はいつですか?ハネムーンはどこ?」などと矢継ぎ早に尋ねられた。
「ちょっと、ちょっと待って下さい。僕は、僕は何も知りません」と必死で言い訳したが、翼たちと違って希たちはそんなことで納得するはずもなく、さらに追及する。
「あすか先生って、この店の常連でしょう!」
「そうだよー。毎日のように通っていたのなら、何かしら話しぐらいしているでしょうが?」
「男の人って、そう言うところがズルいんだよ」
 困り果てたマスターは目で翼たちに助けを求めた。
 最初はあわてふためくマスターに笑っていた翼たちだったが、汗をかきながら必死で耐えている姿に、やむを得ず助け舟を出すことにした。
「まぁまあ、そんなに追い込んじゃかわいそうだよ」
「ちょっと落ち着いて」
「プライベートなことは、軽々しく話せないでしょう」などと言ってフォローしたが、彼女たちは今ひとつ納得がいかない。
 少し落ち着いたところで翼が「ミス・パンプ…ぃゃ、あすか先生に直接、結婚のこと尋ねたのか?」と聞くと、希は「聞いたけれど、うまくはぐらかされちゃって…。ね~」と答え、あおばとサクラはうなずいた。
「と言うことは、あすか先生はあまり触れて欲しくないんじゃないかな?」
「でも…」
「もし仮にマスターがいろいろ聞いていたとして…、そのこと話してしまったら、遅かれ早かれあすか先生の耳にも入ると思うんだよ。それも尾ひれが付いた噂になって。それって本人にとって気持ちいいものじゃないよね」
 希たちは仕方なくうなずいた。
「そうだね。わかった」
 マスターは汗を拭いながら希たちに「ご理解いただきありがとうございます」と言い、翼たちには「助すかりました、ありがとう」と言った。
 すると6人はそろって言った。
「マスター本当は全部知ってんじゃん!!」
「しまった!」

 そんなこんなで『安眠』の喫茶室が盛り上がっている最中、店の扉が開いた。レジにいたあやめが「いらっしゃい…」と言いかけて言葉を詰まらせたのには理由があった。入って来たのが厳ついサングラスにオールバック、いかにも一般人ではない、そっち関係を思わせる強面の男;霧島だったからだ。
 あやめは、なるべく眼を合わさないようにし、あわてて頭を下げた。霧島は挨拶替わりのつもりなのだろうか、軽く手を上げて喫茶室の方に向かった。すると今まであれほどにぎやかだった喫茶室が嘘のように静まり返り、翼たちや希たちは下を向いた。霧島はカウンターの一番端に座ると、翼たちのカップに目をやり「キリマンのストレートか…」とつぶやいた。
 今まで翼たちと一緒になって騒いでいた希たちの姿がいつの間にかなく、元のテーブル席に座っていて、おとなしくと言うよりは一言も話さずコーヒーを飲んでいる。彼らはそんな希たちの姿を目で追った時、不覚にもその男と目が合ってしまった。翼はあわてて残りのコーヒーを飲み干し、剣と燕はパイを一気に頬張った。
「ゴホォ、ゴホォ」
「しらやん、大丈夫か?」
 あわてすぎて燕は咳き込んでしまい、その様子を見ていたマスターたちは、吹き出しそうになったが、必死でこらえている。
「マスター悪い、俺たち追試があるんで…」
「しっかり勉強しないとあとがないから…」
「今日はごちそうさま。また来る」
 そう言うなり一目散に出て行った。見捨てられた感になったマスターたちは戸惑っていたが、そんなことを気に留めることもなく霧島は「エチオピア産モカハラーはあるか?」と注文した。
 即座にマスターは「ございます」と答えると、さらに霧島は「挽きは5番で!」と注文をつけた。
「かしこまりました。少々お待ちください」と丁寧に答えるとカウンターの奥に入って行った。カウンターの奥ではミルの音が響いている。
 コーヒーが出てくるまでの間、手持ち無沙汰の霧島は、胸ポケットからタバコを取り出し、一本抜き取って火をつけようとした。
 その時何を思ったのか、サクラが「ここって禁煙じゃなかったけ…」と言った。
希とあおばがあわててサクラの口をふさいだが、霧島は彼女たちの方を睨むように見ると、火をつけかけたタバコをおもむろにパッケージに戻し胸元にしまい込んだ。希たちは胸をなで下ろした。

 やがて三度目のコーヒーの香りが漂うと、マスターはブルーのカップにコーヒーを注ぎ、男の元に持って来た。霧島は一口飲むと「この店、兄ちゃんの店か…」と言った。
「はい。その節はお世話なりました」と答える深々と頭を下げた。霧島は室内をゆっくり見渡すと感慨深く言った。
「なかなかいい雰囲気じゃねーか。細かなところまで気遣いが感じられるな」
「ありがとうございます」
 霧島とマスターの関係が気になる希たちだったが“よもや”と言う思いが拭えず、物音すらたてないよう気を使い、緊張していた。その後、霧島はさらに一口飲みして尋ねてきた。
「ところでその後どうだ。うまくいっているか?」
「おかげさまで…」
「今度あんなことしてみろ、ただじゃ済まねーからな」とニヤリと笑って言った。
「肝に銘じて…」
 霧島は残りのコーヒーを一気に流し込むと「うまいコーヒーをいれてくれて、ありがとうよ」と言うとおもむろに席を立ち「落ち着きがあっていい所だ。だが、今日のところはあまりおよびでないようだ。機会があったらまた来るわ。邪魔したな」と言うと去って行った。
 希たちは大きなため息をつくと、安心したのか一気にしゃべり出した。マスターと言えば、普段と変わりなく、むしろ機嫌よく翼たちが使ったカップや皿を洗っていた。
 すると「マスター!マスター!」と声がかかった。
 振り向くと先ほどまで翼たちが座っていたカウンター席に、いつの間にか希たちが陣取っていて、ご丁寧にコーヒーカップや食べかけのパイの乗った皿まで持参していた。
「マスターは先ほどの男性とはお知り合いですか?」と希が尋ねると「えぇ、まぁ」と曖昧な返事をした。
「えっぇー!マスター、やーさんと付き合いあるんですか?」とあおばが言い出し、さらにサクラが言った。
「ひょっとして、何か弱み握られているんじゃないの?」
「そんな関係じゃないし…、弱みは握られていないと思う。たぶん…」と言ったが、三人はマスターそっちのけで話しが弾みだす。
 しかし、たちの悪いことにマスターが相づちを打たないと「ちょっと聞いている?」「マスターのことが心配だから…」などと責められるのだ。
「だって、厳ついグラサンにあの雰囲気、どう見たってブラックな職業ですって感じだったじゃない」とサクラが言えば、あおばも「そうそう“このあたり一体は俺のシマだ”とか言われてシャバ代、請求されているんじゃないの?」と言い出し、マスターの「人を見かけで判断しては良くないと思いますが…。それに大丈夫です。請求されてないです」と言う言葉など耳に入らない。
 さらに希も「でもさー“ただじゃ済まねーからな”とか言ってたじゃん。これは何かやらかしたんだよ」と言い「別に何も…していない…と思う」と言い訳すると、すかさずサクラが「絶対ウソだね。何かしでかして、マズいことになって、弱み握られているはずだよー。これは」と言った。
「それは絶対ありません」とマスターがかたくなに否定すると、まくし立てる様に「じゃーどういう関係よ!?言えないでしょ」とサクラの追及が続く。
「道端で出会って…。ちょっとお世話に…」
 マスターのその一言が、さらに話をややこしくする。
「そっか!マスターがヤンキーに絡まれていたところを助けてもらったとか」とあおばが割って入ると、希も「なるほど!相手がヤーサンなら、ヤンキーも素直に引き下がるものね」と言い出た。
「でも、そのヤンキーってグルかもよ。マスターに貸し作って、ここをブツの受け渡し場所に使おうって魂胆なんだよ」
「なるほど!サクラ、スゴい!!」
「ってことは、今日下見に来たってこと?」
「のっち、さえているねー。スッバラシーイ!」
「だとしたら、早めに警察に連絡した方がいいんじゃない!?」
「そうだね。その方がいい!」
「マスター!マスター!聞いている。今すぐ警察に連絡しな!!」
 下手に言い訳すれば、追及されあの日ことがバレるし、野放しにすれば話しがややこしくなる。マスターはほとほと困り果てた。
 結局、希たちは自分たちの妄想を押し付けて、言いたい放題言った挙げ句
「マスター!警察に相談するんだよ!」と言って帰っていった。
 バレンタインデーが近付くにつれて、みずほはあせっていた。つまり彼氏に渡すチョコを市販品にするか手作りにするか、迷い続けていたのだ。そもそも、手作りするには自分自身の力量に不安があるし、ちどりに相談すれば“そりゃー手作りの方がいいんじゃないの。男の人って、好きな人の手作りに弱いからね。市販品だと一流品じゃないと失礼だし、高くつく。でも手作りなら材料費も安くつからね。それに市販の板チョコ溶かして、型に流して、冷やして固めるだけでしょう。大丈夫、それくらい小学生でもやっているよ。多少形が悪くたって手作り感があっていいんじゃない。私の場合だったそうするよ。でもお返しはブランドものでお願いしたいけれど…”と言われていたからだ。
“もし手作りして失敗したら…『あたしは小学生以下!?』と言うことになりはしないか。それがきっかけで『申し訳ありませんが、お付き合いは、なかったことに…』なんて言われてしまったら…。いや、それならまだ『料理教室に通って、頑張りますから猶予をください!』ってすがりつくこともできる。でも『みずほさんって、小学生以下ですね。とても大学に6年も通っていたなんて、信じられませんよ。もう一度、小学校からやり直した方がいいですよ』なんて言われたら、結婚できるのが早くても10年先になる。いや、せめて大学を卒業してないと、大学教授の妻が中卒では申し訳ない。すると後15,6年はかかってしまう。市販品の高級チョコを買って、この秘密を隠し通し結婚まで持ち込み、その後、真実を明かすべきか?っそれとも、小学校からやり直さなければならないリスクを背負って、手作りに挑戦すべきか?”などと思い悩んだ結果、手作りチョコに初挑戦となった。
 理由は単に“お金をかけたくない”だったことは言うまでもない。とりあえず近くのスーパーマーケットで、適当に板チョコ数枚を買い、家路を急いだ。

「ただいま」の言葉もそこそこに、みどりの「手洗い、うがいした!?」の声も聞こえないのか、台所に直行した。そして早速、アルミ箔でなんとか、ドでっかいハート型を作りステンレスのパッドにのせた。
「えっと、まずはチョコを溶かさないと始まらないよね~」などと独り言をいい、片手にスマホを持ち、鍋を用意した。スマホの画面には、一応手作りチョコの作り方が表示されている。
『板チョコを適当な大きさに割って湯煎し溶かします』
“湯煎ってなんだ?まいっか”と思ったのが間違いの元だった。なんと水も入れず鍋をそのまま火にかけた。そして割った板チョコを投入。結果は見えていた。
「あーぁ、焦げちゃった。火が強かったのかな~?とりあえず再挑戦」
良くも悪くもこの程度でくじけるみずほではない。
 またしても、直火で…。ただ先ほどよりも弱火で…。
「今度はうまくいくと思ったのに~!また焦げ付いたよ~。そっか!逆に強火で手早くすればいいんだ!」
 何を血迷ったか、ついに暴挙に突っ走るのである。勘だけはいいはずなのだが、こういうときには働かないのだ。

 やがて隣の部屋にいたみどりが異変に気付き、台所に飛び込んで来た。シンクには真っ黒な鍋が2~3個転がっていた。そして、コンロの上の真新しい鍋から煙が上がっている。
「なんか焦げ臭いと思ったら、あんた何やってるの!!煙が充満しているじゃないの!!火事かと思ったよ。さっさと換気扇回しなさい!あ~ぁ、買ったばかりのお鍋こんなに焦げ着かせて…」
 みどりはその状況から、手作りチョコを作ろうとしていることはすでに察していた。
「あんた何で湯煎しないの!?」
「だって…湯煎のやり方がわからないんだもの…」
「湯煎も知らないの?あきれた。お湯を使って溶かすの!」
「そっかー。お湯の中にチョコを投入して、沈殿したら上澄みを捨てればいいんだー」
「バッカじゃないの!あきれて言葉も出ないわ…。どこで育て方間違えたんだか、ここまでひどいとは…。親の顔が見てみたいよ」
 みどりはあきれかえっていたが、みずほは、どこに隠し持っていたのか手鏡を取り出し「ハイ」と言った。
「なるほど、この子にしてこの親ありとはよく言ったものだ…。やかましーわ!ちょっと、どいて!」
 みどりはみずほをはね除け、鍋に水をはると火にかけ、湯煎の準備をした。
「はい、チョコかして!」
 みずほは残ったチョコレートを手渡した。
「なに!?これだけしかないの!?」
 申し訳なさげにうなずく。
「あんな大きな型に流したら、薄っぺらいハートになるのよ。いいの?金箔ならいいけど、チョコレート箔になっちゃうよ!」
 みずほは首を横に振ると「今から買って来る」と言ったが「今更遅い!夕飯が作れなくなるでしょが!!型を小さくしなさい!型を!!」みどりに叱られ、泣く泣く小さくした。

 溶かしたチョコレートを流し終えると、みどりはしみじみ言った。
「こんなチョコ、貰うちどりちゃんも災難だよね。これじゃ絶対、元も取れないよな。今回ほど、みずほちゃんに彼氏がいなくて良かったって思ったことはなかったわね」
 その言葉を聞いて“実は彼氏にあげる予定でした”とは口が裂けても言えないみずほであった。

                    ※

 とうとう来ました2月14日。今日はヴァレンダインデー。
 大淀とのデートの約束を取り付けたみずほは、朝から落ち着きがなかった。着て行く服は決まっているのだが、靴下をどれにするかにはじまり、寝ぐせがついた髪を何度もブラッシングしているがなかなかおさまらず、洗面台を占拠していた。北斗は、いつまで経っても場所が空かないので、少々イラついていた。
「デートの相手もないのに、いつまでかかっているんだよ。早く空けてくれ!仕事に遅れる」と半ばみずほをバカにして言った。
 するとみずほは、思わず「彼女いない暦ウン十年のお兄ちゃんに言われたくないも~ん。だって今日は彼氏とデートだもん」と自慢げに言ってしまった。
 北斗は耳を疑ったが、つい叫んでしまった。
「ありえねーぇ!母さん、みずほが今日デートだって!!」
 その言葉にみどりは飛んで来て即座に反応。
「それはない!断じてない!!みずほちゃんウソでしょう。今日はエイプリルフールじゃないのよ。あっわかった!そうか!ちどりちゃんとデートなんだよね~」と言って小馬鹿にした。
 しかし、みずほは開き直ったが「違うもん。彼氏、できたんだもん…」とつぶやき、その言葉を耳にしたみどりは尋ねた。
「本当なの?じゃあ、どうやってその人と知り合ったの!?ほら言えないでしょう」
 そこまで言われると、覚悟を決めない訳にいかない。みずほは思い切って経緯を話すことにした。

「去年の9月の雨の日に、あたしが雨やどりしている時に彼も雨やどりしていて…。カッコイイ人だったので、もう一度会いたいと思って、苦しい時の神頼みで神社で願掛けしたの。そしたら、初詣での時に私の晴れ着の裾踏んづけた人が、なんと彼だったの。そんな縁でお付き合いすることになりました」

 しかし、北斗は「おいおい、笑わせないでくれ。そんな話し信じられねぇょ。神様にお願いして叶うなら、俺様の横には、優しくて可愛い嫁さんがとっくにいるはずだよ。それこそ武井咲ちゃんみたいなカワイイ子が!」と言って笑い飛ばした。
 みどりも「そんなバカげた話し、今まで聞いたことがないよ。と言ってもまだ25だけどね」と冗談交じりに笑いながら言った。
「母さん25才なら、俺いくつよ。バカも休み休み言ってくれ~」
「バーーー。      カ」
「それ、意味が違う」
 二人はお腹を抱えて大笑いした。
 そんな二人を横目にみずほは、まともに取り合ってもらえないことに腹が立ったのか、ついつい熱くなった。
「だってホントだもん!れっきとした男の人とデートなんだってば!!」
 しかし、まったく聞き入れてもらえず
「ハイハイ、ちどりちゃんとね」
「ちどりってやっぱり男だったか」
 などと茶化されたので、顔を赤らめて叫んだ。
「ママのバカ!兄ちゃんのバカ!!」
 それでも相手にしてもらえず、仕方なしに二人を無視して、美絵のおすすめのルージュを使ってみることにした。
 そしてルージュを取り出したその時、今度は「母さん!今日のネクタイどこにあるんだ~?」 などと言って八雲が入って来た。
 しかし、そんなことなど気にも留めず、おもむろに唇を彩りはじめると「おーぃ!青とブルーどっちが・・・・・」と言いかけた八雲が「あれ?みずほちゃん熱でもあるのか?そんなことして…」と言って、おでこに手を当てた。
 当然、先ほど熱くなって叫んだので、顔も若干赤いのだ。
「ちょっと熱があるみたいだな~。母―さん!大変だ!みずほちゃん熱あるぞー!」と八雲が言えば、さっきまで北斗とともに腹を抱えて笑っていたみどりが急に真顔になり「それは大変。まだインフルエンザが流行っているから、お医者行ってきなさい。ちどりちゃんにうつしたら大変でしょう」と言い、北斗も「アイツにうつすと大事になるから、絶対、医者行けよ!!」と言った。
「でもデートが…」
 反論も虚しく
「そんなこと言っている場合じゃないでしょうが」とみどりは語気を強めた。
 さらに「お医者に行くのだから、口紅は取りなさい。それからそのワンピース、似合ってない訳じゃないげれど、お医者に行くにはハデすぎだから、さっさと着替えなさい」と言われ、口紅を拭き取り、折角今日のために千秋たちがプレゼントしてくれたワンピースだったのに、着替えなくてはならなくなってしまった。
 結局、スッピンに普段とかわり映えしない服装で、みどりから手渡された保険証と診察券を片手に家を出た。
 ただ高級チョコを購入する時間とお金がなかったので、一応念のため、例の大失敗作手作りチョコはしっかりと持参していた。

 この時期の内科は以外と混み合っていて長時間待たされそうな予感がした。とりあえずみずほは、大淀にメールを送ることにした。

手紙『前略 大淀赤城様
 この度はお忙しい中、私の為にお時間を割いていただきありがとうございます。しかしながら、母の指摘により“インフルエンザの疑いがある”と言い張りますので、仕方なく内科診療を受けに病院に来ております。生憎かなり混み合っておりますので、お約束の時間に間に合いそうにありません。
 また、陽性の場合、感染する恐れが御座いますので、その時はお会いすることが叶いません。どうかご了承下さいませ。なお、陰性であればお付き合い頂きたく存じます。
 何かとご不便ご迷惑をお掛けしますが、宜しくご配慮いただけますようお願いいたします。
草々 国東みずほ』

 しばらくすると、大淀から返信が来た。

手紙『みずほちゃんへ
 わかりました。大事無いことを祈っております。僕はインフルエンザ・ワクチンを接種していますので、うつらないと思います。ご安心を。
 もし差し支えなければ、病院までお迎えに上がりましょうか?
赤城』

 そのメールを読んだみずほは思わず「やった!迎えに来てくれる」と大きな声を出してしまい、ほかの患者のひんしゅくを買ってしまった。

 診察の結果を聞くまでもない事なのだが、予想通り“陰性”で、熱もなく“いたって健康。問題なし”と太鼓判を押された。
 窓口で診察費を支払い振り向くと、なんと大淀が立っていた。
「あっ、先生。ご心配をお掛けしました」
 すると大淀は「みずほちゃん、先生は勘弁して下さい」と照れくさそう言った。
「えっと…、あの~、なんてお呼びしたら…、いいですか」
「そうですね~、赤城でいいですよ」
「呼び捨てはちょっと…。赤城さんなので“あかちゃん”でもいいですか?」
「“あぁぁぁあかちゃん”ですか?ちょっと恥ずかしいな~。でも、みずほちゃんが付けて下さったニックネームですからいいでしょう。その代わりみずほちゃんのことも“みーちゃん”って呼びますよ。それでよければ“あかちゃん”でも構いません」
「では“あかちゃん&みーちゃん”で」
 みずほははじめてニックネームを付けてもらって天にも昇る気分だった。しかし場所が悪かった。なにせ待合室でのやりとりだったため、近くにいた子供に「ママ!このお姉ちゃんラブラブだね」と言われてしまった。その言葉が待合室にいた患者さんたちの笑いを誘ったのでふたりは顔を赤らめた。

「みずほちゃん。ぃゃ、みーちゃん、どうぞ」
 みずほはエスコートされて大淀の車の助手席に乗り込んだ。
「ご自宅までおくりましょうか?」
 大淀の問いに、みずほはすかさず答えた。
「いいえ。どこかドライブに連れていて下さい」
 大淀は「わかりました」と言ってとりあえず車を走らせた。

「さて、みーちゃん、どちらに参りましょうか?」
「ぁ、ぁかちゃんにお任せします…」
 みずほは自分で名付けたはずなのに、いざ口にすると恥ずかしく“あ”の言葉がはっきり発音できない。にもかかわらず大淀が堂々と“みーちゃん”と呼ぶので、その度ごとにテレてしまった。
「では、ご自宅まで」
「イジワル…」
「僕に任せるって言ったからじゃないですか。ではどこがいいですか?」
「じゃあ、とりあえず海!」
「えっ!海ですか?海と言っても、砂浜もあれば磯もあるし…」
「んじゃ、港の見えるところがいいです」
「わかりました。では僕のとっておきの場所にご案内しましょう」
 大淀は、カーナビに入力することなく目的地を目指した。

「みーちゃんは車の免許、持っていますか?」
「一応免許は持っていますよ」
「へぇーそうなんだ」
「へぇーって、なんか失礼。自分ではペーパードライバーではないと思っていますよ。YDKですから」
「YDK?」
「あぁ“やれば出来る子”です。略してYDK」
「なるほど」
「ただ、運転したくても自分の車を持ってないので、父か兄に借りなきゃいけないんですよね」
「でも、貸してもらえない」
「そうなんです。父は一緒なら貸してくれますよ。それに“みずほちゃんは初心者にしては上手い、上手い”って、誉めてくれるんです。本当がどうかわかりませんがね。でも、兄はぜんぜん。“お前に貸したら俺の愛車が不名誉の勲章だらけの瀕死状態になる”って言うんですよ。あたしの腕前を見くびるな!つうの」
「じゃあ、運転してみます?」
「えっ!でも…。今日のところは甘えたいので、遠慮しておきま~す」
 そんなことを話しているうちに、どうやら目的地に着いたようだ。

 着いた所は、丘と言うよりは山裾と言った方がいいのかも知れない。そこに建ったわりと大きなお寺だった。境内から見晴らしは抜群で、対岸の島との間には大きな川のような海が見える。そしてそこには漁港や造船所などがあって、時折、対岸の島とを結ぶ渡船が行き交っていた。
 みずほはその景色に言葉をなくし、しばらく見入っていた。大淀も隣に立って見入っていたが、頃合を見計らって優しく声をかけた。
「どうですか?気に入っていただけましたか?夕暮れになると太陽の光が水面に反射して、ノスタルジックな気分になります。心が疲れた時はここに来て、気持ちをリフレッシュさせています」
 そんな大淀の言葉にみずほはただうなずくだけだった。

 しばらくして大淀がまた声をかけた。
「暦の上では春だと言うが、春とは名ばかり。まだまだ寒いですね。みーちゃん、そろそろ暖まりに参りましょうか」
 そう言うと首に巻いていたマフラーを取ってみずほに掛けた。みずほは背中から抱き締められるのかな?と期待していた。そして、あわよくば・・・・・なんて想像したが、残念ながら無惨にも妄想だけで終わってしまった。

 大淀について行くと、ほど近くにある喫茶店が見えてきた。店の名は『ライラック』今の季節にはそぐわない名だとみずほは思ったが、店先にあるシンボルツリーが目に止まり、納得した。
 店の木の扉を開けると、カウベルが鳴り『いらっしゃいませ』と声が聞こえた。中に入ると中央にいまどき珍しいだるまストーブが鎮座し、そのそばのテーブル席に着いたふたりは、まず冷えた手を暖めていた。
「ここは『安眠』ほどでもないかも知れないけれど、なかなか落ち着くでしょう」
 みずほは“居心地はいいな~。店の名前のライラックの花の咲く初夏の頃に、また彼と来たいな~”と思っていたが、とりあえず今は大淀の言葉にうなずくだけだった。
 大淀は「今日はヴァレンタインデーだからホットチョコにしましょう」と言ってホットチョコを頼んだ。
 お互い言葉が思い浮かばず沈黙が続いた。やっぱりふたりきりならともかく、まわりには見知らぬ人しかいないとわかっていても、なぜか緊張してしまう。気が付くと、いつの間に運ばれてきたのだろうか、テーブルの上には生クリームがたっぷり乗ったホットチョコが置かれていた。このことに先に気付いた大淀が優しく言葉をかけた。
「みーちゃん、温かいうちにどうぞ」
“みーちゃん”と呼ばれるとなぜだか、悪寒が走る。いやこの表現は良くない。悪寒はまずい。確かにゾクゾク感はあるのだが“みーちゃん”と呼ばれるごとにキュンと胸が締めつけられる感じがしてしまう。でも、なんだか子猫が呼ばれているようでもあった。
「あっ!ハイ」と言ってみずほはホットチョコを口にした。
 そして一言「あれ?ココアじゃん」
「えっ!?知らなかったの?」
 驚いたのは大淀の方だった。みずほは、ただ笑ってごまかすしかなく、つられて大淀も笑った。

 またまた、しばらく沈黙の後
「あの~ぅ、ぁかちゃんって…。あああぁぁぁ…」
 みずほはカンシャクを起こしたいような気分に陥り、聞きたいことを素直に聞けずにいた。
「どうかしましたか?」
 大淀の言葉に、さらに困ってしまった。自分で名付けておきながら、どうも“あかちゃん”と呼べないのだ。
「ぁ、あ、赤城さんは、どうして名字みたいなお名前なんですか!?」
 そう話すと、みずほの表情がホッとした。
「ああ、そうですよね。僕の名前は祖父に付けてもらったと言うか、由来があるのです。僕の父は“妙高”と言いましてね。父も名字みたいな名前でしょう」
「はぁ…」
 みずほはとりあえずうなずいた。
「実は昔、祖父が海軍に配属されていましてね。初めて乗艦した時に父が生まれたんです。そこでその艦艇の名を取って“妙高”付けたそうなのです」
「おじいさんは、ご存命なんですか?」
「いいえ。ミッドウェー海戦で戦死しています。僕の名前はその時祖父が乗艦していた空母の名です。“赤城”と言う名のね。“生きて帰ることは望めない。せめて最後の船の名を孫に…”と遺言を残したそうで…」
 みずほにとって太平洋戦争とは過去の歴史であって、あまり考えたことなどなかったが、こんな身近なことで気付かされたことに少し戸惑った。
「みーちゃん、大丈夫?僕は自分の名前のことで悲観的に思ったことはないですよ。むしろ祖父からいただいた名前だから気に入っていますよ。いつもおじいちゃんに見守られているみたいでね」
大淀はそう言って笑った。みずほはそんな大淀の笑顔を見て、なんだかうらやましく思った。

                    ※

 一方、ヴァレンタインデーの日のちどりと言えば「何もヴァレンタインデーに愛を告白するなんで過去の話よ!自分の為にスイーツをいただくのが今の時代よ…。それにお呼ばれだもんねー」と一人笑みを浮かべ、つぶやいた。と言うのも、2月初めにみずほをデザート・ブッフェに誘ったのだったが断られてしまったのだが…。

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「ねぇ、みずほ。イタリアン・レストランでデザート・ブッフェがあるんだけど行かない?」
「ワーイ!!行きたい!いつ?いつ?」
「2月14日なんだけど、どうかしら?」
「えっ2月14日!?何かあったぞ~。何の日だっけ??」
「“セント・ヴァレンタインデー”だけど…」
「2月14日“セント・ヴァレンタインデー”ってうわー!ゴメン、ゴメン。その日はデートなんだ…」
 みずほの口から“デート”と言う言葉が出てくると、強いて“私と彼氏のどっちが大切?友達の縁を切られたくなければ付き合え!”などと強気なことはとても言えなかった。仕方なく…。
「そう。気にしないで。ほかの人誘ってみるから」と恋路を邪魔しないように気を遣った。
 とは、言ったもののアテがある訳でもなく、昨年末に予約を入れてしまっている。それにあのイタリアン・レストランでのデザート・ブッフェ、キャンセルするには惜しい。そんなことを考えているところに、運よくちとせからメールが入った。

手紙『ちどりちゃん、雑誌のインタビューがあるのだけど、どうかな?ただ日にちが14日なの。
ちとせ』

 ちどりはちとせのメールに乗じて、ちとせを誘うことを思いついた。

手紙『インタビューの件、了解しました。
詳しいことをお尋ねたいので、後ほどお電話します。
ちどり』

 と、とりあえず、ちとせに返事を送った。
「今、丁度ちとせさんからメールが入って、2月14日に雑誌のインタビューがあるんだって」
「へぇ~。そんなお仕事もあるんだ」
「だからデザート・ブッフェ、ちとせさんを誘ってみるよ」
「ちーちゃん、ゴメンね」
「いいよ。気にしなくて」
「で、雑誌のインタビューってどんなことするのかな?」
「さぁ、初めての経験だからよくわからない」
 などといつものように会話を楽しんだ。

 みずほと別れたあと、ちとせに電話してみると、どうもちとせも都合がつかないらしい。ただ、ちどりさえ良ければそのイタリアン・レストランでインタビューが可能だと言う。相手のインタビュアーもスイーツ好きだそうで、かつ飲食代は先方持ち。当然、ちどりは喜んで受け入れた。

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 待ち合わせの駅に着くと、ちとせがもう来ていた。そしてちとせから約5㍍ほど離れた所には…。
“まさか?人違いでしょう…”ちどりはそう思ったので、あえて無視した。
「ちとせさん、おはようございます。来るの遅かったですか?」
「ちどりちゃんおはよう。大丈夫よ。私も今着いたばかりだから。でも、ごめんね。ご一緒できなくて」
「あっ、それはかまいませんよ。今日はご馳走になります」
「あっそれから僅かだけど謝礼もあるそうよ。早速だけれど、一応紹介しておくね。加賀さん!加賀さん!そんなところにいないで、こっちこっち」とちとせは近くにいた男の人を呼び寄せちどりに紹介した。
「こちらは雑誌社の加賀さん。こちらはモデルの松風ちどりさん」
 ちどりは“えっ!”っと一瞬驚きかけたが、失礼がないように「今日はよろしくお願いします」と、ちょっと強張りながらの笑顔で答えた。
「あっ、は、はじめまして、情報誌“IXV”の加賀常陸と申します。今日はよろしくお願いします。謝礼の方はインタビュー終了後にお渡しいたします」
 加賀は挨拶すると頭を下げた。
 その男は背が低くちどりと同じ位だろうか。かかとの高い靴を履いているためか、男性にしてはなお低く感じる。太ってはいないがお腹は出ているように見える。頭は白髪混じりで髪は短く白ぽいコートを着ていた。
 しかし、ちどりの心中は穏やかでない。加賀の姿を改めて確認し“何が悲しくてヴァレンタインに、こんなオヤジとスイーツ食べなきゃならないんだよ”と思った。

 そんなことなどお構いなしにちとせは「じゃー申し訳ないけれど、私もう行かなきゃならないので、加賀さん、あとはよろしくお願いします。ちどりちゃんのご馳走になってきてね」と言うと、手を振ってそそくさと駅の中に消えて行った。茫然と立ち尽くすちどりに加賀が恐る恐る声をかけた。
「あの~、そろそろ我々も参りましょうか」
 その言葉に我に返ったちどりは「あっ、はい」と返事をし、ふたりはイタリアン・レストランに向かって歩き出した。

 道中、加賀はかなり気を遣っていた。
「今日は申し訳ありませんね。せっかくのバレンタインデーなのに…、ほかにご予定、あったのではないですか?」
「いいえ。どちらかと言うと、私寂しい女なのかもしれません。付き合ってくれる人がいないんです」
 ちどりはイヤミな言い方をした。そして心の中では“どうせ私はモテない女ですよーだ”とアッカンベーをしていた。
 そんな心中を察してか、加賀は「すみません。こんな日にこんなダサいオヤジが相手で…」と取り繕ったが「気になさらないで下さい。仕事ですから」
 ちどりの言葉は完全に社交辞令だった。

 着いた所は“RISTORANTE OZIO”と言う名の会員制ホテルに隣接されたイタリアン・レストランだった。
「こちらですよね」
 加賀の言葉に、終始無言だったが、頭の中は愚痴だらけでどこをどう歩いて来たかも記憶にないちどりが口を開いた。
「えっ、あぁぁ。よくご存知ですね」
「ここはよく利用させていただいているもので…。どうぞ」
 加賀はちどりをエスコートして招き入れた。
 そこは入り口の扉を入ると若干長い廊下になっており、その両脇にワインセラーがあり、真正面からウエイターが現れた。そしてそのウエイターは加賀の顔を見るなり尋ねた。
「いらっしゃいませ、加賀様。いつもありがとうございます。失礼ですが今日はご予約承っておりましたでしょうか?」
「いや、今日は私の予約じゃないんだ」
 加賀がそう答えると、ちどりが「すみません。予約したのは私です。松風で予約したのですが…」と口を挟んだ。すかさずウエイターは加賀に詫びると予約簿を確認した。
「失礼いたしました。松風ちどり様でいらっしゃいますね。2名様で承っております。よろしければコートをお預かりいたします」と対応し、加賀とちどりのコートを預かると席へ案内した。

 中は洗練された雰囲気で、高い天井にゆったりとしたソファー席まであったが、案内されたのはテーブル席だったが、見上げると頭上には大きなシャンデリアがあり、ちどりは思いのほか気に入った。
 席に着くと、ちどりの目の前には早速ワゴンで可愛らしいスイーツの数々が運ばれ、その中のいくつかを選んだ。そして、飲み物がそろったところで、インタビューがはじまった。
「ぞうぞ、召し上がりながらで結構ですよ。ではさっそくですが、インタビューをはじめまさせていただきます。今回は“今どきの女の子は・・・・・”と言うテーマでお聞きしております」
「はい。よろしくお願いします」

 インタビューは実に短く10分程度で終わった。
「質問事項は以上で終わりです。何か松風さんの方からご質問はありますか」
「いいえ、別にありません」
「そうですか。では、これでインタビューは終わりです。お疲れさまでした。わずかですがこれを、どうぞお納め下さい」
「ありがとうございます」
 ちどりはうれしそうに謝礼を受け取り礼を言った。ついつい中身が気になり、封筒の中をのぞき込むと、予想以上の額が入っていた。
 その姿を見ていた加賀は「少なくて申し訳ありません。薄謝ですので…」と申し訳なさげに言うと、ちどりは驚いたように否定し恐縮した。
「こんなにたくさん頂いてすみません。ところで加賀さんって、こちらによく来られるのですか?」
 インタビューを終えて気持ちも落ち着いたのか、気さくに話し出した。
「ええ、まあ」
「ウエイターさんの接客が常連さん扱いですものね。それからそのネクタイお似合いですね。ステキだと思います」
「あぁ、これですか?松風さんとお会いするので、一番のお気に入りをと思いましてね…」
 加賀はちどりが店に入る前と比べて、言葉が柔らかくなったと感じ、さらに気付いて欲しい事をほめられたので嬉しくなった。
「でも、その色のワイシャツにはちょっと…」
「さすがモデルさんですね。手厳しい。やっぱりダメですか」そう言うと笑ってごまかした。
「ダメってほどではないのですが…」つられてちどりも笑って言った。
 気を良くした加賀はちどりに尋ねた。
「松風さんはいつ頃からモデルさんになろうと思われたのですか?」
「う~ん…」
 少し悩んだ後「実は、私、母子家庭なんです」と言い出した。
 加賀は少し戸惑ったが、ちどりは気にすることなく話し出した。
「小学校に入学して、しばらくたった頃に父が亡くなりました。そのため母が働いていたので、学校から帰るといつもひとりぼっち。なのでいつも大好きなリカちゃん人形で遊んでいました。着せ替え遊びしているうちにファッションに興味を持ちました。人形のお洋服を替えると気持ちが華やかになったり、元気になったり。時にはいたずらっ子になったりしましてね。本当に楽しかったんですよ。魔法みたいで」
「そうだったんですね。お父様を亡くされているんですね。申し訳ないことを聞いてしまいましたね」
 加賀は気まずく思ったが、ちどりは「お気になさらないで下さい。正直言って最初お会いしたときは、何が悲しくてヴァレンタインデーにおじさんとふたりでドルチェ食べなきゃならないんだろうなんて失礼なこと思っていました。でもインタビューを受けていて、父がいたなら加賀さんみたいなんだろうなって思っていました。中高校生の頃よく友達が“パパがウザっくて”って言葉をよく耳にしましたが、ちょっとそんな経験もさせてもらったかなって思っています」
「そうですか。それは喜んでいいのかな?」
「すみません、失礼なことばかり言って…。それでお願いがあるのですが…」
「はい、何でしょうか?」
「今だけ、ここでだけ、私のパパ、あっいや、すいません。お父さんと思ってもいいでしょうか?」
「松風さんのお父さん役ですか。いいですよ。こんな綺麗なお嬢さんが娘だったら大歓迎です」
「あと…」
「なんでしょう?」
「名字でなく、名前でお願いします。“ちどり”って呼んで下さい」
「わかりました。“ちどりちゃん”でいいですか?」
「あの、呼び捨てでお願いします」
「では“ちどり”と呼ばせていただきますね」
 ふたりはスイーツを食べながら、レストランのディナータイムがはじまる直前まで親子ごっこを楽しんだ。

 レストランを出るともう辺りは暗くなりはじめていた。
「今日は本当にありがとうございました」
ちどりは深々と頭を下げて礼を言った。
「いえいえ、私も楽しかったですよ。ちどりさんみたいな綺麗で素敵なお嬢さんが娘役をして下さったのですからね。それにうちには子供がいないので、年頃の娘を持った気分になりましたよ。ありがとう」と加賀も心から楽しんだようで滑舌が良かった。
 すると、ちどりは加賀の腕に手を回して「パパはこのあとご予定ありますか?」と甘えてきた。
 加賀はその手を払うことなく「いいえ、別にありませんが…。まっすぐ家に帰ろうかとも思いましたが、今日は気分がいいのでちょっと寄り道して帰ろうかと思っています。あっ、それからね。松風さん、楽しい夢はいつか醒めるものです。長く見るものじゃない。儚いからいいのですよ。夢とは叶わないもの…、でもDream(夢)は叶えるものですがね。ハハハハハ。日本語と英語では、同じ意味でもネガティブとポジティブになってしまいますよね。でも、ポジティブな思いがあればまたいつの日か、夢の続きを見ることができるのではないかな?それに、このことが女房に知られるととんでもないことが起こりかねないので…。今日の事は心の奥にしまっておきます。松風さんも今度はステキな彼氏と楽しんで下さいね。今日は思い出に残るバレンタインデーをどうもありがとう」
 ちどりはあわてて手を離すと「あっ、奥様にご迷惑かけちゃいましたね」
「大丈夫ですよ。ご心配なく。やましい事などしていないですから」
 加賀は笑って言った。
 ちどりはその言葉に答えるように
「そううですよね。やましい事は何もありません。親子でしたからね。私も今までで一番ステキなバレンタインデーになりました。今日は、本当にありがとうございました」
「ではまた機会がありましたら、その時は…」
そう言うと加賀は人混み消えて行った。後の方の言葉は聞き取れなかったが、ちどりは“パパ!ありがとう!!”と心の中で叫んで手を振った。

                    ※

 ちどりが加賀と別れた同じ頃、みずほと大淀と言えば、彼の車で帰路についていた。夕焼け空の下、見慣れた街並みまで来たころに、みずほは礼を言った。
「今日はありがとうございました」
 そんな彼女の言葉に大淀は冷たく言った。
「まだ、自宅に着いていませんよ。こんな所でいいんですか?」
 みずほは口を尖れさせて「もう、イジワルなんだから」そう言うと笑った。
 しかし、その笑いが落ち着くと、またしばらく沈黙があり、みずほは何か話さないと焦ったが、話題が思いつかないでいた。ふたりっきりの時間も終わりに近い訳で、気持ちだけが急いていた。そして車が赤信号で止まった時、思い切って言った。
「これを…、どうぞ!」
 差し出したのは、例の大失敗した手作りチョコが入った箱だった。
「あ、ありがとうございます」
 大淀は嬉しそうに礼を言うと同時に信号が青に変わり、止むを得ず交差点を渡りきり、後続車を気に掛けながらハザードランプを点け路肩に寄せて止めた。
「開けでもいいですか?」
「はい」
 みずほは恥ずかしさの余り小さな声で答えた。大淀は丁寧にリボンを外し、静かに箱を開けた。中には、小さなハート型のまさに手作り感が全面にかもし出されたチョコが、遠慮がちにちょこんと鎮座していた。
 大淀は感激して「とても嬉しいです。みーちゃんの愛情が溢れていますね」と言い、みずほは
「すみません。こんな出来が悪くなって…。有名なお店のチョコレートの方が良かったですよね」
と、恐縮した。
 しかし、みずほの意に反して大淀は「みーちゃんが、僕のために一生懸命頑張ったんでしょう。どんな高級チョコよりも嬉しいですよ。この形を見ればその苦労がよくわかります」と言った。
 みずほはなぜか涙がこぼれた。大淀はみずほにハンカチを渡し、再び車を走らせた。

 やがてみずほの自宅近くまでやって来ると、街灯があるところにゆっくりと車を止めた。自宅に横付けしないのは大淀の配慮だ。
「今日は、どうもありがとう。ご両親によろしくお伝え下さい。また、連絡します」と別れの挨拶をした。
「いえ、こちらこそありがとうございました。今度は、私が運転してドライブに行きましょう」とみずほがハンドルを操作するマネをして言ったものだから、大淀は笑いながら「それは楽しみだ。期待していますよ。ではまた」と言って、去って行った。

 みずほは内心“かなり遅くなってしまったな~”と思いながらも、彼がチョコを受け取ってくれたときの事を思い出し、上機嫌で玄関の扉を開けた。
「ただいま」
 すかさずみどりが駈け出て来て叱った。
「あんた、今の今までどこほっつき歩いていたの!?本当にこの子は、鉄砲玉なんだから」
「だって彼氏とデートだって言っていたじゃん!」
 みずほもすかさず言い訳をする。しかしこの程度で引き下がるみどりではない。
「何を訳のわからないこと言ってんの!あんた、インフルエンザなんでしょうが!!何のために病院行ったのよ。言い訳するならもっとまともなこと言えないのかしら!?」
「だって,お医者行ったら、先生が健康そのものって言ってくれたもん」
「だったら、寄り道しないでまっすぐ帰ってきなさいよ。それが無理ならせめて連絡ぐらいしなさい!お母さん、心配していたんだからね」
「ごめんなさい…。でもなんで“心配していたんだ”って、過去形なんだ…?」
「何か言った!?」
「いいえ、なにも…」
「だったら、さっさと手洗い・うがい、しなさい!」
「ふぁ~ぃ」
 みずほはぶっきらぼうな返事をした。
「この子は本当に反省の色がまったくないんだから…」
 みどりはブツブツ言いながら、台所に入って行った。
 結局みずほは家に帰り着くなり、天国から地獄に落ちる羽目になってしまった訳である。
 校門の前には“学位記・卒業証書授与式”と掲げられている。つまり今日は『暁曙学園大学』の卒業式である。

 みずほは感慨深げに言った。
「ちーちゃん、この門をくぐるのも今日が最後なんだね」
 その言葉にちどりも応えた。
「まぁねー。6年も通ったなんて思えないほど、あっという間だったね」
「ちーちゃん…。卒業しても…、今までと変わらず友達でいてね」
 みずほはすでに涙声になっている。
「みずほ、あんたもしかして泣いているの!?卒業したって今まで通りの友達だよ。それも無二の大親友なんだから」
 ちどりはあきれて笑いながら言ったが、内心嬉しかった。
 この言葉にみずほの涙腺は完全に緩んでしまった。
「ちーぢゃん、あぢがろう。ごれがらも※#◎Ⅹ∮※」
「みずほ。なに言ってんの!?言葉になってない。でも気持ちはよくわかるよ。だから泣かないの。ヨシヨシ」
 ちどりは優しくなだめた。

 卒業式の式場である講堂に向かうため、ふたりはキャンパスを名残惜しそうに歩いていると、前の方から誰かが駆け寄って来た。ふたりの後輩いなほだった。
「みずほ先輩、ちどり先輩、ご卒業おめでとうございます」
「どうも、ありがとう」
 ふたりはハモるように礼を言いい、ちどりは「2年ほど余分に勉強させていただきましたが、今年は何とかみずほと一緒に卒業できる運びとなりました」と苦笑しながら付け加えた。
「本当に6年間ご苦労様でした」といなほが言ったものだから、涙をこらえていたみずほも笑ってしまった。
 さらに続けていなほは「両先輩には、本当にお世話なりました。おかげさまでドラマのオーディションに合格しました」と嬉しそうに言った。みずほとちどりは一瞬、顔を見合わせて「いなほちゃん、おめでとう」「良かったね。でもこれからが大事だからガンバンなよ」と言ったが、みずほはまたまた涙声になってきた。
 心配したいなほは「みずほ先輩、大丈夫ですか?目が真っ赤ですよ」と言えば、ちどりが「そうでしょう。校門に入った時からこの状態。はてさて、この先どうなることやら」とあきれかえっていると、みずほは「ぢーぢゃんのイヂワル、※#◎Ⅹ∮※」と訳のわからないことを言い出したので、ちどりといなほが顔を見合わせて笑い出し、つられてみずほも笑った。
 ちどりはいなほの報告に「でも、これで私のライバルが一人増えたって訳ね。いなほちゃんなら強敵だなぁ~」と言ういと、いなほは「そんなことないですって。ひょっとしてちどり先輩、モデルから女優に転身を考えておられるのですか?」と尋ねた。
「そう言う訳じゃぁないの。でも最近のモデルさんって、女優業をされている方、多いでしょう。例えば、杏さんとか本田翼ちゃんとかさー」
「そうですよね。ちどり先輩がライバルなら、私はもっとガンバンらないとね」
「そうよー」
 お互いに笑い合った。
 涙がおさまったのか、目元を赤く腫らしたみずほが尋ねた。
「いなほちゃん、どんなドラマにでるの?」
「学園もので高校生役です。ちどり先輩がミスコン出場の時、セーラー服で出場していたのを思い出して、高校時代のセーラー服引っ張り出して、それ着てオーディション受けました。ちょっと恥ずかしかったですけど、印象が良かったみたいで…。でもドラマの制服はブレザーだったんですがね。あっ、そうそう、主役は知念侑李くんと広瀬すずちゃんなんですよー。めっちゃ嬉しいです。ただね、初めてセリフのある役で、その上、主役のクラスメートなのですよ。だから正直ちょっと緊張しています」
 いなほは、よっぽど嬉しかったのだろう、ターボエンジン全開で話した。ただ、ちどりの方は、言わずもがな…。
 そんなちどりのことなど全く気にせずみずほは言った。
「良かったね。オンエアされたら必ず見るから」
 その言葉をきっかけにいなほは「ありがとうございます。実はこれから撮影があるのでこれで失礼します。どうもお世話になりました」と言って手を振りながら走り去って行った。とりあえずみずほとちどりは手を振って見送った。

 講堂では式典が始まり、学校長や来賓の挨拶が行われている。みずほとちどりも長い挨拶に、少々あきてきたようで、コソコソとしゃべり出した。
「そう言えば、このステージでちーちゃんと漫才したんだよね。あすか先生に唆されて」
「唆されてはちょっと言い過ぎじゃない?でも、まさかみずほがミス・キャンパスに出場するとはね~。ホント恐いもの知らずって言うか、無鉄砲って言うか」
「そうよね。今思えば無謀だったよね。だけどいい思い出になった」
「そりゃそうでしょう。優勝しちゃったんだから」
「そうだよね…。ちーちゃん…一緒に…優勝したんだよね…」
 みずほがまた感極まってきた。
「みずほ、大丈夫?」
 ちどりが気遣ったが「ダメ…」と言うなりワンワンと大声で泣き出した。そのため壇上の来賓も挨拶が続けられず、言葉に詰まってしまった。
「ちょっと、みずほ!まずいよ」とちどりが声をかけても「だっで…、ぼう…、びんなと※#◎Ⅹ∮※…」と取り付く島もない。
 その時、近くにいたあすかが駆け寄り一喝した。
「みずほさん、静かになさい!」
 我に返ったみずほは、ばつ悪そうに黙り込んだ。しかし、よく見ると一喝したあすかの目も濡れていた。

 長かった式典も終わり、みずほとちどりは、あすかの元に駆け寄った。
「あすか先生、お世話になりました」
「先生もここを卒業ですね」
 ふたりの言葉に、あすかは「卒業おめでとう。6年もかかっちゃたね。私も退職するから本当に寂しい…」と感慨深かげだった。
「あすか先生…それから、遅くなりましたが、ご婚約おめでとうございます。お相手は複雑な性格のあの方ですよね」と、ちどりはちょっと意地悪く言ったので、あすかは焦った。
「えっ!どうして?知ってたの!?」
「ハイ。ご主人になる方をちょっと脅したら…」とみずほが言いかけたので、あすかは人差し指を口に当てて、小声で言った。
「ひょっとして、マスターしゃべっちゃった?」
「えぇまぁ。でも誰にも言っていませんよ。まだね」と言ったちどりの言葉であすかはホッとした。
 しかし、そこにやって来たのは、希たちだった。
「あすか先生~!」
「お世話になりました」
「ありがとうございました」
 希たちはそれぞれ挨拶した。
「希ちゃん、あおばちゃん、サクラちゃん、卒業おめでとう。良かったね」
 そんなあすかの言葉に希は「でも…もうあすか先生にも…会えないと思うと…」と涙をこらえながら話し出した。すると、あおばも「退職して、ご結婚されるのですね…。もうこの大学にも居ないと思うと…」言って言葉を詰まらせた。しかしサクラは相変わらずマイペースで「ご結婚されたら新居に行ってもいいですか?」と尋ねた。
 その時、何を思ったか傍にいたみずほが「大丈夫『安眠』に行けば会えるじゃん」と言ってしまった。
 一瞬にしてあすかは凍りつき、慌てたちどりがみずほの足を踏みつけた。
「痛っ!」
 みずほは小さな声をあげちどりを見ると、恐い目で睨んでいた。そして取り繕うように「あ、あすか先生『安眠』の常連さんだから…ねぇ」とフォローし、あすかも「あっ、えぇ。そうね。あそこは居心地がいいから、また通っちゃうわね…」と言って笑ってごまかした。
 するとサクラが
「でも最近『安眠』にいらしていないですよね?」と突っ込んできた。
 その言葉にちどりが「いや…、それは…、ご結婚前で何かと忙しくて『安眠』に行く暇もなかったですよね~」と言い、あすかは「そ、そうなのよ。結婚する前ってこんなに忙しいとは…、思わなかっわ」と答えた。
 すると今度は、希が急に怖い顔をして言い出した。
「だったらあすか先生はご存知ないとおもいますが…」
「あの店、ヤクザに目を付けられたみたいで…」とあおばが言い、サクラも続いた。
「マスターもその男に『今度あんなことしてみろ、ただじゃ済まねーからな』って、すごまれていましたから…」
 そのことを傍らで聞いていたみずほが何を思ったのか「ヤクザ屋さんって、やっぱり顔に傷とかがあるのかな~?ねぇ、ちーちゃんどう思う?」と話し出した。
 ちどりは「シッ!」と言ったが「あたし、見てみたい。本物のヤーさん見てみたい!」と言い出しちどりは「うるさい!」とみずほの頭をはたいた。
「痛テッ」
 しかし、あすかはみずほとちどりの事など完全にスルーし、希たちの話に動じることなくその男の容姿を尋ねた。
「えっと、オールバックのヘアスタイルで…強面で…」
「高そうなグレーのスーツで…」
「あと、グラサンしていました」
 そのことを聞くと、あすかはさらに尋ねた。
「それで、マスターはビビっていた?」
「そう言えば…意外に…落ち着いていて…」
「マスターは『その節はお世話なりました』と言って深々と頭を下げていたよね」
「うんうん。それから…男に『ところでその後どうだ。うまくいっているか?』と聞かれて『おかげさまで』って答えていました」
 あすかはそのことを聞くと、何か気付いたようで笑みを浮かべた。
「本当にその男の人、本当に悪い人なのだろうか?私はそんなことはないと思うわね」
 するとサクラが「えぇっ!あすか先生なんであんなヤクザの片持つのですか?ひょっとして知り合い?」と言い出し、あすかは何を思ったか焦って言ってしまった。
「愛のキューピットが優しく可愛いとは限らないものよ」
「えっ!?愛のキューピットってなんですか?」
 すかさずあおばから質問が飛んだ。あわててあすかが否定するように「そ、そう言う訳じゃないの…。人って見かけによらないものよ。容姿や第一印象で決めつけるのは良くないと思うの。ほら…仏教学の講義で話したとでしょう。不動明王は恐い顔をしているけれど、慈悲深い仏様なのよ」と苦しまぎれに話すと、その言葉を聞いたちどりはふと加賀のことを思い出し話し出した。
「あすか先生の言う通りだと思う。中年オヤジって、私たち女子大生から見れば、あんまりいい印象はないし、できれば敬遠したい。でも話してみると、人生経験が豊富だから、色々なことを知っていて意外と面白いんだよ。だから人を見かけだけで判断してはいけないと思うよ」
 さらにみずほが「希さんたちは、そのヤクザ屋さんとお話しした?」と尋ねた。
「話してないげれど、男がタバコに火をつけようとしたとき、ついサクラが“ここ禁煙じゃなかったけ”と言ったら、素直にタバコ引っ込めたよね」と希が言った。
「でしょう。その人、悪い人じゃないわよ。安心しなさい。もし、万が一のときはマスターが追い返すわよ。きっと」とあすかが言った。
 希たちは「わかりました。先生の教えを信じてみます」「大学ではお世話になり、ありがとうございました」「また『安眠』で会える日を楽しみにしております」と言ってあすかの元を後にした。

 希たちが去ったあとあすかは感慨深げにつぶやいた。
「花に嵐の喩えあり…」
 その言葉に続いてみずほが「さよならだけが人生さ」と言った。
 ちどりは尋ねた。
「何それ?」
 するとみずほが自慢げに「『勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離』と言って、中国の漢詩『勧酒』を井伏鱒二が訳したもので、友との別れを読んだ詩なんです。まぁ、簡単に言うと、一期一会と言ったところでしょうかね」と言った。
 するとあすかは「でも作家の寺山修司氏は『さよならだけが人生ならば、また来る春は何だろう…さよならだけが人生ならば、人生なんかいりません』って詩を残しているのよ」と言い、名残惜しいようだった。

 しばらくの沈黙の後、ちどりがあすかに言った。
「ところで、希たちの話に出て来た男の人って、あすか先生、本当は知っているんでしょ」
「実はそのヤクザ屋さんが愛のキューピットさんだったりして…」とみずほも続いた。
 ふたりの言葉にあすかは「やっぱり、ばれちゃった?」と照れ笑いした。
「バレバレですって!」
 ちどりのその言葉に三人は笑った。
 そしてあすかは言った。
「でも、ちどりちゃんがオジサンキラーだったとはねー」
「えっ!ちーちゃんそっち系だったの!?」
「誰がオヤジ好きだって?それはみずほの方だろうがっ!」
 あすかは、ちどりのその言葉を聞いて「えっ、みずほちゃんもオジサンキラーだったの!?」
と驚いた。
 それに乗じてちどりは反撃に出た。
「そうなんですよ。意外でしょう。実はみずほの彼は※#◎Ⅹ∮※」
 みずほは慌ててちどりの口を手で塞いで「あすか先生、なんでもありません。気になさらないで下さい。ちーちゃん卒業式で舞い上がっちゃって・・・・・」と言ってごまかした。
ちどりはみずほの手をはねのけると「てめぇー、鼻までふさぐな!息ができねだろーが」と言ったので、思わずあすかは吹き出して笑った。
「あなたたちって、本当に仲がいいわね。持つべきものは友と言うけれど、いつまでも仲良くね。そろそろ私も彼の元に行かなきゃ。みずほちゃん、ちどりちゃん、ご卒業おめでとうございました」
 あすかはそう言うと手を振ってふたりと別れた。姿が見えなくなるまで手を振っていたふたりだったが、またみずほが感傷的になり泣き出した。ちどりは、そんなみずほをただただ優しく抱きしめた。

                    ※

 今日は3月14日、ホワイトデー。相変わらずみずほは、朝から落ち着きがなかった。まぁ普段から落ち着きなどないのだが、この日は普段以上に落ち着きがなく、それもそのはず、特別な日だったからだ。ヴァレンダインデーのデートから早くも1ヶ月が過ぎ去っていて、久々にデートの約束を得たからだ。
 今度こそはと、朝から気合いを入れ、いつもの寝癖もしっかり直し、千秋たちからプレゼントされたピンクのワンピースを着込み、美絵推薦のルージュを引いた。そしてこれ見よがしに大きな声で「デートに行ってきまーす!」と言って玄関を出た。
 リビングでくつろいでいた北斗は「ちどりもご苦労なこった」とつぶやけば、みどりも「ホント、ちどりちゃんだってすてきな男性とデートしたいだろうにね」と言った。
「まぁ、あいつとデートするような男はまず居ないよな~」
「母さんはそんなことないと思うよ。あの子チャーミングだし、みずほちゃんと違ってしっかりしているもの。世の男性が放っておくわけないと思うわ」
「母さんは、甘いな~。見た目と違って性格は最悪」
「そんなことないよ。もし彼氏がいないなら、あなたがちどりちゃんをお誘いすればいいじゃないのよ」
「それだけは勘弁してくれよー」
「まあ、どうせ相手にされないだろうけれどね。まぁ、あなたも早く彼女見つけなさい」
 北斗は墓穴を掘ったと思ったので「三十六計逃げるが勝ち」とつぶやき「ちょっと出かけて来る」と言うなり家を飛び出した。
「ちょっとどこ行くの!?」とみどりが言った頃にはすでに姿はなかった。
「ホントうちの子は、どいつもこいつも逃げ足が速いんだから…」

 さてみずほと言えば、気合いが入り過ぎたのか予定よりかなり早く着き大淀を待っていた。頭の中では妄想が駆け巡り、時間が経つのも忘れていた。
 しばらくすると車が止まり「お待たせ。待った?」と大淀が降りてきた。みずほは“いいえ”と言う代わりに首を横に振った。
「さて、今日はみーちゃんに、ドライブに連れってもらいましょうか」
そう言って運転席に導き、若葉マークを貼った。みずほは無口だった。自分が運転してどこかに連れて行くなどということを、すっかり忘れていたからだ。大淀の一言で一気に緊張してきたようだ。
 大淀はごく自然に助手席に座ると「さて、どこに連れて行ってくれますか?」と尋ねると、はじめて口を開いた。
「す、水族館でもいいですか?」
「いいですねー」
 そう答えるとカーナビに“水族館”を入力した。みずほは、座席を思いっ切り前引っ張りにセットするとエンジンをかけ、ウィンカーを出すとゆっくり走り出した。出足は上々だった。
「なかなか上手いじゃないですか」 大淀が誉めると「あ、ありがとうございます」と顔を正面に向けたまま、引き攣った笑顔で言った。
 しばらくは順調に走っていたが、目的地が近付くにつれ車線が増えた分、交通量も多くなった。車線を変更しようとウィンカーを出しハンドルを切るたびにタイミングが合わないのか、後方の車にクラクションを鳴らされ、次第にイライラしはじめた。
「ブツブツ…」
 当初はつぶやき程度だったがそのうち「こっちは初心者マーク付けてんだ!優しさってないのか!!」と言い出した。
 そのうちカーナビが『100㍍先を右折です』と指示した。しかしみずほがハンドルを切ると車はなぜか左に、思わず大淀も「みーちゃん、左折じゃなくて、右折だよ」と言った。
「あっ!ごめんなさい。右と左、間違えた」そう言って舌を出した。
 大淀は「大丈夫、大丈夫。ナビがまた指示してくれるから」とフォローしたが、再びカーナビが突然『100㍍先を右折です』と指示した。
「100㍍先、右ね。了解!」と言ったものの「みーちゃん、行き過ぎたよ」と大淀に言われ「なんなのこのカーナビ!ちゃんと指示しなさいよ!! 具体的にどの交差点かはっきり言えっつうの!」とカーナビに当たり出した。
 三度カーナビが右折を指示、右にハンドルを切ったものの右折のタイミングが早かったのか、今度は大淀に「Stop!ここは右折禁止、もう一つ先の交差点だよ」言われ思わず急ブレーキを踏んだ。
「みずほちゃん、大丈夫?代わろうか?」
 しかし、頑なに「大丈夫です。次の交差点を右ですね」と譲らなかった。
 なんとか右折はしたものの、今度は『左折』の指示。しかし車は二車線の右を走っている。
「みずほさん、左車線に移らないと、左折できませんよ」
 大淀のみずほの呼び方がいつの間にか“みーちゃん”から“みずほさん”になっていた。しかし今のみずほにそんなことに気付く余裕などなく我を忘れて「うるさい!横でごちゃごちゃ言うな!! 気が散る!てめぇ死にたいのか!!」と言ってしまった。
 結局なんとか到着したのはいいが、そこは水族館ではなく図書館だった。それも自宅から歩いて行ける範囲に建っている小さな児童図書館だった。

                    ※

 一方、家を飛び出した北斗と言えば、案の定『安眠』に来て、相変わらず上機嫌のマスターの元でいつものコーヒーを飲んでいる。
「マスター、今度、日曜日に休むんだね」
 北斗は壁の貼紙を見て言った。
「ええ。ちょっと都合があってね」と濁すように答えた。
 しかし北斗は続けて尋ねた。
「でも、正月以外、今まで休んだことってなかったんじゃないの?」
「まあ…、そうなんですが…。この日ばかりは…」
「そんなに大事な日なんだ。でも店休まなくても、あきちゃんとか身内に頼めばいいんじゃない?」
「それが…、そう言う訳にもいかなくて…。みんな都合がつかなくて…」
「さては、何か隠しているな?怪しいぞー」
「えっ!?そ、そんなこと、ないない。絶対ない」
 マスターは必死で否定したものだから北斗はますます怪しんだ。

「絶対、知られてはまずい事があるんだろうが!?絶対怪しい!!」
「何が怪しいって!?」

 いつの間にか背後に立っていたちどりが言った。
 驚いた北斗は振り返りながら言った。
「ビックリした。俺の背後に立つな、ケガするぞ」
「お前はゴルゴ13か!?まぁ、そんなことより余計な詮索は、プライバシー侵害だからな。なぁ~マ・ス・タ・ー」
 マスターは“そうだ!そうだ!”と言いたげにうなずいた。
「で、なんでお前がひとりでここにいるんだ?」
 北斗の質問にちどりは「お一人様で悪かったな!!どうせ私にはお一人様がお似合いだよ!」と言ってすねた。
「いや~、そう言う意味じゃないんだ。今日はみずほとデートじゃないのか?って聞いってんだよ」
「なにが悲しくて女同士でホワイトデーにデートしなきゃなんないの!?私もみずほも同性愛者じゃねぇ!!只今みずほはハンサムな彼氏とドライブデート中!だから今日の私はお一人様!!悪いか!」
 ご機嫌斜めのちどりに北斗は肩をすくめ、小声で「あいつ本当に彼氏できたんか」とつぶやき「ちどりちゃん、今日はご機嫌斜めだね」と小バカにした。
 ちどりは北斗の言葉などを無視して
「みずほは彼氏とデート。私はお一人様。マスターはお二人…」とつぶやきかけて、マスターに“しー”とされ口篭った。
「マスターがどうかしたのか?」と突っ込む北斗に「うるせっ!あんただってファーストフードの女子店員をナンパしたんだろ!」と言い出した。
 慌てた北斗は言い訳した。
「俺はナンパなんてしてないぞ。そもそも、あれは事故みたいなものだ。なんでそんなこと…。」
「無理しちゃてー。あんたの後輩が言っていたよ。“国東先輩はツンデレ好みだからお似合いだ”とかなんとか。ホント、バッカじゃなの!」と攻め込んだ。
 北斗は「あいつらは…」とつぶやき頭を抱えた。
「ちどりさん、立ったままではなんでしょうから、どうぞお座りになって」
 マスターに勧められるがままに席についた。目の前には、シナモン・ティーとパンプキン・パイが置かれていた。
「さめないうちにどうぞ」
「マスター、ありがとう。優しいね」
 ちどりは礼を言うと、シナモン・ティーを一口飲んだ。気が付くとさっきまでいた北斗の姿が消えていた。
「あれ?」
 その言葉を耳にしたマスターは「きっとちどりさんのカウンターパンチが効いたのではないですか。こっそり出て行かれましたよ」と話した。

 壁の貼紙を見て「マスター、このお休みのときに結婚式ですか?」ちどりの突然の質問に笑顔で答えた。
「正解」
「新婚旅行はどこに行かれるのですか?」
「お店をいつまでも閉めておく訳にはいきませんからね、当分はお預けです」
「あすか先生、可哀想」
「あっ、誤解しないで下さい。あすかさんの希望なのですよ。常連さんに申し訳ないからって」
「そうなんですか。あすか先生ってホント優しいですね。マスターには勿体ないよ。あーぁ、それよりどこにいるのかな私の彼氏…」
「ちどりさん、大丈夫ですよ。きっと素敵な彼氏が現れますって。こんな僕でも結婚できるのですから」
「なんだか、マスターに慰められると余計ミジメ」と言ってふたりで笑った。

                    ※

 さて、あかちゃん&みーちゃんと言えば・・・・・
「ここでデートですか?僕は構いませんが、静かにしていないと叱られますよ…。ひょっとすると悪ガキに冷やかされるかも知れませんがね」
と大淀がイジワルく言った。
「ごめんなさい」
 みずほが素直に謝ると、少し困ったのか大淀は「じゃ行きますか?水族館へ。僕の運転で」と言った。

 車内でのみずほは、完全に意気消沈していた。
「みーちゃん、元気だしなさいって。久しぶりの運転だったんでしょう」
 大淀の言葉に小さくうなずいた。
「普通、初心者があの交通量の中、道なりに走るだけでガチガチになってしまうのに、みーちゃんの運転はなかなか堂に入っていましたよ」
「ありがとう」
「度胸だけは一流。それさえあれは大丈夫」
 大淀のその言葉に、ちょっと腹が立ったがなぜか嬉しくもあった。

                    ※

 夕方、みどりは買い物を終えて自宅に向かって自転車を走らせていた。最後の難関、上り坂道をヨタヨタと登りながら“ぼちぼち電動アシストが必要かな”などと考えていると、横を一台の車が通り過ぎ、すこし先の方で止まった。それは、ちょうど坂道に耐えかねて、自転車を降りた時のことだった。
 運転していた男性が降りてきて、助手席のドアを開けると、見覚えのあるピンクのワンピースを着た女性が降りてきて、何やらその男性と話し、上着を掛けてもらっていた。やがてその女性は手を振ると、車はクラクションを軽く鳴らし走り去って行った。
 みどりは見覚えのある女性に追い着こうと、再び急な坂道を自転車に乗り必死で漕いだ。そして、ご機嫌で歩いていた女性に追い着き、それが娘のみずほだと気付き目を疑った。思わず「みずほちゃん!」と声をかけると、みずほはその声に驚いて振り向いた。そこには自転車に乗り必死の形相で漕いでいる母みどりがいた。そしてみどりはキツネにでもつままれたような顔付きで尋ねた。
「今の…、誰?」
「バレてた?彼氏」
「あっそう…」と言ったもののみどりは、またまた放心状態に陥った。

 みどりはみずほに介護されるような状態で家に帰り着き、扉を開けると北斗が飛び出して来た。
「みずほ!ちどりから聞いたぞ。お前、本当に男とデートだったのか!?」
 すると、放心状態から戻りつつあるみどりが死にそうな声で言った。
「本当みたい。お母さん目撃してしまったの…」
 当のみずほと言えば「だから散々彼氏とデートだって言っていたじゃん!!」と半ばあきらめムードだった。

 八雲が帰宅するのを待って、夕食となった。
「なんだ?今夜はピザか…」
 八雲の一言で家族は静まり返った。つまるところ、みどりが夕飯を作るような状態でなく、気遣った北斗がピザのデリバリーを注文したのだ。
「母さん、どこか調子悪いのか?」
 八雲の問いかけにみどりは「いいえ。体調は悪くないのですが、精神的にちょっと…」と答えていたが、いつもと違った口調に八雲は心配した。
「精神的って、どういうことなの?壁に頭でもぶつけたか?」
「それ、精神的じゃなくて、身体的」
 北斗が割って入った。
「そうか。じゃぁ誰かが亡くなったとか?」
 首を横に振りなんとか答えようとするみどりを遮って、再び北斗が話し出した。
「今日みずほがデートだったって知っているよね」
「あぁ」
「それで、みずほのデートの相手、ちどりだとばかり思っていたけれど、母さん帰り道でみずほの彼氏を目撃したんだって!その事が精神的ショックだったみたい」
 八雲にとっては衝撃的な回答に、驚きの表情をあらわした。
「み、み、みずほちゃん、そ、そ、それホント?」
 みずほは、八雲の心情など気にとめずあっさり。
「うん!そうだよ」
 しかし、上機嫌のみずほも、北斗の追及を恐れて“大学の教授でお兄ちゃんも知っている人”とはとても言えず、その先は言葉を濁した。
 しばらくの沈黙の後、なんとかその話題に触れたくない八雲が「とりあえず、食べよう。うん、食べよう。食べよう。北斗お前も早く食べなさい。冷めちゃうぞ。ピザは熱いうちがうまいんだ!」と言い出し、夕飯がはじまった。
 しかし興味本位が先立つ北斗とみどりは気になって仕方がない。根掘り葉掘りみずほを問いただすが、肝腎なことは上手くはぐらかされた。
 いたたまれなくなった八雲が「みずほちゃん、それが本当なら、一度連れてきなさい」と言ってしまった。
 八雲としては、可愛い娘のことが心配なのだろうが、完全復活したみどりは「みずほちゃんが言うように、そんなにカッコイイ男性なら、是非会ってみたいわ。ちょっと遠くからだったからよくわからなかったけれど、本当はタクシー運転手のオジサンだったんじゃないの」と笑われる始末。
 もちろん、北斗も「みずほと付き合うようなヤツだからな~。蓼食う虫も好き好きって言うが、よっぽどのヤツだなぁ」とバカにした。
 みずほはイライラしたが、写メを見せる訳にもいかず、まして“アニキの恩師だよ”なんて口が裂けても言えそうにない。ただただ、苦虫を噛むだけだった。

(つづく)
(つづき)

 4月になり、桜の花も満開を迎え、水面には花筏が見られるある日、希たちは『安眠』にやって来ていた。なぜか喫茶室のカウンター席はやけににぎやかだった。
「オジサン、見かけと違って、意外と面白いですよね」
「意外とは失敬だな~ハハハハ」
「サクラ!ちょっとそれは失礼だよ」
 希が注意したが、例のヤクザ風の男こと霧島は“イイヨ、イイヨ”と手で示した。
「でも、俺ってそんなにイカツイ感じするかなぁ」
あおばも「オールバックの髪型にグラサンだよー。どう見てもその手の人じゃないですか」と言い、カウンター越しのマスターも笑っている。
「そんな悪いヤツじゃないぜ。そんな風に見られていたとは…ちょっとショックだな~」
「でも、それが“ちょいワル”でかっこいいですよ。ス・テ・キ」希はおだてた。
 その言葉で気を良くしたのか「そっか~」と少し照れ笑いすると、みんなして笑った。

 そんな状況の中やって来たのは翼たちだった。
「こんちは」
「おひさー」
「まいど!」
 三人はそれぞれ、適当に挨拶をして入って来た。レジのあやめは相変わらずの笑顔で彼らを迎え入れた。そしてにぎやかな喫茶室の方を覗き込むと、強面の霧島がいるではないか、三人は躊躇した。

「ところで兄ちゃん。結婚したのか?」と霧島が言い出した。
「えっ!?ど、どうしてなんですか?唐突にそんなこと言わないで下さいよ」
 マスターは、わざととぼけたが「兄ちゃん、左手の薬指になんかついているぞ」と指摘した。
 驚いたのは希とあおばだった。
「あっ本当だ~」
「この~、幸せ者」
 冷やかす希とあおば。しかしサクラだけがひとり驚いていた。
「えっ!?マスターって今まで独身だったの!?」
「も~ぅ、サクラったら」
「いまさら~?」
 希とあおばの言葉に頭を掻いて笑った。
 あおばは「相手は誰なのですか?」と尋ねたが、はっきり答えない。
 霧島は「相手はあの姉ちゃんだろ?」と言えば「はい」と小さく答えた。
 あおばは結婚の話題が出てきたので「そういや、あすか先生も結婚したんでしょ」と言い、希は霧島に尋ねた。
「オジサン、あの姉ちゃんって、なんて言う女性なんですか?」
 傍らのマスターはなぜか冷や汗が流れた。
「姉ちゃんの名前は知らないが、超ボインのいい女だぜ。なあ兄ちゃん。あっ、これってセクハラってやつか?すまねぇ」
「あぁぁ…」
 希は言葉にならなかった。
「やっぱ、あすか先生だ。お相手、あすか先生なんでしょう」
「なんで白状しないの?」
 矢継ぎ早に攻め立てられて、マスターは窮地に追い込まれた。すでに事情を知っているレジのあやめは、思わず吹きそうになった。
 翼たちに聞かれてもマスターの名誉ぃゃプライドのため黙っていることにした。翼たちは聞き耳を立てていたが、平静を装っていた。
 しぶとく、口を閉ざすマスターに、やがて霧島が「まぁいいじゃねぇかい。兄ちゃんにとっちゃ大事な嫁さんだ。床の間にでも飾っていることだろう。そんなことより腹減らねぇか?他人の惚気話聞いても腹は満たされない。とりあえず飯喰いに行こう。みんなにおごってやるぞ」と言い出すと、サクラが「私、イタリアンがいい」と言い出し、霧島は希たちを連れて『安眠』を出て行った。

 翼たちは、希たちが立ち去ると一目散に喫茶室に飛び込み
「マスター結婚したのか?」
「相手はミス・パンプキンらしな」
「とりあえず、おめでとう」と言った。
マスターもとりあえず「あ、ありがとう」とだけ答えた。
 しかしその後いくら問い詰めても口を割らなかった。

 しばらくすると、頼んでもいないのに、シナモン・ティーとパンプキン・パイがそれぞれの前に並んでいた。三人が唖然としていると「どうぞ…、遠慮なく…」と声をかけられて戸惑った。
 さらに「ほんの気持…ぃゃサービスだから」と言われた。
 シナモン・ティーとパンプキン・パイを遠慮なくたいらげてしまった三人は“結婚のことを聞いてもムダだな”と悟っていた。
 そんな中、燕が「ケンはまだ彼女いないのか?」と聞いてきた。
「いる訳ないだろう!人の心配する前に、お前はどうなんだよ?」
「お互い様だよ。バッサンはどうなんだ。国東先輩の妹さんや松風嬢と仲が良かったんじゃなかったっけ?」
「松風嬢はありえないなー。彼女の底意地の悪さは…」
 翼はそう言いかけて、周りを見渡して胸をなで下ろした。
「ありえないなんてそんな失礼なことよく言えるな~。まぁ、ここに松風嬢がいなくてホント良かったな」
 そう言って剣は笑った。
 そして燕が「だったら国東先輩の妹、紹介してもらったら?どちらかと言えばそっちの方がタイプだろう?」と冷やかしたが、翼は意外と真に受けている雰囲気だった。
 見かねたマスターがつい余計なことを言った。
「あぁ、みずほさんならステキな彼氏がいるみたいですよ。この前、ちどりさんが言っていましたから…」
「えっっ?」
「バッサンまたふられたな」
「告白した訳じゃないから、正確にはふられたとか言う以前の問題だけどな」
 剣と燕の茶化しに「うるさい!元からなんとも思ってねぇよ!」と意地を張った。
「バッサンの恋は終わっちまうし…」
「カワイ子ちゃんたちは、ヤンキーオヤジに取られちまうし…」
「大淀教授には“もう一年、学生生活エンジョイしてもらいましょうか?”って、言われちまうし…」
「俺たちの学生生活って、なんか寂しいよな~」
「女の子だけが青春じゃないけどね」
 などと互いにグチっているとマスターが驚きながら言い出した。
「えっ!?留年するの?就職先、決まっていたんじゃー!?」
「“もう一年、学生生活エンジョイしてもらいましょうか?”って言うのは、大淀教授のくだらないジョークなんだけどね」と剣が弁解した。
 燕も「もう俺たちも社会人なんでね。いまさら、学生生活続ける訳にはいかねぇの」と言い放ち“バッサン仇は討ったからな”と、そんな表情をした。
 そんな彼らにマスターは「今の君たちに恋人なんて当分ムリなようだね」と言ったものだから「なんだよ、その上から目線は」「今までずっと独り身だったくせに」「やっと結婚したと思ったらこれかよ」と責められてはしまった。
 居た堪れなくなったのかマスターは喫茶室を出て行ってしまった。

 三人は散々グチって話しも尽きたころ、戻って来たマスターが、突然こともあろうか「君たちのために、合コン、セッティングしてあげましょうか?」と言い出した。
 これには翼たちも驚いたが「そんなことできんのかよ~」
「わかった!メンバーは、松風嬢とあやめちゃんと…、あきさん!」
「松風嬢のことはあえて触れないが、あきさんは結婚しているぜ」
「俺、あやめちゃんなら全然OK!!」
「でも下手したら、犯罪だぜ」
「きっとこんなのとか、こんなのじゃないのか」と鼻に指を押し当てたり、目を吊り下げたりして口々に言いたい放題だった。
 しかし、そんなことに動じることなくマスターは「別にムリにとは言わないよ。君たち次第なだけだ」と言い放った。
 これには、翼たちも参ったようで「せっかくのご好意だからな」
「マスターの顔も立てなきゃなんねいし」
「そうそう、合コンしてもいいぜ」と強気の発言をした。
「僕の顔を立てる必要はないし、渋々ならなかったと言うことで…」
「参りました」
「是非ともお願いします」
「どうかお助け下さい」と三人はすがりついた。
「では、次の日曜ここで。時間は午後3時でいいよね」
 マスターの有無を言わさぬその言葉に、うなずくだけだった。

                    ※

 約束の日曜日、翼たちは少々マシな格好で『安眠』にやって来た。扉を開けるとあやめに「可愛くて素敵なお嬢様がお待ちですよ」言われ、翼は瞬時に“あやめちゃんは入ってなかったんだ”とちょっと残念に思った。
 翼たちはあやめに軽く会釈し挨拶をしたが、極度の緊張のためか言葉は出て来なかった。なので、あやめはそんな彼らの姿が面白いのか「ウフフ…」と笑うと翼たちの緊張を逆なでするようにわざと大きな声でマスターを呼んだ。マスターはすぐさま翼たちの元までやって来て「さっ、どうぞこちらへ。お嬢様方がお待ちですよ」と迎えた。
 マスターの案内されるがままに、いつになくぎこちない足取りで喫茶室に入ると、テーブル席にはいかにも“お嬢様”という雰囲気の女性たちが座っていた。
「お待たせいたしました。無骨なヤツらですがよろしくお願いしますね。気に入らなかった遠慮なく“ゴメンナサイ”してやって下さい。その程度で傷つく野郎ではありませんから」
 マスターはそう話すと、不機嫌な顔をした翼たちを席に座らせた。
「さて、ご注文は何になさいますか?」
 彼女たちも少々緊張しているのか、顔を見合わせて困っているようだ。
「では、こちらからのオススメ、女子に大人気のシナモン・ティーはいかがですか?パンプキン・パイもお付けいたしますが…?」
「では、そちらをお願いいたします」と中央のショートヘアの女性が言った。
「ところで君たちは、どうする?」
 剣が「俺たちはいつものコーヒーでいいよな!?」と言い、翼も燕も「おお」「ああ」と、うなずき、注文を聞き終えたマスターはカウンターの奥に入って言った。

 六人はまるで“にらめっこ”をしているように、時たま笑顔を見せて負けてみたりしてはいたが、ほぼ無言のまま、時だけが過ぎて行った。
 やがてその“にらめっこ”の時間も終わり、翼たち時折お冷をチビリと飲んだり、訳もなくお手拭きでテーブルを拭いたりしていた。とうとう窓側に座っていた女性がしびれを切らして話し出した。
「あの~。自己紹介していただけませんか?」
 そう言われ、翼は慌てて「すみません。気が利かなくて。実は俺たち、ぃゃ僕たちこういう機会が初めてで、みなさんがあまりにもキレイと言うか、カワイイと言うか」と訳のわからないことを言い出し、燕に小突かれ 「あっ、すみません。自己紹介でしたね。えっと、俺ぃゃ僕の右、窓側の彼が…」と剣を指差した。
「児玉剣です。漢字の剣と書いて“つるぎ”と読みます。みんなケンだっと思っているので、そのままケンと呼ばれています」
「かなり緊張して手汗かいてしまいましたが、真ん中の僕は、土佐翼といいます。つばさなのでバッサンって呼ばれています。ちなみに本田翼さんは“ばっさー”ですけどね」とおどけてみたが、見事に滑ってしまった。
燕は「バッサンどうするんだよ、この空気」と言って翼を責めた後「最後にオレ…」と言いかけて、今度は翼に肘鉄をくらい
「僕は白根燕。しらやんって言われています。三人とも先月『暁曙学園大学』の工学部を卒業して、現在、社会人一年生です」と言い、バトンを彼女たちに渡した。
 続いて女性チームだが、先ほど口火を切った真ん中の彼女が「私たちは『鈴蘭女学園』の学生です。今日は浅間先輩のご紹介で寄せていただきました」と言い出せば、剣が「『鈴蘭女学園』って…あの超お嬢様学校で有名な?」と尋ね、燕は「浅間先輩って誰なんだ?どこかで聞いた名前だな~」と悩み、翼はただただ落ち尽きなく両側の二人の顔を交互見た。
 しかしそんな彼らの態度を気にすることなく「有明あさひと申します。私たちは文学部の3回生です。隣の彼女は…」と窓側のちょっと大人びた女性に振ると「南風はるかと申します。こういう機会は初めてなので緊張しておりますが、どうぞよろしくお願いします」と、とても緊張しているようには見えないほど、はっきり言った。
 最後に通路側にいる、笑顔に引き込まれそうな女性が話し出した。
「北星まりもと申します。ご存知のことと思いますが、私たちの『鈴蘭女学園』は女子大なので、男性の方々と知り合う機会があまりありません。失礼なことを伺うかも知れませんが、大目に見てくださいね。今日はよろしくお願いします」と話した。
 一通り自己紹介をし終えたころを見計らって、マスターが飲み物を運んで来た。
「話ははずんでいますか?聞くだけヤボですよね」と言うと女性陣に向かって
「あんまりイケメンじゃなくてゴメンね。でもなかなか心優しい、いいヤツらですよ。ちょっとスケベエですけれどね」と言い、男性陣には「飛びっきりのお嬢様方だろう。恥かかないようにね」と言った。
 三人は
“好き勝手言いやがって!”
“女の子の前でスケベエとか言うなよ!”
“俺たちに、恥かかせようって魂胆か?”
 などと思ったが、女性たちがいる手前、言葉にできず妙な笑顔になったが、心底はマスターの心遣いに感謝していた。

                    ※

 みずほは彼氏を自宅に招くことを了承したものの、なかなかそのことを大淀に切り出せずにいた。
 そんなある日のこと、『安眠』でちどりと落ち合っていた。
「ねぇねぇ、ちーちゃん。どうしたらいい?お父さんに“彼氏が本当にいるなら連れて来るように”って言われたんだけど…」
「どうしたら?って言ったって…。“家に来てください”って言うしかないだろう」
「でも、それじゃ“両親や家族に会ってください”って言っていることになる訳で…」
「まぁ、そうなるわな」
「それって…、“結婚を前提のお付き合いですよね”って、間接的に言っていることになると思うのだけれど…」
 みずほのその言葉を聞いて、ちどり思わず飲みかけていたシナモン・ティーを吹いてしまい、みずほの顔にかけてしまった。
「あっ、ゴメン!ゴメン!!」
 カウンター越しのマスターも慌てて、お手拭きを持って来た。
 ちどりはみずほの顔を拭きながら「いまさら、何を言い出すのかと思えば…。そんなことより、この前の『探偵ナイトスクープ』見た?」と、ちどりの突然の問い掛けにみずほは唖然としたが、そばにいたマスターはこっそり去ろうとしていた。
「マスター!逃げないの!!」
「ちーちゃん?『探偵ナイトスクープ』で何があったの!?」
「いや、小ネタ集で、剣だっけ?翼だっけ?燕だっけ?まぁ誰でもいいや。あの三人組の依頼で、“ここのマスターの結婚相手を調べて欲しい”ってヤツがあったの」
 傍らのマスターは照れて頭を掻いていたが「そんなのが採用されたの?へぇ~。それで、それで」と、みずほは完全に喰い付いていた。
「結局のところ、依頼した本人たちは、新入社員だから研修で来られずはずもなく、さらに、ここに探偵が訪ねて来た時には、あいにくマスターが出掛けていてさぁ。なんと、対応したのがあすか先生だったの。だから、探偵の“ここのマスターの新妻のことご存知ありませんか?”って質問に、あっさり“私ですが…”って答えちゃってさぁ。いきなり♪チャチャチッン!!♪だよ。ねぇーマスター」
 マスターははみかみながら「ええぇ、まぁ…」と言った。
 みずほは「それじゃ思いっ切りにスベっちゃったわけね」とウケて大笑いした。
「まあそう言うこと。あっそうだ!!みずほのお悩みあすか先生に、もう先生じゃないか…とりあえず相談してみたら?ほらさっきのこと。マスターよりはかなり役立つよ」
「それ、いい!!」
 ふたりはあすかに相談するためマスターを嗾けた。
「ちょっと待ってくださいよー。カミさんも修行中の身なんだから…」と言ったものの結局、みずほとちどりに引っ張られて工房の前まで来ていた。
 みずほとちどりは窓から工房の中を覗き込み、気付いたあすかを手招きで呼んだ。
「みずほさんにちどりさん、お久しぶり。元気だった?」
 みずほは明るいあすかの笑顔と言葉に、なぜか涙が出てきた。
「みずほ!何泣いているの。バッカだね~」と言ってちどりは笑ったが、あすかは思わずみずほを抱きしめた。

 みずほの気持ちも落ち着いたころ、ちどりがあすかに言った。
「実は…、みずほの彼氏を自宅に呼ばなきゃなんないみたいで…。お父さんが連れて来いって…」
 その言葉にあすかは驚いて「えっ!みずほさん、彼氏いたんだ」と言うと、抱きしめていた手を緩めて、みずほを頭からつま先まで見つめた。
 みずほはパン作り中のあすかに抱きしめられたため、小麦粉で所々、白く汚れていて、あすかは吹き出してしまった。
「ゴメンナサイ。汚してしまたね」
 しかしみずほはそんなこと気にする訳でもなく、あすかに質問した。
「あの~、彼を自宅に呼ぶには…、なんて言ったらいいですか?」
「あら、唐突ね」
 あすかは笑ってそう言うと「素直な気持ちで、余計なこと考えずに率直に言ってみたらどうかしら」と続けた。
「でも…、あたしの方から“結婚して下さい”って、言っているみたいに思われませんか?」
「あれれぇ?みずほさんは、彼氏と結婚したくないの?」
「そりゃぁ、一緒になれれば嬉しいですよ」
「じゃー、いいじゃないの。間接的にプロポーズしちゃったって」
 するとちどりが「なるほど!それ、いいかも。逆プロポーズ」と嬉しそうに言い、さらに「それに“私は真剣なのよってアピール”できる訳だしね」とみずほの背中を押した。
 みずほは照れていたが、満更でもない様子だった。
「あすか先生、頑張ってみます」
「そう、がんばって!でも正確には、もう先生じゃないのだけれどな~」
 あすかのその言葉にみんなが笑った。傍らにいたマスターも笑った。

 あすかがみずほに「ところで、みずほさんの彼氏ってどんな方なの?」と尋ねたが、口ごもったみずほを差し置いてちどりが話し出した。
「みずほ、卒業したのだから、もういいんじゃないの。話すよ」
 みずほがチラっとマスターの方を見た。
 するとあすかが「梓さん、女性だけのお話しなので…」と言うとマスターは、あわてて喫茶室に戻って行った。
「さぁどうぞ」
「・・・・・」
「みずほ!言っちゃいなさいよ」
「あの~、あすかさんがご存知な人です…」
 あすかは少し考えて「あぁ!わかった!!」と言って手を打った。
「翼くんとか言ったけぇ?あの彼?」
 みずほは首を横に振った。
「ええぇ。じゃー誰だろう?ほかのふたり…でもなさそうだし…。降参」
 その言葉をきっかけにちどりはみずほを嗾けたが、まだ踏み出せないようだったので「じゃー私が言っちゃうよ」と言い、みずほは小さくうなずいた。
「では、発表します。みずほの彼氏は…」
 “やっぱりダメ”と言いたげにみずほの邪魔が入ったが、その程度で屈するちどりではない。
 強引にみずほを羽交い締めにすると「大学の大淀教授です」と言った。
 その瞬間、みずほは全身の力が抜けたようになり、あすかは“え゛!!”と口を大きく開け目を見開いて驚いた。
「お、お、大淀教授って、もしかして…、こ、こ、工学部の?」
「はい。そうですよ」
 ちどりはあっさり答えた。
 しかしあすかはまだ信じられないのか、みずほとちどりを交互に見て、言葉を失った。
「あの人が、みずほさんの・・・・・」
 みずほも軽くうなずいた。
「よ、よかったなじゃない。オジサンだけれど二枚目だし…、ねぇ」
 あすかはかなり動揺している。そのことは、みずほやちどりも感じ取っている。
 しかし、ちどりはあえて気付かないふりをした。でもみずほは違った。
「何か秘密でもあるのですか?」
「いや、ないよ。とってもいい人だし…ねぇ。優しいでしょう。でも、ちょっとイジワルかなぁ」
「そうなんです。でも学部が違うのによくご存知ですね」
 あすかは“ギクッ”となり痛いところを突かれたと思い、とっさに言い訳しなくてはと考えた。
「いやそれはね。学部が違っても多少の講師同志の交流はあるし…。あっそう、そうそう、翼くんだっけ、彼らは工学部なのに勝手に私の講義に来たから、そのことでお話ししたこともあるからね」
「そうなんですね」
 みずほは意外とあっさり受け入れ、あすかは大きな胸をなで下ろした。
「ところで、あすかさんはマスターのこと“梓さん”って呼んでいるのですね。ステキって言うか、うらやましいな~。マスターにはなんて呼ばれているのですか?」
「えぇー、ちどりさんったら嫌だわ」
 あすかはデレデレにてれた。
「ちーちゃん、マスター呼んで来て。実演してもらおうよ」
「ナイス・アドバイス。とりあえずマスター呼んで来るわ」
「ちどりさん、待って!恥ずかしいからそれだけは勘弁して」
 あすかの訴えもむなしく「じゃー、あすかさんをあっちに連れて行きましょう」と言うことになった。
 喫茶室では、みずほとちどりの尋問攻めに逢うあすかと梓であった。

                    ※

 ちどりやあすかに背中を押してもらったもののなかなか言い出せず、さらに新学期の最中でもあり、大淀の多忙な時期が重なっていた。結局メールを送ったのが5月になってしまった。

手紙『あかちゃんへ
 唐突ですみません。今度、ご都合のよい日に少々お時間いただけないでしょうか?
 実は、私の家族が是非ともお会いしたいと申しております。どうかよろしくお願いします。
みずほ』

彼からの返信は

手紙『みーちゃんへ
 了解しました。今度の水曜日でいいですか?この日なら午前中、学会の会議なので午後は都合がつけられます。
 ご家族の方々によろしくお伝えください。
赤城』

 そして、当日をむかえた。
 どうやらこの日ばかりはと父親の八雲も休暇を取得し待ち構えていた。みどりは朝から部屋中に掃除機をかけ、さらに雑巾で拭き上げていた。
「北斗!あんた邪魔!!お父さん!余計な物は北斗の部屋に押し込んで下さいな。みずほちゃん、何しているの?あなたの彼氏が来るのでしょうが!遊んでないで手伝いなさい!」
「母さん、これも片付けておくぞ。北斗、邪魔するぞー」
「親父、何も俺の部屋を物置代わりにしなくても…」
「お前の部屋なら誰ものぞかないだろうからな。ちょうどいいんだ」
 みるみるうちに北斗の部屋は物置化した。
 みずほは何かを手伝うわけでもなく、ただそわそわしているだけで、あっちに行っては叱られ、こっちに来ては邪魔者扱いされていた。
「みずほちゃん、手伝う気がないのなら、お寿司屋さんに出前の予約しておいて」
「うん。わかった」
 そうは言ったものの、何を注文したらよいかまた迷った。
 そこへやって来た北斗が「上にぎりでいいじゃん」と一言。
 戸惑うみずほをよそに、勝手に電話し注文してしまった。

 刻々と時間が迫り、やがてみずほのスマホが鳴った。

「うん、わかった。今から迎えに行く。うん、うん、じゃー」

 電話を切ると「お母さん!そこまで来ているみたいなので、迎えに行ってきまーす」と言うなり、みどりのサンダルを履いて出て行ってしまった。
 その後姿を見送ったみどりは“やれやれ”と思った。
 そして手を止めて“これ以上の対策は無理”と悟ったのか、北斗の部屋に押し込めるだけ押し込め、扉を閉めた。
「母さん!俺まで閉じ込めないでくれよ!!」
「あんた、何してんのよ!?」
 再び扉を開けると、慌てて北斗が出てきた。
 八雲と言えば動物園の熊のようにソワソワしはじめ、部屋中をうろついている。
「お父さん!お父さん!ちょっと落ち着いたら」
 そんなみどりの言葉も届かないのか落ち着きがない。みどりはついに我慢の限界に達しキレてしまった。
「お前は動物園の熊か!?さっからウロウロしやがって。おとなしぃ座ってられんか、この白ブタ!!白ブタは私か。誰が白ブタじゃ!ええ加減にせぇーよ!イテこましたろか!?このドロ亀!!」と騒ぎ出し「母さん!落ち着いて。落ち着いて!」と北斗が止めに入った。
 そんな騒ぎなど知る由もなくインターホンのチャイムが鳴り、玄関の扉が開いた。

 みどりと北斗が玄関に駆け寄ると、そこにはみずほと大淀が立っていた。北斗は大淀の顔を見るなり言葉を失い、またみどりも大淀のイケメンぶりに言葉を失い、ふたりとも口を開けたまま固まった。
 そしてみずほの「お母さん、お兄ちゃん」声にでようやく我に戻った。
「こちらは、大淀赤城さん。お兄ちゃんは面識あるでしょう。お世話になった大学の教授だからね」
 そう言われて北斗はうなずき、みどりは「あら、知り合い?」と北斗に尋ねた。
「はじめまして。大淀赤城と申します。国東くん、お久しぶり元気だったか?まさか、君の妹さんだったとはね…」
 北斗は事態が把握できずにいる。
「あぁ、玄関先ではなんですから、どうぞお上がりください」
 みどりの勧めで、大淀は靴を脱いだ。そして框に足掛けた瞬間、みずほは何かを見付けたらしく、慌てて彼の靴下を両手で覆った。しかし時すでに遅く、みどりがニヤリと笑みをこぼした。彼の靴下に開いた穴はしっかり見られてしまった。大淀は一瞬“しまった”と思ったが、慌てることなく爽やかな笑みで済ませた。

 大淀はみどりに案内されるままに、居間へと向かい、その後をみずほが続いた。北斗にいたっては、よっぽどショックだったのだろう、今や物置と化した自分の部屋に篭ってしまった。
 居間ではやや緊張ぎみの八雲が待っていたが、そこに饒舌ぎみのみどりが大淀とみずほを連れて入って来た。
 大淀は八雲に丁寧な挨拶をし、みずほと交際していることを率直に話した。
「お父さん、爽やかで素敵な方でしょう」
 みどりのその言葉に、八雲も“娘にはもったいないくらいいい男じゃないか”と感じ、気持ち良くうなずいた。
 すると気を良くした大淀は突然言い出した。
「お父さん、お母さん、もしも…もしも、できることでしたれば娘さんをお嫁さんに下さい」
 あまりに唐突な出来事にみずほは、意識が遠退き
「みずほちゃん」
「みーちゃん」
 の声もむなしく気を失ってしまった。
「ほら、みずほたら嬉しそうな顔して…失神しちゃったわ」
 みどりはそう言って笑うと「赤城さん、ちょっとお手伝いいただけますか?お父さんも手伝って!」と声をかけ、みずほを隣の部屋に運び寝かせた。

 どれほどの時間がたったのだろうか?にぎやかな話し声と笑い声に目覚めたみずほは、起き上がると恐る恐る居間を覗いた。
 そこには、両親に大淀、さらに北斗もいつの間にか加わっていて、注文したにぎり寿司を頬張りながら「みずほ!お目覚めか」「みずほちゃん起きた?」などと笑っている。
 みずほは彼氏がいることも忘れて、指を差しながら言った。
「お兄ちゃん、ズルい。あたしの分は?」
「ちゃんとありますよ。そんなところに突っ立っていないで、まあ座りなさい」とみどりが言った。その刹那、みずほは彼氏が来ていることを思い出したのか、ちょっと赤くなった。
 改めて大淀の隣にちょこんと座ると、八雲から「みずほちゃん、おめでとう」と言われた。
 しかし意味がわからず、きょとんとしていると、みどりが「みずほ、良かったね」と言い、北斗は「おめでとう。お前に先越されちゃったなぁ」と言った。
 そこまで言われてやっと、気を失う前のことを思い出したのか“あたし、彼と結婚できるんだ恋の矢”と気付いたと思ったら、また気を失ってしまった。
 そして再び、気がついたときには彼の胸の傘に雨やどり。
 新婚生活真っ只中、新居の引っ越し荷物もやっと片付いたころ、みずほはいつになくソワソワしていた。
「床掃除、ヨシ!洗濯物片付け、ヨシ!室内整理、ヨシ!あとは、スリッパ出して…、あっそうそう、お湯、沸かしておかないとネ」
 珍しく昨日はリビングの大掃除にかかり、今朝も、余計な物を寝室にぶち込み、改めて抜け落ちがないか確認中だった。
 そうこうするうちにインターホーンのチャイムが鳴った。
「ハーイ、只今!」と独り言のように言うと、通話ボタンを押した。モニター画面には、親友のちどりの姿が映し出されていた。
「みずほ!来てやったぞ!さっさと開けてよ」という相変わらずのドSぶりに“ちーちゃんらしい”と思いつつ「お久しぶり。今、ドア開けるね。部屋は1129号室だから、エレベーター使ってね」と言って開扉ボタンを押した。
「誰が階段使うかっ!」
 ちどりは相変わらずのツッコミを入れた。

 やがて玄関チャイムが鳴り、みずほは玄関へ突っ走り、扉を開けた。そして、ちどりを招き入れると抱き付き「久しぶり!元気だった?会えて嬉し~ぃよ」などと矢継ぎ早に話しかけ、ちどりは予想外の歓迎ぶりに困惑した。
「ゴメン。あたしばかり話しちゃったね。とりあえず入って、入って」
 ちどりはうなずくと「失礼しま~す」と言って、みずほに案内されるがままに、リビングに入った。

「みずほ、ビックリした。あんた意外とやるじゃん」
 きれいに片付いた部屋にちどりは目を丸くした。
「まぁね。あたしもやるときはやるんだよ。好きなとこ適当に座って。お茶入れるから」
 そう言ってキッチンに向かおうとするみずほをちどりが呼び止めた。
「あっ!これ、つまらない物ですが…」
「ありがとう。気を使わなくていいのに。あっ『安眠』のパンプキン・パイだ!
『安眠』寄って来てくれたんだね。マスターとあすか先生、どうだった?あっそうだ先にお茶入れるね」
「お構いなく」

 しばらくして、みずほはコーヒーとちどりから手みやげに貰ったパンプキン・パイをリビングのテーブルに並べた。
「コーヒーのいい香り」
 ちどりは思わず鼻腔広げて香りを嗅いだ。
「『安眠』のマスターにはおよばないけれど、コーヒーマシン買ってもらったの。これだとあたしでも簡単に美味しいコーヒーが作れるからね」
「と言うことは…、朝はパンにコーヒーですかね?」
 ちどりの言葉に「まぁね」と答えた。
 さらに「朝は大変なのよ。ダンナさんは意外と寝坊助でさぁ。無理やりたたき起こして、サッサと食卓に着かせなきゃなんないし…」などと話し出した。
「でも、本当はダンナに“トーストが焦げているぞ”とかなんとか言われているんじゃないの?」
付き合いが伊達に長いだけあって、ちどりはすべて見抜いていた。
「バレたか…。ちーちゃんはすべてお見通しだね」

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 事実、朝が得意と言うわけではなく、一応小説家なので夜型な訳で、調子づくと朝方まで起きている。そして、そんな日はたいていハイテンションな訳で…。
 赤城を半ば強引にたたき起こし、寝ぼけ眼の彼を食卓に座らす。さらに、サッカーのポジションさえも知らないのに朝刊を差し出しながら「昨日はサンフレッチェが勝ったって。良かったね」だとか言って、新聞通を装っていた。
 そして、そんな日は決まって「おーぃ。なんか香ばしい…というより焦げ臭いぞ!トースト、焦げてないか?」と赤城に指摘される。
 そんな時はトーストの炭化した部分をスプーンで削ぎ落としながら「大丈夫、大丈夫。この程度じゃ死なない」などと言い訳して差し出していた。
 赤城は“トーストを焦がす程度ならいいが、そのエプロンも慌て焦がすんじゃないか”と心配し「そのエプロン、かわいいじゃないか。似合っているよ」と言ったが、心配をよそにみずほは「でしょう。ちーちゃんにもらったの」と自慢気だった。
 赤城は、ただただ“ケガだけは気を付けておくれよ”と祈った。

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「本当は…、それだけじゃないでしょう」
 ちどりの問いかけに、みずほはうなずいた。
「では、大失敗談を正直にお話ししていただきましょうか」
 みずほは大失敗したことを話し出した。

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 それは結婚して間もないころだった。
近くまで来たのついでだと、赤城の父妙高が訪ねて来た時のことだった。
 みずほの「お義父が来たよ」の声に、赤城が出迎えた。
「親父、突然なんだよ」
「いや突然申し訳ない。この近くまで来たものだから、寄ってみようかと思っていな。言わばサプライズだ」
 みずほも顔を出し「お義父さん、いらっしゃい。どうぞ上がって下さい」と挨拶した。
「やあ、みずほさん、元気そうにやっているようだね。これはおみやげ」
「わざわざありがとうございます」
 さらに、赤城に向かって「それから、貰い物だが、お前の好物の“カラスミ”だ」と包みを手渡した。
 すると赤城は笑みを浮かべ「ありがとう。まあ、上がってよ。これで一杯やろう」と言った。

 みずほは、みやげと“カラスミ”を預かるとキッチンに入った。そして、赤城に缶ビール2本を手渡すと“カラスミ”の包みを開けて悩んだ。
 果たしてどうすればいいものか?
“明太子”に似ているが色合いが違い過ぎるし“数の子”のようにも見える。
 さんざん悩んだ挙げ句、結果、相変わらず無謀な行動に出るのである。
 異変に気付いた赤城が慌てキッチンに戻ったが、時すでに遅く、事もあろうかカラスミを煮てしまっていたのだ。
 落胆する赤城に、妙高は「母さんもおっちょこちょいだったが…、おいこりゃー、母さん以上だよなぁ」と、目を細め囁き笑った。
 みずほは「ごめんなさーい。そうだよね。煮るもんじゃなかったよね」と言いながら、一番笑い転げていた。

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 ちどりは笑い転げながら「あんたらしーぃわ」と言った。
 みずほは照れていたが、余りにもウケたので「実はまだ、あるんだ~」と言い出した。
「なに?なに??聞かせて!聞かせて!!」
「え~ぇ」
「お願い」
「じゃぁ、とっておきの…」

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 それは、つい最近のことだった。その日は、大事な日であったが、運良く赤城は学会での発表があり、いつもより早く帰れる見込みだった。しかし、学会発表を終えての帰り際のこと、教授仲間に誘われてしまった。
 学会はかなり早くおわり、まだ昼過ぎでもあったので、赤城も“まあ、いいか。付き合いも大事だし…”と思い、飲みに行くこととなった。あいにく平日の日中なので、店を探すのに苦労はしたが、なんとか見つかり、真っ昼間からの飲み会になった。赤城自身、夕方までには退席して、帰りを待つみずほの元へ直行するつもりだった。しかし、ついつい長居してしまい、ふと時計を見ると、午後7時を過ぎていた。
 赤城は、一瞬時計を疑ったが、改めて確認すると酔いも吹き飛ぶほどのショックに“しまった!”と思い、慌てて席を立った。仲間の
「よっ!新婚さん!!」
「もう嫁さんの尻にひかれたか!?」
「パパ!早く帰ってきてー!」
 などの冷やかしを受け流し、挨拶もそこそこ店を飛び出した。

 一方、みずほは今か今かと赤城の帰りを待っていた。
「今日は、学会発表で早く帰れるって言っていたのに…」
 目の前の食卓には、みずほなりに頑張って作った(と言っても買ってきた惣菜がほとんどだけど…)料理が所狭しと並んでいる。そして冷蔵庫の中にはイチゴがたくさん乗ったホールケーキが鎮座していた。そう、何を隠そう、今日はみずほの誕生日なのだ。

 赤城は自宅に急いだが、突然何かを思い付いた。プレゼントは事前に買ってあるのだが、遅くなった言い訳のつもりか、花屋に立ち寄り、カーネーションを使って器用にプードルに仕立てたフラワー・アレンジメントを購入した。店員から受け取ると、あとは一目散に自宅に向かった。

 みずほは待ちくたびれたのか、ついウトウトして、いつの間にか寝てしまったようだ。チャイムの音で目が覚め、急いで玄関に向かい扉を開けると、おそらく、駅から自宅まで、ダッシュしてきたのだろう、お疲れ気味の赤城が立っていた。
 みずほは「お疲れさまでした」と笑顔で声をかけると、赤城も「ただいま。遅くなってゴメン」と謝った。
「遅くなるなら、メールして下さればよかったのに」と言われ“しまった。その手があったかぁ”と今更ながら気付いた。
 とりあえず隠し持っていた、言い訳代わりのフラワー・アレンジメントを「お誕生日、おめでとうブーケ1」と言って、手渡した。
 当然みずほは、飛び跳ねて喜び「ありがとう」と言うと赤城にkissをした。

 赤城は食卓の上に並べられた料理を見て唖然としてしまったが、みずほは冷蔵庫から、イチゴがたくさん乗ったホールケーキを取り出すと、赤城にロウソクを立てさせた。
 そして、ロウソクに火を着させると♪ハッピー・バースデー♪を歌いあい、息を思いっきり吸い込むと、一気に火を消した。
「みーちゃん、お誕生日おめでとう」
 赤城はそう言って、プレゼントを渡した。
「開けていい?」
 みずほの問いかけにうなずいた。リボンをほどき、包装紙を開けると、白い箱があり、中からピンクの財布が出てきた。
「ウヮー、カワイイ!FENDIだ。高かったでしょう。ありがとう」
 みずほは目を輝かせて喜んだ。
「あーちゃん、お腹空いたでしょう。たくさん食べて。さあ、どうぞどうぞ」
 みずほにそう言われると、手を着けない訳にいかない。とりあえず、手頃なものを口にした。

 余談だが、いつの間にか赤城の呼び名が“あかちゃん”から“あーちゃん”になっていたが、赤城がみずほをしょっちゅう“みーちゃん”と呼んでいたため、恥ずかしくて“あかちゃん”と呼べなかったみずほが、思わず口走ったことに由来する。

 完全に教授仲間と飲みに行ったことを言いそびれた赤城は、みずほに勧められるがままに、無理して食べていたが、なんとか食事の方は切り抜けることができた。しかし、ホッとしたのも束の間、極めつけのホールケーキが出てきた。
「あーちゃん、甘いものも大好きでしょう。大きく切ってあげるね」
 赤城は、お腹がいっぱいで苦しい状態、というより死にそうな状況であったが、まっすぐ帰らず仲間と呑んでしまったことが後ろめたく、正直に言えなかった。今まで無理して食べていたが、ついにトドメのケーキの登場となった。思い切って“これさえ食べるばなんとかなる”と考えたのだろう、目をつぶって一気に口にした。
 しかし、それは無謀であり、無茶であり、無惨で悲惨な状況へと誘う結果となった。
 やがて顔が青ざめ、目の前の景色から色彩がなくなり、モノクロから暗闇にゆっくりと変わっていくとともに、意識が遠のいていくのがわかった。気を失い横たわる赤城を何も知らない、と言うより酔って帰って着ているのに、そのことで食事して来たことすら気付かないみずほは、びっくりし慌て出した。
 何をどうしたらいいかさえわからず、気がつくと実家に電話していた。しかし、こんな時のこの言葉ほど悲しいものはない。

“只今電話の近くにおりません。ファクシミリに切り替えます”
♪ピーピリリピリリ♪

「なんで、こんな一大事に出てくれないの!?いないんなら留守電にしておけ!」
 そう言って乱暴に電話を切った。続いて電話したのは、赤城の実家だった。躊躇したもののこの一大事、思い切って掛けてみた。

「あっもしもし、大淀さんですか。大淀ですが、ぃゃ違った。みずほです」

『あら、みずほさん。お久しぶり。ふたりとも元気にやってる』

「お義母さん。いや、それが元気じゃないんです。あたしじゃなくて、赤城さんが、赤城さんが・・・」途中からはもう涙声になっていた。

『みずほさん。みずほさん。赤城がどうしたの?泣いてちゃわからないよ』

「…赤城さんが…倒れて……」

『赤城が倒れたの?みずほさん、落ち着いて。深呼吸して』

「…あたしが…作った…夕飯食べたら…。あたし、何か変なもの作っちゃったのかもしれない。あたしが、いけないことしたのかも…」

『みずほさん。救急車、呼んだの!?』

「あっ…忘れていました」

『とりあえず、一旦電話切るから、119番しなさい。あわてちゃダメよ。落ち着いてね』

「はい」

直後、みずほは119にダイヤルしたつもりだった。

『はい、警察です』

しかしもうその言葉すら理解できる状況でないのだ。つながると電話口の相手に間髪入れずに
「あーちゃんが死んじゃう…」って泣きじゃくるものだから、相手は“事件性あり”と判断してしまった。直ちに警戒態勢がとられ、緊急指令が発令された。

 みずほのマンション近くの夕鶴交番にも一報が入った。当務の沖巡査と先輩の筑後巡査長は現場へと駆けつけた。
 パトカーのサイレンが街中に響き渡る中、ふたりの警官はいち早く現場に到着し、インターフォン押し玄関ドアを叩いた。
 みずほはドアを開けると沖巡査に抱き付き泣きじゃくった。筑後巡査長は、すぐに赤城の元に駆け寄った。
 赤城はあまりの騒がしさに目を覚まし、事の次第を話すと、筑後巡査長は“事件性なし”と冷静に判断し、無線で本部に連絡し、警戒態勢は解除された。
 みずほは沖巡査から「ご主人は病気ではなく、ただの食べ過ぎですよ。奥さまの手料理を残しては申し訳ないと、無理して食べたからなの。だから安心して」と丁寧に説明され、安心としたのか、気を失い崩れ落ちた。

 20~30分たっただろうか、心配した赤城の母美鈴がタクシーで飛んで来た。マンション前には赤灯がついた乗用車とパトカーが止まっていて、警官と刑事らしき人が何か話している。
 そのことが美鈴の心をさらに急き立てる。エレベーターを待っておれないらしく、階段を駆け上がり、息を切らしてインターフォンを押した。
 ドアを開けたのは赤城だった。
「あなた、生きているの?大丈夫なの!?みずほさんから電話があって“あなたが死んじゃう!”って泣きじゃくるものだから、飛んで来たのよ」
「ああ、僕は大丈夫。ただの食べ過ぎだから。でも今度は、彼女が安心したのか寝込んじまったよ」
 そんなことを話していると、みずほは蒼い顔してヨタヨタと起きてきた。
「お義母さん。ごめんなさい。ご心配をおかけました…」
「いいのよ。みずほさんこそ大丈夫?でも、私も若いころはおっちょこちょいだったけれど、あなたは私以上だわ」
 そう言って美鈴は感心し大笑いした。

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 ちどりは腹を抱えて大笑いをした。
「みずほ、あんたの思い込みで警察沙汰にまでなったなんで、ありえない話だよ」
「だって、本当に死んじゃうと思ったんだもん…。そんなに笑うんなら言わなきゃよかった」
「まあ、いいじゃないの。笑い話で済んだんだから。それはそうと、みずほ料理作れるようになったんだ」
「うん。まぁネ」
「“カラスミ”で大失敗した経験が生きたってことかー。旦那さんは、みずほの手料理“おいしい”って言ってくれる?」
「もちろん。以前は買ってきた惣菜があたしの手作りだと思って“これ、おいしいなぁ”なんて言われる度に凹んだけれど、最近は自信あるんだ」
「そうなんだ。で、何が一番おいしいって?」
「それはねぇー、生野菜のサラダ!」
「野菜サラダ!?それも生の?」
「そうだよ。シャキシャキしておいしいって」
「それって、手料理?」
「じゃないの?」
「じゃないんじゃないの?あっそうか!切る手間が加わっているわなぁ」
「でしょう。彼がおいしそうに食べてくれるのが嬉しくて、嬉しくて。それに最近流行のカロリーOFFのマヨネーズかければ、全部カロリーOFFになるしさー」
「なんで?」
「だって、カロリーOFFってことは、カロリー0ってことでしょう。0にどんな数字かけても0だもん」
「なるほど!0×Ⅹ=0ってことか。んなことあるかい!!それにカロリーOFFのマヨネーズなんてないよ」
「でもCMやってもん」
「あれはカロリーOFFじゃなくて、コレステロールがOFFなの。カロリーは50%」
「えっ!そうなの!?じゃーダイエットコーラなら…」
「間違ってもそんなもん、野菜サラダにかけないでよ。それにお料理は数学じゃないの!絶対カロリーはかけても0にはなりません」
「フハーィ…」
「野菜サラダの他においしいって言ってもらえるものはないの?」
「う~ん。カマボコ!」
ちどりは思わず、ずっこけたが、みずほは訳が分かっていないようだった。

「ところで、ちーちゃんの方はどうなの?」
みずほの問いかけに、待っていましたと言いたげな表情をした。
「アイツも覚悟が決まったみたいでさぁ。やっとだよ。やっと」
「と言うことは、ちーちゃんにも春が来たってことですか?どんな感じ?どんな感じ?」
「それはね・・・・・」

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 それはファッション雑誌の撮影があるの日だった。“studio elm”に向かう足に使おうと…

『Stop!ちょっと待った!作者は余計なことするな!私が話す。でないと、余計なことまで書くだろうが!このヘタクソ!!』
『すみませんm(_ _)m』

「ちーちゃん、誰と話しているの?」
「いや、何でもない。何でもない。内輪の話だからみずほは気にしないで」
「そう?」
 みずほはうなずいた。
「さて、気を取り直してと。そうそう、雑誌の撮影があった日だったのね。“どうせ暇で『安眠』コーヒー飲んで、時間潰しているんなら“studio elm”まで車で送れ”って頼んだの。とりあえず車、出してくれて送ってくれたんだけど…“あの…”とか“いや…ちょっと”とか、何か言いたげだったんだけれど、私そう言うのってイライラしちゃうタイプじゃない。だから“男ならはっきりしろ!!”って怒鳴っちゃって、気が付いたら到着していたの」
 みずほは時々うなずきながら、聞いている。
「それでさぁ。撮影中も“わざわざ送ってくれたのに、ちょっと言い過ぎたかな。悪いことしちゃったな”って反省していたのよ」
 みずほは“まだ続くのかなぁ”と思いつつも黙って聞いている。
「撮影が終わってさぁ。外に出て来たら、ナント!アイツが待っててくれていてさぁ、でもなぜかとっても嬉しかったんだ」
「えっ!それだけ?プロポーズとかなかったの?」
 我慢しきれずみずほはついつい口を挟んでしまった。
「まあそんなに焦んないの。これからがいいとこなんだから。それでさぁ、ちょっとイジワルして“まだ居たとは、よっぽど暇なんだ”って言ってやったら、泣きそうな顔してやんの。言い過ぎたかなって思ってさ。だから“私のことが心配で待っててくれたんだ。ありがとう”って言ったら、ちょっと嬉しそうな顔して“僕と、僕と…”となんて繰り返すものだから、またイライラして“ハッキリ言え!!”って怒鳴りつけてやったら“結婚して下さい”だってさ。即答で“嫌だよー!”って言ったら、今度はまるで神も仏もないないような神妙な顔されてさ、そんれでもってこの世の終わりが来たって感じの死にそうな顔付きな訳で、めっちゃ落ち込んでやんの。だから“しょうがない。結婚してやるよ”って言ってやった」
「ちーちゃんってホント、ドSだよね」
「そう言っちゃ返す言葉もないけれど、私はそんじょそこらの安っぽい女じゃないの」
「なるほどね。で“結婚してやるよ”って言ったらどうなったの?」
「あぁ。男のくせに泣きじゃくってさぁ。みっともないたらありゃしない。ばつ悪いし、しょうがないから抱きしめてやったの。そしたら、千秋さんに、美絵さんに見られててさぁ“ちどりちゃん、おめでとう!!”って祝福されるし、ちとせさんには激写されちゃったよ。千秋さんに“いつからそこに居たの”って聞いたら“ずっと居たよ。一部始終拝見させていただきました”って言われて、美絵さんは“ごちそうさま”だって。恥ずかしいったらありゃしない」
「でも、よかったじゃない。おめでとう。あたしなんていきなり両親に許し請うもんだから、ちーちゃんがうらやましいよ」
「そう?」
 ちどりは嬉しそうに微笑んだ。するとみずほは、感慨深く「ちーちゃんがあたしのお姉ちゃんか」とつぶやいたものだから“えっ”って表情になり、みずほを見つめた。
「と言うことは、ちーちゃんのことをこれからは、お姉ちゃん呼ばなきゃね。あっ違った。お義姉さんって呼ばなきゃね。ちー義姉ちゃんよろしく!だってそうでしょう、あたしのお兄ちゃんと結婚するんだものねー、お義姉ちゃん!」
「ゲゲ!!」
「“ゲゲ!!”じゃないの。うちのダンナにとっても義姉さんなんだからね。そうだ!ダンナにも“義姉さん”て呼んでもらおーと」
「ゲゲゲ!やっぱキャンセルしょうかな~」
「申し訳ありませんが、期限切れでクーリングオフはできません」
「まあね」
 そう言ってふたりは笑った。

 みずほさん、ちどりさん末永くお幸せに。

おしまい。