雨やどり

雨やどり

妄想小説『雨やどり』

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 この度は、幸運(?)なのかどうかは別にしてにも、 ご縁あってこの小説に巡り逢った事と思います。(小説と呼べる代物では決してありませんが…)
 このお話は、さだまさし氏の楽曲『雨やどり』をモチーフに、さらに、同氏の『パンプキン・パイとシナモン・ティー』をミックスさせ、自らの妄想力を(大した頭ではありませんが)フル稼働させるため、キャスティング(あくまでイメージです)を設定し描いてみました。
 ただ、私は日本人であるにも関わらず、学生時代から国語という教科が不得意でありまして、中でも作文という分野は大の苦手でしたから、拙い文章力で上手く表現出来ないところも、多々見受けられる事と思います。甚だ申し訳ない次第でありますが、最後までお読みいただけると幸いです。
 なお、お調子者ゆえ、図に乗って続編(その後なるもの)を書いてしまったのでそれも記載したいと思います。その続編は、さだまさし氏のグレープ時代の楽曲『朝刊』をベースにしたものと目論みましたので是非お楽しみ下さい。
 最後に、このお話の表現するにあたって、横書きを採用しております。昨今のデジタル化により横書きが主流であり、そのような観点から横書き形式といたしました。本当のところは、ブログの縦書きなどまずもってありえませんし、そんなことをしたら非常に使い辛いというか、読み辛いのですね。
 なお、通常のブログと順番が違い、話が進む毎に記事は過去になります。あしからずご了承ください。

《主なイメージキャスト》
国東みずほ(女子大生) -多部未華子 
松風ちどり(女子大生) -桐谷美玲
浅間あすか(大学准教授)-綾瀬はるか 
大淀 赤城(大学教授) -福山雅治
瀬戸 梓 (マスター) -鈴木浩介 
国東 北斗(みずほの兄)-勝地諒
国東 八雲(みずほの父)-石塚英彦
国東みどり(みずほの母)-未知やすえ
ほか
 彼女は、ひたすら走っていた。
「うちの大学は、なんでこんなところに建てたんだよ。よりによって丘の上なんかに。こんなところに建てるなら、エスカレータぐらい付けろうっぅんだよ!
それになんだよ、もう秋のお彼岸も終わったつうのに…この残暑。でも、秋に残暑ってのも変だよな~?」
などとボヤキながら、長い坂道を駆け上がって行く。
「あ゙ぁ~、ダメだ!気が紛れない。きっと、ぃゃ絶対ちーちゃん怒っているよ。神様も、仏様も、信じないけれどちーちゃんが元ヤンでないことを・・・アーメン!って、あたし、キリスト教じゃなかった。えっと、南無・・・なんだっけ?えぃ~!とにかくなんでもいいや、クワバラクワバラ」

 一方、ちーちゃんと呼ばれている女の子は、もう30分以上も待たされていた。
少々いらだち彼女に電話をすると
『こちらは、MTT kocomoです。おかけになった電話は、電波の届かない場所におられるか、電源が入っていないためかかりません』
とメッセージが流れるので、しかたなく何度かメールを送信した。

 一度目は、

手紙『いつもの所で待っていま~す クローバー。早く来てね ドキドキ

だったが、返信がないのでちょっと心配になり、二度目は、

手紙『どこか身体の調子でも悪いの 注意?連絡ください』

になり、とうとう14度目には

手紙『てめ~!いつまで待たせる気だ!! ドンッ

と本文ではなく件名の方に打ち込んで送信していた。

 しかし、どんなにイライラしていても、表情に出せない事情があった。だから、学友に会っても満面の笑みで「おはよう!じゃ、また後でね」などと愛想よく振舞っていたが、よく見ると若干引きつっていた。

 やがて…

♪キン♬コン♬カン♬コン♪ ♪キン♬コン♬カン♬コン♪

 校内にチャイムが響きわたる。

「ちーちゃん、ゴメン!ゴメン」
「みずほ!遅い!早く!早く!」
 メガネの女の子は、駅から走って来たらしく汗だくで息を切らせていた。
「スマホのバッテリー切れで…、アラームが鳴らなくて…目が覚めたら8時半で……」
「そんな言い訳いいから!この講義、落としたら、また留年だよ!!!!!!!!!」
「でもさ~、大学って何回生までOK何だろうね」
「つべこべ言わすに教室まで走るよ!!!」
「えぇ~また走るの~!?」

 はてさて、この二人ですが、寝坊したメガネの女の子が、国東みずほ。そして彼女の親友、ちーちゃんこと松風ちどり、共にこの大学の6回生(?) なお、6回生とは、みずほの言い分、つまり2年留年しているわけでして・・・・・。

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 Tシャツにオーバーオール。ファッションセンスなんてなんのその、いつもすっぴん、メガネをかけているんだけれど、お世辞にも知的には見えない。髪は、自称ポニーテールということだが、鴨がネギ背負った髪型で、あえて言うならぱっと見、トリプルテールだ。
 そんな彼女の趣味は、迷子になること。でも勘だけはいいそうだ。よって特技は、根拠のない漫然とした自信家。国東みずほとは、そんな女の子だ。
 ただ、妄想癖が高じて書いた小説が高校生の時、入選。以来、小説家でもある。なお、恋愛小説は書けないのでもっぱら空想専門のSF小説なのだ。

                    ※

 一方、松風ちどりは、ファッションセンス抜群の超美形女子。セミロングの髪は、風になびくとシルクのようで、大抵の男子は、そのうなじに見とれる。そのためか、ミス・キャンパスを6年連続して選ばれている。よって大学では知らない人がいないほどの超有名人。
中学生の時に、読者モデルに選ばれたことがあり、それ以来、ファッションモデルとしても活躍している。
 ただ、名前に少々コンプレックスがあり“ちどり”とは絶対呼ばせない信条を持つが、これだけは思うようにはいかない。親友みずほだけがちどりとは呼ばず“ちーちゃん”とよんでいるのが現実だった。
 趣味は、極秘なんだけど、未だにリカちゃん人形での着せ替え。まぁそれがモデルになったきっかけでもあるのだが・・・。
 特技は、意図せず物が勝手に壊れること、特に電化製品はてきめん。決して彼女自身は壊したとは思っていない。あくまで、ぃゃ絶対、勝手に壊れたのだと信じて疑わないし、壊れるような製品の方が悪いと言い張っている。
 またみずほとは、気が合いすぎて留年まで付き合うほどの仲だ。

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 さて、二人の自己紹介はここまでにして・・・・・

 二人はひたすら廊下を走っていた。
「やっぱり、神も仏もあったもんじゃない。一瞬でも期待した私がバカだった」
 走りずくめで、疲れ切ったみずほは、とうとう歩き出し
「ねぇねぇ…ちーちゃん…今日の講義って…、浅間あすか先生の『仏教概論』だよね…」
と話し出した。
 先を走っていた、ちどりが、立ち止まり
「そうだけど…なんで?」
「だったらさぁ、もう走らなくていいんじゃない?」
「どうして?7回生目指すことにしたの!?でも、私はゴメンだよ!」
と言うやいなや、振り返り、再び走り出そうとして、目の前の教室から人が出て来た人と接触、間一髪避けて転倒しそうになった。
「きゃっ!!」
「あっ!!ゴメンナサイ。大丈夫?」
 教室から出て来た女性は、あわてて謝った。
「あっハイ!大丈夫です。こちらこそすみませんでした」と言って頭を上げた時、ちどりは相手の顔見て驚いた。なんと、浅間准教授だったからだ。
「先生の講義って、この教室でした?確か第8講義室だったような~」
「ぃゃ…、私、おっちょこちょいだから、教室を間違えちゃった。3と8は似ているでしょう」と言い訳して舌を出した。なんともその姿がいじらしい。
「ちーちゃん、だから走らなくていいって言ったんじゃん。だって、あすか先生、教室間違えて入って行くの見えたんだもん。それにここ第3教室じゃなくて第3視聴覚室だし…」
「だったら、それを早く言え!」
 ちどりは、イラついたが、みずほは、相変わらずマイペースで、あすかに話かけた。
「私達これから、先生の講義受けるんです。逃すとめでたく留年決定! 」そう言ってニッコリ笑いVサインを出した。
「すいません。彼女、危機感がなくて…」
ちどりの言葉と重なるように、あすかは、話し出した。
「そうなの?でも私に出会えてラッキーだったね。じゃ、一緒に行きましょう。これで遅刻にもならないでしょー」
「ハ~イ。ありがとうございます」
 三人は揃って歩き出した。

 やがて、講義予定の教室の扉の前に着いたが、あすかは気付かず、二人と共に先に進もうとした。
「先生、そっちじゃなくて、ここですよ。私達は講師の扉から入るわけに行かないので、後ろの扉からこっそり入ります」
 ちどりの声で、あすかは慌てて戻って来た。ちどりは内心“ホント、根っからのおっちょこちょいだね”と思ったが、みずほは「まったく、天然ですね~」と口走っていた。あわててみずほの口を塞いだが、あすかは、その言葉を気にすることなく「そうなのよ~。小さい頃からこの調子なの…」と言い出した。ちどりは、さらに話しが続きそうだったので「先生!時間過ぎています!!」と口を挟んだ。
「あっ!いけない」
そう言ってあすかは扉を開けた。そしてみずほとちどりは、会釈して別の扉に向かった。

 さて、講義室内では、担当の講師が時間になっても現れないので、騒がしくなっていた。と言っても、誰も講師を心配しているわけではなく、いつものことだと思われていた。
 こちらの女子三人組の、大山希、谷川あおば、西海サクラは内輪で盛り上がっていた。
「のっちで~す!」
「あーちゃんです!」
「サクラ、で~す!3人合わせて“Perfume”です!!」
「って、何でやねん!“Perfume”に“サクラ”なんておれへんし、“かしゆか”って言わんとあかんやん!」と、希がツッコミを入れた。
「そりゃー、希は“のっち”だし、あおばは“あーちゃん”でそのまんまやから、ええけど…」
「兎に角もう一度やり直し。サクラは“かしゆか”って言うこと!」
「じゃー、今度はサクラからね」
「かしゆかでーす」
「のっちで~す!」
「あーちゃんです!」
「3人合わせて『Perfume』です!!」
「ありがとうございました~」
「サクラが閉めてどうすんねん!」
 などとお笑いコントのネタ仕込みしているようだった。

 また、前の方に陣取った、男三人組の“ケン”こと児玉剣と“バッサン”こと土佐翼、そして“しらやん”こと白根燕は、文学部の講義には、少々不似合いだった。
 服装や髪型が、というわけではない。身形ではなく雰囲気に若干の違和感があったのだ。
「ケン?本当に大丈夫かよ!?あの講義、落としたら、留年になるぞ」
 燕は、心配そうに言った。しかし、剣はあっけらかんと
「大丈夫!大丈夫!!レポートさえ出せばOKさ。抜かりはないぜ。そんなことより、ボン・キュッキュッキュ。楽しみだぜ。まだ来ないのか?」
「ホント、お前は巨乳好きだな」
「バッサンは、巨乳好きじゃないのか?ひょっとして貧乳好きか?」
「こいつは、デブ専貧乳好きのロリコン野郎だからな」と燕がちゃかした。
「うるさい!!」と翼が大きな声を出したため、一瞬視線が集中した。あわてて、小さな声で
「勘違いされるだろうが!そういうお前は、熟女好きなくせに」と反撃をはじめた。
「まあ~まあ~。いいじゃないの。バッサンはデブ専貧乳で、しらやんは熟女殺し、俺は、乳お化けマニアということで」
 そう言って剣がなだめていた。

 やがて、あすかがようやくたどり着いたようで、突然、扉が開いた。三人は、なぜかあわてて顔を伏せた。
「おはようございます。遅くなりすみません。それでは早速、講義をはじめます。 え~と、前回は『釈迦の誕生と出家』でしたね。覚えていますか?大丈夫ですね。今日は『初転法輪と涅槃』です…」
 あすかは、男三人組の前を行ったり来たりする。そのたびに彼らの視線も、行ったり来たり。その姿を後ろから見ている、希たち女子三人組は、「男子って、ホント単純で、バカだよね~」と共感しあっていた。

 そのころ、みずほとちどりは、後ろの扉からこっそり入り、何事もなかったかのように、席に着いた。そして何やら、言い合っていた。
「遅れるなら、メールぐらいしてよ!!どれほど心配して、どれだけ待っていたと思ってんのかよ!!」
 ちどりはかなりイラ立っている。
「だって、スマホのバッテリーがなくなっちゃったんだもん。だからメールしたくてもできないじゃない。それとも通勤途中のオジサンに『スイマセーン。携帯貸してくれませんか?メッチャ可愛い女の子にメールしたいので』って声かけて、ちーちゃんにメールすりゃ良かった訳!?」
「やめてよ。知らないオヤジにアドレス教えるなんて!」
「でしょう。だからしょうがないじゃん!!」
「なに言ってんの!みずほがちゃんと充電しないからでしょうが!」
「ちゃんとやったもん。パソコンのUSBに繋いで、充電して寝たんだもん」
「パソコンは起動した状態で?」
「えっぇ!起動してないと充電できないの!?」
「当たり前じゃん!機械音痴の私でも知っているよ。ひょっとしてそんなことも知らなかったの!?ブツブツ…」
「だって、昨日ちーちゃんが触ったでしょう、あのパソコン。だから、てっきり壊れちゃったんだと…ブツブツ…」
「私が壊し屋だからといっても、あの程度じゃ壊れないもん…ブツブツ…」
「でも…ブツブツ…だって…ブツブツ…」
「なによ…ブツブツ…」

「ブツブツ…ブツブツ…」
「ブツブツ…ブツブツ…」

「ブツブツ…ブツブツ…」
「ブツブツブツブツ!」

「ブーツブツブツブツブツブツ!」
「ブ~ツブツブツブツブツブツブツブツ!」


「後ろでブツブツ言っているお二人さん。そろそろクールダウンして静かにしてくれるかな?それとも今日のところは退出して、また来年も頑張ってみる?」
 あすかがそう声を掛けたため、笑いが起き、二人はばつ悪くなり黙り込んだ。
「さて、静かになったところで気を取り直して。鹿野苑でお釈迦さまは、四諦八正道を説かれます…」
 あすかは、何事もなかったように講義を続けようとしたその時、
“バサ!バサバサ!!バサバサバサ!!!”
 突然大きな音がして、教卓の上の資料が床に落下してしまったのだ。どうやら教壇に戻る際に、引っ掛けてしまったようだ。彼女は、慌てることなく「四諦とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦の4つのことで…」などと話しながら、しゃがみ込んで資料をかき集めた。その刹那、剣たち男三人組は、小さくガッツポーズをした。
「ケン、お前の場所からだとバッチリだったろう」と燕が問いかけると「もち、バッチリ。間違いなく“おっぱい星人”だよ」とVサイン と巨乳ジェスチャー。
 さらに、翼も口を挟んだ。
「俺のところからも、見えたぜ。あの、見えそうで見えない。そんでもって、見えないようで見える」
「おっおぉ~!白か?ベージュか?」
「まさに“男のロマン”だね~」となどと意気投合していた。しかし、後ろに座っている、希たち女子三人組からは、手に取るように見えており彼女らはすっかり呆れかえっていた。

 はたして、みずほとちどりの二人と言えば“男のロマン”に更ける男どもに気付くこともなく、小声で話していた。
「今朝は、かなり待たしちゃってゴメン」
「もういいよ」
「それで…お詫びと言っちゃーなんだけどさぁ。兄貴に素敵な喫茶店?ぃゃコーヒー・ベーカリか。教えてもらったんだ。ランチしに行ってみない?」
「兄貴って、デリカシーの欠片も持ち合わせていないアイツかよ!」
「ほかにいないからそうだけど。でもちーちゃんにかかったら、ウチの兄貴もボロクソだね」
「わかったよ。でもみずほのおごりだからね。OK!」
「じゃー決まりだね」

 やがて、講義時間終了のチャイムが鳴った。
「じゃー今日はここまで!」
そう言ってあすかは、男三人組の方を向き、なぜか交互にウインクをした。男三人組は、しばし呆然となったが、我に返ると、逃げ去るようにそそくさと教室を出て行った。
 みずほとちどりは、「あすか先生!」と言いながら、駆け寄り「講義中は、申し訳ありませんでした」と頭を下げたが、あすかは、ハトが豆鉄砲を喰らったように、きょとんとしていた。
「何かあったのかしら?」
そう尋ねると、ニッコリ微笑んだ。
「いや、二人でブツブツ言い合って、ご迷惑をかけたようで…」
ちどりは、恐縮していた。
「そうだっけ?まぁいいんじゃないの。済んだことだし気にしない気にしない」
続いて、みずほも恐る恐る話し出す。
「もしお昼、ご予定が空いておりましたら、ランチご一緒しませんか?」
「申し訳ないね。誘っていただいたのに。今日のお昼、お弁当持って来たの。だから、後日誘ってくれるかな?」
「そうですか。ではまたの機会ということで。」
「失礼します」
そう言って、二人は頭を下げ、立ち去ろうとした時「必ず、誘ってよ!」と言ってあすかは、手を振っていた。

「あすか先生って、いい人だね」
「ホントそうだよ。それに笑顔も素敵だし。スタイルいいし。」
「ミス・キャンパスのちーちゃんのお墨付き、いただきました!絶対あすか先生とランチしようね」
「そうだね。もしランチが無理ならお茶だけでもね」
「あすか先生だったら、きっと素敵彼氏いるんだろうな~」
「えぇえぇ、どうせ私には、彼氏なんて縁遠いですよ」
「なにもそんなこと言ってないじゃん。それに、ちーちゃんなら大丈夫。あたしが保障する」
「みずほに言われても説得力ないんだな~」
 二人は笑いながら、次の講義場所に向かった。

                   ※

 潜入を成功させた翼たち男三人組は、いつものたまり場、コーヒー・ベーカリ『安眠』にやって来た。
「いらっしゃいませ」
「あやめちゃん、暑いのに頑張るね~」
 翼は、レジにいたアルバイトの春日あやめに声をかけた。
「ここは、エアコンかかっていますから、快適ですよ」
 そう言って、ニッコリ微笑んだ。剣は、挨拶もそこそこに、真っ先に喫茶室に向かった。
「マスター、アイスコーヒー3つね」
 そう言うといつもの席に座った。
「今日も暑いな~!来週は、もう10月だせ、ありえねー」
 汗をハンカチで拭きながら最後に入って来たのは燕だった。

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 コーヒー・ベーカリ『安眠』のマスター、瀬戸梓とは、36才で未だ独身。お人好しだが、引っ込み思案だ。それは、名前に一因があった。梓という、女の子のような名前のためよく勘違いされ、恥ずかしい思いもしてきたそうで、さらに、そのせいかどうか、わからないが、照れ屋でマヌケの複雑な性格である。
 パン作りのセンスというか興味はないが、コーヒーに関しては、妥協を許さない。また、自ら手掛けた“かぼちゃパイ”には、自己満足している。
レジを担当する春日あやめは、父親である光が昨年アルバイトに雇った。笑顔がとってもチャーミングな女の子だ。この店の看板娘と言っても過言ではないだろう。マスターの妹あきが若狭家に嫁いだためにアルバイトに入ったわけだが、あやめが休みの日にはあきが戻って来てレジに立つこともあるそうだ。

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 しばらくの沈黙の時間が過ぎ、剣が口火を切った。
「でもさー、文学部のあすか先生って、噂以上のナイスバディだったよな!」
「そういえばバッサンもバッチリだったんだよな。先生がしゃがんだ時“男のロマン”が見えたんだろ~」
「まぁな」翼はそう言って、親指を立てた
「で!色は?何色だった!?」
「おっと、ちょっとその前に。マスター!マスター!!アイスコーヒーまだかよ~!?」
 剣は、マスターの瀬戸梓を呼んだ。
「えっ!?君たち、いつからここに!?」
 マスターは、あわてて駆け寄ったが、椅子の脚に爪先を強打、さらにその爪先を庇おうとして、今度は、脛をテーブルの縁で打った。なおかつその弾みで転倒しもがき苦しんでいる。あまりの激痛に声も出ず喘いでいた。
「マスター、なにやってんだよ。昼間からそんなところに寝転がって」
 剣が、必死に笑い声を押し殺して話しかける。さらに翼は、我慢できず、吹き出しながら「大丈夫かよ!?」と気遣った。
「あっはっはっは~!マスターは、ホント、ドジでマヌケだね~」
 燕は、呆れかえり、腹を抱えて笑っていた。
「ぁ…ぇ…ぃ…ぉ…ぅ…」
 彼は、声にならない呻きを上げるのが精一杯だった。
「おーい!あやめちゃん!!マスターが大変なことに!!助けてあげて!!!」
 剣は、大声でレジにいた、あやめを呼びに行った。呼ばれてやって来たあやめは、あまり驚いた様子もなく冷ややかな感じで、
「不意に、足の指や脛を打つと、ホント声も出ないほど、痛いんですよね。でもね意外と、傷とかないのですよ」
 と、全くと言っていいほど心配していない。マスターも、マスターで、少々痛みをこらえて
「あやめちゃん、だ、だ、大丈夫だから。心配しないで…」そう言って、足を引きずりながらカウンターの奥に戻って行った。
「ウチのマスター、月に1・2度、同じようなこと、やっているのですよ。ボーとしている時に声かけられると、慌てちゃってさぁ。心配して駆け寄ってあげると『大丈夫、大丈夫』って、私が、ここのバイトに入ってからしょっちゅうですよ」
 彼女は、独り言のように話すと、レジに戻って行った。
「ホント、マスターも人騒がせだぜ」
「たぶんあやめちゃんに見とれてたんじゃないの?」
「きっとあきさんが結婚したものだから、マスターも焦りだしたんだよ」
 とそれぞれマスターの悪口を口すると、指定席に座り直した。

「ところで、例の“男のロマン”の話し、白なのか?ベージュか?それとも黒?」
 と燕が尋ねる。
「ブッブー」二人口を揃えた。
「正解は?ケン、教えてやってやれ」
「なんと!、なんと!!」
 丁度その時、カウンター越しにマスターが声をかけてきた。
「アイスコーヒー、お待ち!取りに来て!!」
「ちょっとマスター、水差さないてくれよ」
 燕は椅子から転げるかと思うほど、ずっこけた。翼は翼で「へぇ~、いつからセルフサービスになったんだよ、この店は?」とボヤいた。
「ハイ、ハイ、わかりました。お持ちしますよ」
 翼たちは、顔を寄せ合って、また話し込んでいる。
「最近の若い者は、ケガ人をいたわる気がないのかね~って、おぃおぃ!聞いてないのかよ」
 マスターのことなど眼中になく三人は話し続けていた。
「で!!何色だったんだよ!?もったい付けずに早く教えてくれよ?」
「では、発表します。バッサンどうぞ」
「なんと驚きの…ピンク!!」
「オォォ…!!」
 燕が雄叫びを上げると、レジからあやめが喫茶室の方をちらっとのぞき見た。すかさず翼が慌てて指を口に当てた。
「シーッ!あやめちゃんに聞こえる!」
「ワリーワリー」
「あの~?ピンク!ってなにが?」
 そこには、アイスコーヒーを3つ持ったままマスターが突っ立っていた。
「あつ!びっくりした!!」
「なんでもない!なんでもない!」
「マスターには関係ないから」
「さぁーお仕事!お仕事!」
「えっぇ!俺邪魔者?」
 マスターはそう言うと「ピンク…ピンク…ピンク…」とつぶやきながら戻って行った。

 翼たちはまたまた、顔をつき合わせて話し出した。
「といっても、チラッとだけどな」
「お前ら、いいよな~!俺の場所からは見えなかったぜ」
「でも、谷間はバッチリだろう」
「まぁな」
「ケンは、そこまでは見えなかったんだってな」
「ということは…バッサンは両方ってこと?」
「らしいぜ」
 剣は、翼をこついた。
「でも、こんな話し、あやめちゃんに聞かれたら、俺たちひんしゅくもんだよな」
「まぁな。セクハラで訴えられるかもな」
「ところでさぁ、講義終わった後、あすか先生ウインクしたよな!」
 燕が言い出した。剣も頷きながら
「そうそう、俺たちに向かってさぁ。それも、交互にだぜ」
「文学部の講義に全く関係のない工学部の俺たちが、エロ心で潜入しているのに注意する訳でもなく、あれだろう~」
 翼は不思議に思っていた。

「いらっしゃいませ!」
 突然、あやめの元気な声が響いた。
「よっ!」
 そう言って入ってきたのは、国東北斗だった。「マスター、いつもの頼むは!」そう言って、カウンター席に座った。
「ハイハイ!いつもの“モカ・マタリ”だね」
 北斗に気付いた、剣が声をかけた。
「国東先輩!おはようございます。ぃゃもうお昼前ですがね」
「おっ!なんだよ、男三人雁首そろえて」
「先輩なら、女心ってやつわかりますよね?」
「どうした?恋の悩みか?そうか好きな子でもできたか!そう言うことなら、百選練磨の俺に何でも聞いてくれや!」
「いやそう言うことじゃなくて…」
 燕は、今までの経緯を北斗に話した。

「そりゃーあれだな、年下のお前たちがだなぁ、可愛かったからからかったんじゃねーの。でも年上の女性は気をつけねーとヤケドするぜ」
「さすが、先輩!人生経験豊富ですね」
「まぁな。こう見えても伊達に生きちゃいないし、見掛けに寄らず意外と苦労しているんだぜ」
 ふと時計に目をやった翼が、慌てて言った。
「ケン!そろそろ行かないと、午後からの大淀教授の講義間に合わねーぞ」
「あの教授の試験は厳しいから、講義受けてねーと大変だぜ」
「先輩、会ったばかりなのにすいません。失礼します。午後の講義、サボる訳にいかないんで…」
「おぉ!学業、頑張れよ!大淀教授にもよろしくな」

 北斗とマスターは三人の後姿を見送った。
「学生さんは大変だね」
 マスターは、コーヒーを出しながら言った。
「ところで社会人の君は、平日の昼間っから暇そうだね。仕事してないの?」
「ご安心を、先程まで働いておりました。今日は非番なもので、こちらにお邪魔しております」
 そう言って、ありがとうの意味なのか、右手を上げた。
「へ~、働いていたんだ。何の仕事しているの?」
「それは、個人情報にあたりますから、ノーコメント」そう答えると、小さなカップのコーヒーを一口飲んだ。
「美味い!マスターの入れたコーヒーは最高だね」
 片隅にあったスポーツ紙を手にとりパラパラとめくって気になる紙面を読み終えると、再びコーヒーを口にし、おもむろに席を立った。
「トイレ、借りるよ」
 部屋の奥にある、トイレに入って行った。

(つづく)
(つづき)

 一方、みずほとちどりは、2丁目の交差点に立っていた。
「兄貴の話しでは、ここの交差点から17軒目で、おおよそ112~3歩目にあるらしい。時々走って2分と15秒だって」
「何で時々走らなきゃなんないだよ!普通徒歩での時間だろうが!あいつはいったい何考えているんだよ」
 ちどりは、みずほの兄のことになるとやけに批判的になる。
「では、数えて行きたいと思います。角のコンビニが1です。2・3‥4…5…?」
 みずほは、口ごもった。
「どうしたの??」
「ぃゃ…交差点になったんだけど…、こういう場合って、道路を渡って続きを数えるべきか?それとも建物沿いに角を曲がって数えるべきか?」
「なに悩んでいるんだよ。普通、道渡って数えるだろうが…」
「やっぱり、そうだよね…」
 でも、みずほは、納得していないようだ。

「10・11‥12…??」
 またまた、みずほが口ごもった。
「今度は何?どうしたの??」
「あの…駐車場も数に入るのかね~?」
 ちどりは、一瞬“なるほど”と思ったが“1~2軒ズレていてもわかるだろう”と思い、
「入るんじゃないの。料金とって営業しているんだし」と適当なことを言った。
「なるほどね~」
 みずほは、妙に納得していた。

「15・16‥17…??なぜなんだろう?!コーヒー・ベーカリがブティックに変身した」
「何が変身だよ。間違えたんじゃないの?でも、なかなかいい雰囲気のお店じゃない。ちょっと寄ってかない?」
 ちどり好みの可愛いブティックだったため、つい覗きたくなったのだろう。しかし
「だ~め!ちーちゃん、こういうお店に入ると、時間忘れちゃうんだもん」
「えぇ~!ブツブツ…」
「ブツブツ言わないの。ハーイ!戻りますよ」
ちどりは後ろ髪を引かれる思いでみずほに急かされて戻って行った。

「ハイ!ここは振り出しのコンビニで~す」
「何もここまで、戻らなくてもいいんじゃね~の?」
 ちどりは、可愛いブティックに入ることもできず、再び2丁目の交差点まで歩かされたためか、少々ご機嫌斜め。
「今度は、建物沿いを行くわよ」そう言って角を曲がり進んで行く。
「14…15…??」
 またまた交差点になったが、角を曲がった所に、コーヒー・ベーカリらしきお店が目に入ってきた。
「確かに17軒目だが、あいつは本当に捻くれてやがる」
 ちどりは、思わずつぶやいた。

 そしてそのコーヒー・ベーカリらしき店から、翼たち三人が出て来た。
 みずほとちどりは、彼らを気にはしていなかったが、翼は気付いていた。
「おい、おい、あの娘、ミス・キャンパスの松風嬢じゃないか?」
 と剣と燕に声をかけると、一瞬にして彼らの視線は集中する。続けて燕がつぶやいた。
「そうだな。あの風になびいた時に、チラリと見える、うなじがたまらないよな~。ところでさあ。隣のメガネの娘はだれなんだ?なんだか対照的な感じで、かえって松風嬢が引き立っているよな~!」
「お~ぃ!いつまで、見とれているだよ。講義に遅れるぞー!まだ、昼飯も食ってねぇんだし。行くぞ!!」
 剣が二人を追い立てた。名残惜しいのか、後ろ髪を引かれる思いで、彼らは立ち去った。

 みずほとちどりは、すでに店の前に立っていた。
 ハナミズキだろうか、シンボルツリーが一本、その周りに草花が植えられている。いわゆる、イングリッシュガーデンになっていた。店の軒先には『coffee bakery 安眠』と書かれた木の看板が下がっていた。『安眠』の文字の上には“あみん”とご丁寧にルビまでふってある。
「あいつのお勧めにしては、なかなか雰囲気のいいお店じゃない」
「とりあえず、入ろうよ」
 みずほは木製の扉の真鍮のドアノブを回した。扉を開けた途端、パンの焼きあがった香りが湧き出て来て、全身が香ばしさに包まれた。

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 このコーヒー・ベーカリ『安眠』だが、大きく分けて3つからなっていて、ちょうどT形になっている。
 扉を入ると、まず焼きたてパンがズラリと並んだ、販売コーナーがあり、その一角のレジには、あやめが立っている。ここは、マスターの妹あきの担当だったが、今は看板娘のあやめの担当だ。
 しかし、あきも独身の兄貴のことが気になるのか、あやめの『代打だ』と言っては時々この店に顔を出す。というか、あやめの都合がつかない日はほとんど来ているといっていい。
 あやめによると、この店のお勧めは、ドライイチジクを練り込んだ“イチジクパン”である。ほかにも、女子好みのマンゴーなどを使った、スイーツ風のものあるがバケットがメインである。
 右手奥には、パン工房。パン窯の前にはマスターの父、瀬戸光がいる。厳しい表情で、今焼きあがったパンの出来映えを確かめているが、理想が高くいつも今一つ納得はいかないようだ。当初は、夫婦で店を開く予定だったが、光がパン職人の修行中に、妻の美保が急逝した。店名の『安眠』は、そのような思いがこもっているのかも知れない。
 また左手奥には、喫茶室があり、窓辺にテーブル席、壁際にカウンター席ある。販売コーナーとの仕切りのところには、純喫茶の定番ゴムの木の鉢植えがおいてある。

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「いらっしゃいませ」
 あやめの元気な声に、みずほは思わず
「こんにちは」
と挨拶をした。ちどりは会釈したあとあやめにと尋ねた。
「こちらで買った商品を、中でいただくことはできますか?」
「奥の喫茶室で召し上がれますよ。お飲み物はマスターに言ってくださいね」
 早速ちどりは、トレイとトングを手に取り、品定めをはじめた。そして目に留まったのが“神戸メロンパン”だった。
「みずほ、決まった?私、これにしようと思う」
「へぇー、なんかラグビーボールみたいな形だね」
「中に白餡が入ったメロンパンだって。珍しいいでしょう」
「私は、激辛明太子ソーセージに決定!」
 お目当てが決まると二人はレジに向かった。
「会計はご一緒でよろしいですか?」
「ハーイ!彼女のおごりなんで」
「580円になります。こちらでお召し上がりでしたね」
 そう言うと、かわいい花柄のトレイに移し替えた。

 喫茶室に入った二人は、テーブル席に座った。
 やがて、マスターがお冷やを持って来たが、二人はメニューに見入っていた。
「お飲み物など、必要でしたら、お声掛け下さい」
そう言って立ち去ろうとした時、ちどりがありがとうの意味を込めてニッコリ笑った。これが、マスターの動揺を誘うとは露知らず。
 飲み物が決まったらしく、みずほがカウンターの方を向いて、声をかけた。
「スミマセン。コーヒーとシナモンティー、お願いします」
 その時、また目が合ってしまった。そして習慣なんだろうかちどりはまたニッコリ微笑んだ。
「コ…コーヒーは…、ホッ…ホットで、いい…よろしいですか?」
もう完全に舞い上がってしまっているマスターに、さらなる追い討ちでちどりが、可愛らしく「ハ~イ!」と答えるものだから、ただただうろたえている。そこへ、こともあろうか北斗がトレイから出て来た。
「あ~、スッキリした。マスター、どうしたの?顔が赤いし、震えているけど、風邪でも引いた?」
 そう言って、マスターの視線の先を見た。
「ヨッ!みずほ」
「お兄ちゃん」
「おっと!これは、これは、ちどり足のちどりちゃんじゃないですか~」
となど言って、大げさなちどり足で二人のもとにやって来た。しかし、ちどりは、そんな北斗のことを完全に無視。だが北斗は、さらにちょっかいを出す。
「ミス・キャンパスのちどりちゃん。大学のアイドルのちどりちゃんが、そんな冷たい態度でいいのかな~。でも、意外とプンプンしたお顔も、かわいいんだよね~」
 たまりかねた、ちどりも「意外とは余計です。意外とは」と言い出す。
「ほー。認めたね~。そんなにむきになって怒ると、彼氏できないゾー!」
「うるさい!ほっとけ!!この御都合主義の傍若無人野郎ー!おめーだって彼女いないくせに!!」
「お兄ちゃん!!いい加減にしなよ」
 見かねた、みずほが止めに入った。すると北斗は、素直に引き下がり、残っていたコーヒーを飲み干すと、マスターに挨拶をし、なぜか「ちどり、またな」と言って去って行った。
「ちーちゃん、ホント兄貴のことになると、むきになるね。仲いいんだか悪いんだか」
「うるせー、仲いい訳ないだろう!アッ、ゴメン私としたことが…。でもしゃくに障るよな~」

「お…お待たせしました。ホッ…ホットコーヒーとシ…シナモンティーです」
心なしか、マスターの手は震えている。ちどりは、今までのことが嘘のように「ありがとうございます」と、満面の笑顔で答えたものだから、焦ったマスター、コーヒーを少しこぼしてしまった。カップの隅に置かれた、バラの形の角砂糖が褐色に染まっていく。
「す…すみません。今取り替えます…」
「大丈夫ですよ。こうやってすぐに入れちゃえば」
 みずほは、何事もなかったように、スプーンで崩さないようにすくうと、カップに入れた。さらに「素敵なカップですね。花柄がとってもかわいいです」と話し、まったく気にしていない様子だ。ちどりも「バラの形の角砂糖ってオシャレですね。白とピンクのペアもセンスいいですよね」
と話したが、マスターの頭の中には、またもや“ピンク”というキーワードが蘇った。

 二人は、買ったパンを頬張った。
「辛い!さすが激辛だね。でも美味しい」
「このメロンパンも美味しいよ。アンパンとメロンパンの融合というか、絶妙なコンビネーション。でもシナモンティーに砂糖はいらないよね。カロリー取り過ぎちゃうから」
 ちどりは、そう言って、おもむろに角砂糖をハンカチに包んだ。
 みずほは、そのハンカチを見て何かを思い出した。
「ちーちゃん。先週の木曜日のことだけれども…」
「先週の木曜日って…。アッー!私がファッション誌の撮影で休んだ日じゃない!」
「でも、その日は講師の先生が急用で、結局休講になっちゃったんだよ」
「私を見捨てて、抜け駆けするからだよ。それで、その日、何があったの?」
 みずほは、その時のことを話した。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

 急遽、休講になったため、みずほは一人、駅に向かって歩いていた。もう少しで、駅に着くというところで、雨が降り出した。走ればなんとかなったのかも知れないが、軒先で雨やどりすることにした。学生らしきカップルは、うれしそうに相合い傘で、通り過ぎて行く。ちどりと一緒に歩いていたときは気付かなかったが、この日に限って、そんな姿がやけに目立つように思えた。雨は時折、強くなったり弱くなったりしたが、うまくタイミングがとれず、立ち尽くしていた。
しばらくすると、雨が弱まった隙を狙って男性が駅を飛び出した。しかし、無常にも突然強くなり、やまれずみずほのいる軒先に飛び込ん来た。若い男ではないが、40才くらいだろうか?かと言って、オヤジ臭いわけでもなく、いわいるイケメンだった。彼は、笑顔で「すいませんね」と言って上着の雫を払った。みずほは、その凛々しい笑顔につい見惚れてしまった。なんと言っても、イケメンの彼からは想像できないことに、笑うと前歯から右に4本目の虫歯が印象的だったので、脳裏に焼き付いてしまった。
 そんな彼であったが、時折、空を見上げたり、時計を気にしていた。きっと、急いでいるのだと思い、彼に買ったばかりのハンカチを貸してあげた。彼は、お礼を言うと、そのキティーちゃんのハンカチを頭に乗せて、雨の中を走り去って行った。

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 みずほの話が、一区切りするタイミングを待っていたようで、再びマスターがやって来た。
「さ…先程は、失礼しました。良かったら食べて下さい。サービスです」
「ありがとうございます。いいんですか?」
 みずほがお礼を言った。マスターは、嬉しそうに自慢した。
「どうぞ、どうぞ。これは、ここでしか食べられない“パンプキン・パイ”です。僕が作った自家製です」
「“僕が作った自家製”って、日本語おかしくない?自信作だよね」
 ちどりは、そう言ってからしまったと思った。
「あっ、ごめんなさい。余計なこと言ってしまって」
 しかしマスターは、笑みを浮かべている。
「あいつのせいだ…」ちどりは小さくつぶやいた。
「意外に女性には人気なのですよ。でもパンの場所での販売はしてないのですし、持ち帰ることも出来ないですから」
「へぇー。じゃーレアメニューですね」
 ちどりはヨイショした。マスターもまんざらでもないようで、テレている。そんな二人をよそに、みずほはフォークてひとすくい口の中に。
「う~ぅん。美味しい~!!ちーちゃん、これ、めっちゃ美味しいよ」
「こら!先に勝手に食べるな!私も一口。う~ぅ、美味しい~!!」
 マスターは、ただただ、微笑んでいた。

 かぼちゃパイを食べ終えるまでの二人は、ほぼ無口になっていたが、何かを思い出したかのように、ちどりが口を開いた。
「その男性に惚れちゃったんだ。で、イケメン?どんな人?名前とか聞いた?何している人なの?私も会って見たかったな~」
 矢継ぎ早に、話すものだから、口を挟むことができない。
「みずほにもついに春が来たってことだねぇ。ねーねー、黙ってないで、ちょっとぐらい教えてくれてもいいんじゃない」
 一通り、ちどりのおしゃべりが終わるのを待ってから、みずほは話し出した。
「あの時はそんな余裕なんてないし、連絡先も知らないし、名前すら聞いてないの」
「な、なんで!ハンカチ貸してあげたんでしょう。それも買ったばかりの」
「うぅん。傘、貸してあげようと思ったけど、返してもらえなかったら、困るし…」
「えぇぇー!!傘、持っているのに、雨やどりしていたの!?」
「うん。だって三段折りのって、乾いた後、たたむの大変でしょう。だから、使わない方がいいんじゃないかな~って思って…」
「はぁーあ。まったくみずほらしいよ。と言うことはですね。その男性はどこのどなたか、全くわからない訳なんだ」
「早い話しがそう言うことです。もう会えないのかな~」
「困ったもんだ。神様にでも、お願いするしかないね」
「・・・・・」
「落ち込まないの!そのうち、いい事もあるよ」
ちどりは、戸惑いながらも、みずほを慰めた。
「しょうがない、帰りに5丁目の“大空神社”寄って、神頼みしに行こう」
「うん」
「現金なやつ…」

                    ※

「ただいまー」
 北斗が帰って来た。
 あまりにも唐突だったのか、母親の国東みどりは“おかえり”も忘れて「あらっ?今日休みだった?」と言ってしまった。
「おかえりもなしかよ。今日は非番。今から少し横になるから、晩飯できたら呼んでくれ」そう言うと、2階に上がり自分の部屋にこもってしまった。
「本当に、あの子ときたら…、朝帰って来たと思ったら、夜出て行くし、かとおもえば、一日中ゴロゴロしてるし…、ちゃんと仕事しているのかしらねー。近所の人に『お宅の息子さん、お仕事辞められたの?』って言われているの知らないのかしら…」
 みどりは、一人愚痴った。

 夕方になりみどりは、夕飯の用意を始めたその時、みずほが帰ってきた。
「ただいま!ちーちゃんとお茶して来た」
 みずほは『安眠』での落ち込みが嘘のように元気にだった。気持ちの切り替えが早いと言うか、楽天的と言うべきか、まぁ、そういうところが、彼女の良いところでもある。
「おかえり。あなたに何か届いているよ」
「きっと“奇天烈小説”だー!!」
 リビングに駆け込むと、出版社からの包みを開け始めた。
「先に、手洗い、うがいしなさい!」
 みどりの言葉も耳に入らないようだ。
「やった!ほらほら、お母さん、あたしの小説“悪魔と天使の顛末記”載ってるよ。ほらココに。そうだ、明日ちーちゃんに見せなきゃ。ところで、お母さん、今日の夕飯何?」
「カレーよ。手洗い、うがいしたの?」
「まーだ」
「早くして来なさい」
「ハーイ」
 手洗いうがいを終えたみずほは、珍しくキッチンに入って来た。
「何か手伝おうか?」
「じゃー、野菜切ってくれる?今日はお父さんの帰りが早いから、久し振りにそろっての夕食ね」
「お母さん。一応野菜切ったんだけど、このジャガイモの皮が剥けないっ」
 見るとまな板には、1/4~1/6に分割されたジャガイモが転がっていた。
「あなた!何やってんの?なんで、皮剥いてから切らないの?先に切ってしまったら、剥きづらいに決まってんでしょうが!!これじゃーピーラーも使えないじゃないの」
「だってさ、リンゴは切ってから剥くもん」
「リンゴとジャガイモを一緒にしないの!それに、タマネギを輪切りにしちゃうし…」
「だって、その方がかわいいもん。じゃーお肉炒めるよね」
 そう言って、コンロにフライパンを乗せると火をつけた。これ以上みずほが係わると返って面倒になると思ったみどりは「さわらない!!あなたがさわると、カレーがスイーツになっちゅう。あーぁ!お料理もできないようじゃ、お嫁のもらい手ないわ」
 こういう言葉に対して、屁理屈だけは達者なみずほだ。
「大丈夫、料理好きの彼氏見付けるから」
 みどりも負けていない。血は争えないのだ。
「何言ってんの。洗濯させれば、柔軟剤と洗剤間違えて、せっかくすすぎしたのに泡だらけだし、掃除させれば、そこら中のタオルや小物全部吸っちゃうし…ブツブツブツブツ…」
「あれは…柔軟剤の表示が…、掃除機だって何でも吸い込むのがイケナイ…。イジイジ」
さらにみどり小言は続く。ここまで徹底的に言われると、みずほもさすがに言い返すこともできない。
「もういいから、お兄ちゃん起こして来て」
「ファーィ!」

 みずほは、北斗の部屋の扉をノックした。
「お兄ちゃん、そろそろ起きて!」
「オォ!!もう起きているぞ!」
「ちょっといい?」
 そう言って、扉をそっと開けた。北斗の部屋は、予想に反してきれいに片付いている。みずほとは大違いだ。
「なんだ?」
「お兄ちゃん、あのさ。思っていたんだけれど、今日、ちょっとちーちゃん、イジメ過ぎじやない? かなり怒ってたよー」
「いゃ~、悪い悪い。さすがに今日はちょっとやり過ぎだったな~」
「どうして?今日に限らずいつも、あんなことばかりするの?」
「いゃ~悪気はないんだよ。ホントに。ただ…」
「ただ?」
「いゃな、彼女、ミス・キャンパスだし、モデルもやっているんだろう。だからさぁ、なんか自分に嘘ついて、いつもニコニコしている。そんな風に見えるんだよな~」
「まぁー確かにそう言うとこあると思う。」
 みずほは、うなずいた。
「でな、もっと自分に素直になって欲しいんだよ。彼女の笑顔は、確かにかわいいよ。いつもニコニコしていることは良いことだと思う。でもな、怒った顔だって、俺は充分かわいいと思うぜ。まぁ、泣いた顔はかわいいと言うよりも、可哀想になっちまうからな、あまり見たかないがなー」
 みずほは、思わず感心した。
「お兄ちゃんって、意外とちーちゃんのこと気に掛けているんだね」
「意外とは心外だな~」
「ひょっとして!ちーちゃんのこと、いいなーとか思っていたりして」
「バ、バカ言え!俺が彼女に“お願しますって”握手求めても、“ゴメンナサイ!”ではすまないだろう。むしろ“てめーどの面下げて言ってんだよ!おととい来やがれ!!この、カス!!!”って、罵声を浴びるのが関の山だよ」
「そうだね」
 妙に納得する、みずほであった。

「ただいま!」
 父親の国東八雲が帰って来た。
「お疲れさま!」
そう言いながら、みどりが玄関先まで出てきた。リビングからは、みずほの声が聞こえた。
「パパ、おかえり」
「あぁ、疲れた。でも今日は早く帰れてよかったよ」
「ご苦労様でした。先にお風呂に入りますか?」
「おっ!この香りは!今日はカレーだよな~。先に飯にしよう」
「ハイハイ」
 八雲は、居間で服を着替えると、リビングにやって来た。真新しい作務衣が似合っていた。みずほは、改めて声をかけた。
「パパ、お疲れさま」
「ただいま」
「おつかれ!」
 北斗は、軽く言った。相変わらずのぶっきらぼうだ。みずほは男同士って仲が良いのか?悪いのか?さっぱり分からなかった。八雲は、よっぽど娘が可愛いようで、みずほに向かって微笑んだ。
「パパ、これ見てー」
 みずほは、今日送られてきた本を八雲に見せた。八雲は、手渡された本をパラパラとめくり出した。
「パパ、ちゃんと見て。ここ!」
 そう言うと、自分の書いた小説が載ったところを指し示した。
「おぉーおー、すごいなー。みずほちゃんが書いた小説がちゃんと載っているじゃないか」
 みずほは、少々自慢げだった。
「この“悪魔と天使の顛末記”って、どんなお話なんだ?」
「それはね、気弱な悪魔と高飛車な天使のお話で、二人は壷の中に閉じ込められていて、海に浮いているの。男の人が拾って開けると悪魔が、女の人だと天使が出てくるの。悪魔は3つの願いを、天使は1つだけ願いを叶える事ができるのよ・・・」
 みずほは、長々と自分の書いた物語のあらすじを話し出した。八雲は“しまった”と後悔し、北斗に目で合図した。
「親父!ビールでも飲もうか」
 北斗が割って入った。
「あたしもー!」
 すると八雲が答える前に、みずほが答えていた。八雲は、北斗とみずほの顔を交互に見比べ、うなずいていた。北斗が冷蔵庫から、缶ビールを3本取り出そうとすると、みどりが“私もよ”と眼で訴えていた。
「お父さん。ビール飲むのでしたら何かおつまみ要りましたねー?」
「母さん、いいよ、いいよ。一杯だけだし」
「みずほ、ちょっと手伝って、サラダ持って行ってちょうだい。おつまみにはならないかも知れないけれど、スモークサーモンが入っているから」
「ハーイ!」
 北斗は、缶ビールを食卓に置き、グラスを4つ並べた。みずほは、サラダを並べ、カレー皿にご飯を盛った。
「お父さん、すいませんねー。ビールとカレーになちゃって…」
「いいじゃないか。国東家らしくて。まずは乾杯」
「おつかれさま、カンパーイ!」
 四人は、グラスのビールを一気に飲み干すと、まるで“この一杯のために、今日も一日頑張った”という表情をしていた。
 北斗は、人差し指を立てて“もう一本いく?”と合図した。八雲も“いいね”の意味合いを込めニッコリ笑った。そして、北斗がビールを持って来る合間に、目の前のカレーライスに手を着けた。
「母さんのカレーは最高だね。お肉たっぷりで、コクがあって、うぅーん!まぃうー」
 みずほとみどりは笑った。
「ありがとう。色々凝っているのよ。隠し味にすりおろしたリンゴいれて、あと挽き肉は絶対入れないとね。仕上げはホイップクリームね…」
 みどりは、自慢気に話した。

 そんな二人の話をよそにみずほは、スマホを充電していたことを思い出した。
「あっ!メール着てる」
 そう言って、スマホをいじりだした。着信履歴が5件、メールが14件入っていた。そして、メールを開くと、本文がなく件名のみで入っていた。

手紙『てめ~!いつまで待たせる気だ!!』

 後ろから覗き見していた、北斗が「まったく、あいつらしいぜ」と言った。
「お兄ちゃん!勝手に見ないの!!」
 兄妹が、言い争っていることをよそに、八雲が一言。
「でも、タマネギが輪切りなのは珍しいな~」
「あっ、それはみずほが切ったヤツだわ~。この子にお料理させると何するかわからないのよー。こんなのでお嫁にいけるかどうか、心配だわ」
 さっきまで、北斗と言い争っていたみずほは、あわてて夫婦の会話に入ってきた。
「お母さん、ひどいよ。この方がかわいいよね~パパ」
「あっあぁー。かわいい、かわいい。みずほちゃんの言うとおりだよ。みずほちゃんの言うことに間違いはない」
「お父さん、あまりみずほを甘やかさないで下さい。この子、本当に家事ができないんですから。これじゃ、お嫁にもいけない」とみどりが言えば、北斗も口を挟んだ。
「化粧気もしないし、服装も地味って言うか、まったくセンスないし…」
「いいもん。お嫁になんて行かないもん。パパもその方がいいでしょう」
「そ、そうだな。みずほちゃんは、ずっとパパのもとに居ていいよ」
みどりと北斗は“ヤレヤレ”と思った。その思いを察した八雲は、話題を変えようと「飯済んだら、風呂に入ろうかな~」と独り言のように言った。
 しかし、みずほは、すかさず言い出した。
「パパが先に入ったらダメだよ。だってさー、湯船のお湯がほとんどなくなっちゃうんだもん」
「あなたは、これからドラマ見るんでしょが…。パパが疲れているのに、入るのが遅くなるでしょう」
 みどりが苦言を呈した。
「じゃー、そのドラマ俺が録画しておいてやるよ」
 北斗の心遣いも
「あたしは、デッキのリモコン操作できないし…。もし、万が一再生に失敗してお兄ちゃんの大事な映画、消去しても知らないよ。いいの?」と言い出す始末。
「運動音痴に、方向音痴、その上、味覚音痴の機械音痴、さらに恋愛音痴。ヤレヤレ、嫁のもらい手なんてありえねーな。母さんの言うとおりだ」そう言ってさじを投げた。その様子を終始みていた八雲は“うちのお姫様には叶わないな~”と苦笑いした。
♪キン♬コン♬カン♬コン♪ ♪キン♬コン♬カン♬コン♪

 授業終了のチャイムが鳴り、みずほとちどりは、椅子に座ったまま背伸びをした。
「うぃー!やっと終わった」
「あーぁ!解放され…あぁっ!!はずれた」
「ちーちゃん、どうしたの?」
「背伸びしたら、ホックがはずれた」
「付けてあげるよ。でも、大きく見せようって魂胆でしょ。サイズの大きいヤツにするから外れるんだよ~」
「悪かったね。見栄っ張りで!」
「ハイ。付いたよ」
「ありがとう。ところで、これから行ってみる?」
「ちーちゃん、あの店気に入ったんだね。あたしもだよ。行ってみようか」
「せっかくだから、あすか先生誘ってみよう?」
「アルカリ性の反対、酸性じゃなくて賛成」
(ちどり絶句)

 二人は、校内をうろつきまくった末、やっとあすかを見つけ出すことができた。
「先生!やっと会えた。ここにいたのですか」
「あたしたち、これから『安眠』に行こうと話していたんですが、一緒に行きませか?」
「今から?ちょっと待ってね」そう言うとあすかは手帳を見た。
「うん!大丈夫いいわよ。帰り支度して来るから、もうちょっと待っていて」
そして部屋に入って行った。
「ちーちゃん、良かったね」
「ん!なんか楽しみ!」
 やがて、あすかはピンクのワンピースに着替えて部屋から出て来た。講義の時とは全く違うこの姿にちどりが、喰いつかない訳がなく
「先生、素敵はワンピースですね。めっちゃ似合っています」
「そう、ありがとう。ウィンドウショッピングしていたら見つけてね。衝動買いしちゃった」
「袖口と胸元のレースがオシャレでかわいいですよ」
「でしょう?でもちょっと若作りしちゃったかも…」
「ぜんぜん、ゼンゼン。十分若いですよ!」
 しかし、ファッションに余りぃゃ全く興味のないみずほは、かごの外だった。そして、そんなことより聞いてみたいことがあった。
「あの~、盛り上がっている時にすみません。あすか先生、この大学の由来って…?」
 みずほが言い出すと、今度はちどりが口を挟んだ。
「なんで水を差すんだよ」
「だって、ちーちゃんだけ盛り上がっていて、あたしはつまんないんだもん」
「しょうがないな~。そう言えば、大学の名前なんだっけ?まだ一度も出てこなかったよね?」
「“バカ田大学”だったりして。♪都の西北、早稲田の隣…♪」
「それは、“バカボンのパパ”の出身校だろーが」
 そんな二人を見て、あすかは、微笑ながら言った。
「私たちの大学は『暁曙学園大学』ですよ」
 ちどりは、みずほを小突きながら尋ねた。
「みずほ。暁とか曙とか、いったいなんて意味なんだよ」
「アカツキ…アホ・ボケ大学?バカ田じゃないんだー」
「まだボケるか?…」
「訓読みじゃなくて“ギョウショガクエン”です。暁も曙も夜明け前の状況を表す言葉ですね。つまり、近未来を開き、担う人になって欲しいという願いが込められているのです」
 あすかは、優しく答えた。
「へぇ!へぇ!へぇ~」
「こら、トリビアじゃねーの!マジメにやれ!まして、トリビアって言葉もう死語だし」
 あすかは、吹き出しそうになっていた。
「漫才聞いているみたいで、とても面白いわ。本当に仲の良いお二人なのですね」
「ありがとうございます」
 二人は、なぜかお礼を言った。
「あすか先生は、『安眠』ってカフェ・ベーカリ、ご存知ですか?」みずほが尋ねた。
「学生たちが時々そのお店の名前話しているのを、聞いたような気がするけど、正直知らないの」
「あたしたちも、ついこの前まで知らなかったですよ。とっても雰囲気が良くて、いい感じのお店なんです」
「みずほの兄貴、ぃゃお兄さんが教えて下さったのです」
「そう。優しいお兄さまですね」
「お兄さま!?とんでもない!身の程知らずで、自分勝手、理不尽野郎の嫌みなヤツです。人の嫌がることばっかりするし…。あすか先生もあいつには気を付けた方が絶対いいですよ。超サイテー男…」
「ちーちゃん!ちーちゃん!!もう、ホント兄貴のことになるとムキになるんだから」そう言ってちどりを落ち着かせた。
「お話聞いていると、小学生の男の子みたいですね」
「まったく、小学生のガキ以下だよ!」
「ちーちゃん!!!」
「あっ、ゴメン、ゴメン」
「きっと、みずほさんのお兄さまは、ちどりさんに気があるのじゃないかしら。小学生の男の子って、好きな女の子に、ついついちょっかい出すでしょう」
「あすか先生、冗談は止めてくださいよー。絶対ありえねー。もし、万が一、ぃゃ億、兆、京が一、告られても、おととい来やがれーって言ってやりますよ。まったく!」
 またまた、ヒートアップするちどりであった。
「そうそう、兄貴も、同じこと言ってた。でも、ちょっぴり、いいところもあるんだけどな~」
 みずほもちょっと北斗をフォロー。
「ないっ!!!!!!!!!」
 結局、玉砕。
「ハックション!」
 北斗はくしゃみをした。
「誰だ?俺の噂するヤツは…」

                    ※

 一方、『安眠』の常連、翼たちも店先まで来ていた。
 剣が、扉を開けるといつものように「いらっしゃいませ」と声が響く…。
 しかし、いつもと声のトーンが違う。
「何だ、おばちゃんかー」
「ありゃっ?あやめちゃんじゃないんだ…」
「誰が、おばさんなの?ピチピチの女子高生あやめちゃんじゃなくて、悪かったわね!」
 剣と翼の言葉に、あきは嫌味を言いながら、彼らのほっぺたを指でつまんで引っ張った。
「イィテテテテ!ゴメンナサイ!!」
 一歩遅れて入って来た燕は、
「あきさんじゃないですか!お久しぶりです。しばらく見ないうちにお綺麗になりましたね」
とヨイショしたものだがら、あきはあわててその指を離し「さすが燕くんは、正直で良い子だわ。君にはこれを上げよう」そう言って“焼きそばパン”を手渡した。
「熟女好きのしらやんには、恐れ入りました」そう言い残して燕がもらった“焼きそばパン”を横取りし、一目散に喫茶室に向かう二人。さらにその後を「それ、俺の~!」叫び追い駆ける燕。その叫びをかき消すかのように「お二人さん、まだ何か言い足りないの?」と、さらに追い討ちを掛けるあき。“すっげー地獄耳”を思った剣と翼だった。

 喫茶室に入ると、いつもの指定席には、希たち女子三人組が座っていて、学園祭の話しに夢中だった。
「今度の学園祭、三人でステージに出ない?」と希が言い出した。
「学園祭って“暁曙学園☆明星祭☆”のイベントステージに出るの?ひょっとして『Perfume』の歌まねで~?」サクラが答える。
「いいねー!そして、学園の素敵な男子をメロメロにしてやろうよ」あおばも同意した。
「じゃー決まりね。で、曲は何にしようか?」サクラが言うと「“Hurly Burly”か“Sweet Refrain”がいいかな。でも“未来のミューシアム”もいいよね」とあおばも言った。
「そうね、ちょっと調べてみて、振り付けが覚えやすい方がいいと思うの。練習するにしてもあまり時間のないしね。それに衣装も作らなきゃならないしさ」希は、計画性があるようだ。
「ステージ衣装か~。セクシーな雰囲気の衣装で男性陣を釘付けにするか?それともフリフリで可愛くきめるか?う~ん悩むな~。でも、なんかワクワクしてきたー!素敵な彼氏見つけるぞ!」 と、張り切るあおば。「おいおい。そっちがメインかよ!」とつっこむサクラ。
 希も負けじと言う。
「でも、あーちゃん、最近甘いの食べ過ぎじゃない?ピッチピチの衣装は、ちょっとまずいんじゃないの?」
「誰が、ボンレスハムやねん!」
 あおばの一言に、一同大笑い。
「でさ、のっけは、やっぱあれだね」
「あれって?」と希とあおばが尋ねた。
「キメゼリフ」
「なんだっけ?」
「“のっちで~す!あーちゃんです!サクラ、で~す!3人合わせて『Perfume』でーす!!って、何でやねん!”ってボケだよ」
 サクラも絶好調。
「それいいかも」
などと言いながら、三人は子供のように笑った。
「そしてね。最後の仕上げは、この小杖で魔法を掛けるの…」と言って、サクラはシナモンの枝を振り回した。
「え~なになに?その話初めて聞く。くわしく教えて」とあおばが言い出し「えっ!あーちゃん知らないの?有名な話よ~」と希は驚いた。そして、その意味を話し出した。
「このシナモンの枝でさ、このガラス窓に大好きな人の名前を3回書くと、恋が愛に変わるんだよ」
 さらに、サクラがその由来を話し出した。
「それはね。ここのコーヒー・ベーカリーが、開店してしばらく経ったころの出来事で、私たちの大学の先輩の逸話なの…」

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

 ぽっちゃり系の、正直に言うとかなりぽっちゃり系と言うか、はっきり言ってぼっちゃり系の女子大生の守岡伊代は、偶然にもこの店を見つけると、よほど気に入ったらしく足繁く通っていた。
 ある日、大学の門のところでつまずき、ぶざまに転んでしまった。見事に鞄の中身が散乱し周りの視線と笑い声が気になり、あまりの恥ずかしさにしばらく起き上がれなかった。そんなところに一人の男性がやって来て、鞄の中身を拾い集め「大丈夫?怪我してない?」と優しく声を掛けてくれただけでなく手を差し伸べてくれた。
 恐る恐る顔を上げた伊代は、彼と目が合い手を握られた瞬間、不覚にも心を奪われてしまった。なぜなら彼は、女子大生の中で有名な、イケメン学生白鳥筑馬だったからだ。

 それ以来伊代は、ここ『安眠』この席に座ると、窓の外を眺めては叶わぬ恋にため息をついていた。そんな彼女を気遣ってマスターは、何も言わず一杯のシナモン・ティーをそっと差し出した。
「ありがとう。マスター」そうつぶやくように礼を言うと、バラの形の角砂糖をカップに落としては、ため息ひとつ。シナモンの枝でかき回しながら、またひとつついた。
シナモン・ティーがすっかり冷めたころ、手に持っていた枝で、何気なく“ちくま”と窓ガラスに書くと、一気に飲み干し席を立った。

 次の日も、彼女は同じように、そっと出されたシナモン・ティーがすっかり冷めるころまでかき回し、ガラスに名前を書くと、一気に飲み干した。

 そして次の日も…

 この日は、いつもと違った。それはいつものようにシナモンの枝で、彼の名前を書いた直後のこと、この店の前を自転車で偶然通った筑馬に、見つかってしまったようだった。しかし、彼はなぜか走り去ってしまった。
 虚ろな目でボーっと外を眺めている彼女にとって、一瞬、白昼夢のような出来事であり、事実か幻想かわからず仕舞いまま“夢でも幻でも会えて良かった”と思えた。
 そして、残ったシナモン・ティーを飲み干すと店を後にした。

 やがて、用事を済ませたらしく筑馬が、息を切らして『安眠』にやって来るとマスターに尋ねた。
「すいません。こちらの席に座っていた女性は…?」
「30分ほど前にお帰りになられました」
 その言葉を聞き、少々落胆した彼は、先ほどまで彼女の座っていた席に座り込んだ。そして、ふと窓辺に目を向けた時ガラスに“ちくま”と薄っすらと書かれていることに気付いた。
 注文することすら忘れていたのだが、いつのまにかシナモン・ティーがそっと差し出されていた。
 しばらくすると彼は何かを思い付いたように“ここで待っています”と、シナモンの枝でガラスに書いた。そして、書いた後が乾くとその上をなぞり、それが乾くとまたなぞった。もちろんシナモン・ティーは完全に冷め切ってしまっていた。

 翌日、彼は開店と同時に『安眠』に入った。
 朝のパン売り場は賑わっていたが、喫茶室は客もおらず閑散としたカウンター席についた。窓際のテーブル席でも良かったのだが、一人陣取るのもはばかられるし、むしろ顔見知りに見つかりたくなかったからだ。
 程なく初老の男が一人やって来て、コーヒーを注文すると、朝刊をマガジンラックから取り上げ窓際のテーブル席に座った。
 マスターの「ご注文は?」の言葉に我に返った筑馬は
「モーニングってあります?」と尋ねた。
マスターは、肯定する代わりに「トーストに、バターとジャムを塗ってもよろしいですか?」と尋ねた。
「あっ、はい。お願いします」そう答えると、先程の男性の方を見た。なぜなら新聞をめくるたびに、その端が窓ガラスの文字に摺れるからだった。
やがて「おじゃましまんにゃ〜わ」と、先ほどの初老の連れらしき男がやって来た。
「田沢さん、おはよーさん」
「えっと、どちらさんです?」
「水上ですがなー」
「あーぁ、水上さん。あーぁー」
「思い出してくれました?」
「いや、わからん。って冗談です」
 などと彼らは一通りのボケツッコミで挨拶を交わすと、向かい合わせに座りかみ合わない話をしていた。
 しばらくするとモーニングセットが運ばれて来た。プレートには2.5cmほどの厚さのトーストが半分に切られ、一方にはバターが、もう一方にはジャムが塗られていた。ちょっとした野菜サラダと湯で玉子も付いている。その傍らでコーヒーが良い香りをあげていた。
 彼が、モーニングを食べ終わったころには、先ほどの二人の姿はすでになかった。

 やがてプレートを下げに来たマスターが声をかけた。
「コーヒー、お替りお持ちしましょうか?」
「あっ、いや…」口ごもる筑馬に気を使ってか
「サービスですから、ご遠慮なく」
「すみません。では1杯だけ」
 湯気のたったコーヒーカップを持って来てくれたマスターに、彼は申し訳なさそうに言った。
「マスター。ぃゃ、いきなりマスターは失礼ですね」
「いえ、そう呼んでいただけると私もうれしいです。ご覧の通りパン屋は賑わっているのですが、 私の喫茶室はこんな状態で“マスター”なんて呼んでくれるお客さんもいませんから、本当にうれしいですね」
「そうですか。じゃーせっかくなので、マスターに聞いて欲しいのですが…?」
「彼女のことですか?」
「まぁ、そんなところですね。彼女はよくこのお店に来られるのですか?そしてどうして虚ろな目で窓の外を眺めているのですかね?」
「彼女は、この店の唯一って言ってもいい常連さんです。2、3日前ぐらいからかな、なぜか落ち込んでいるような、思いにふけっているような感じです。気分転換になればと思い、シナモン・ティーを差し出したのですが、あまり効果はなかったようですね」
 マスターは笑みをこぼした。
「そうなのですか。実は、ぼく彼女のことが…」
「言わなくてもわかりますよ」
「でも、周りのみんなに言われるのです。“おまえの趣味はおかしい”って。確かに彼女の容姿は整っているとは言い難いですが、いくら美人でスタイルよくても、それが素敵な女性だとは言い切れないと思うのです」
「あなたのおっしゃるとおりですね。よく言うじゃないですか“美人は三日で飽きる。ブスは三日で慣れるって”あっ、これは失礼。前言撤回ですね」
「いや、いいですよ。でも、僕にとっては彼女みたいな女性が一番素敵に見えるのです」
「そう!それでいいと思います。信念を貫くことが大事ですよね」
「ですよね」
「彼女、来るといいですね」
「ところでマスター、奥さんはきれいな方なのでしょう?」
「まさか。まだ独身ですよ。性格が災いして…。君のような強い信念と勇気があれば…。なんてね…」
 ほかに客が来ないまま、彼はマスターと話し続けていた。お替りは、1杯だけと言っていたコーヒーも、3杯は飲んでいただろうか、時間もお昼をとっくに過ぎていた。

「いらっしゃいませ」
 とあきの声が突然店内に響いた。
 筑馬とマスターは、一瞬にして黙り込んだ。入ってきたのは、やはり伊代だった。うつむき加減の彼女は、筑馬に気付くことなく、窓際の席に座った。そして、いつものように外を眺めようとしたとき“ちくま”のあとに“ここで待っています”の文字を見つけた。
 そしてその瞬間を待っていたかのように、シナモン・ティーが運ばれて来た。
「待ち人が、朝からお越しですよ」
 その言葉を聞いて振り向くとそこには、筑馬がニッコリ笑って立っていた。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

「彼女らの話って、白鳥先輩のことだよな~」
 聞き耳を立てていた燕が言った。
「そうだな。まぁ、うちの大学ではソコソコ有名な話だからな」翼が答えた。
「でもさ、さっきから聞いていたら、ロマンチックかなんだか知らないけれど、とどのつまりが、 先輩は“デブ専だった”ってことだろうが…」
 剣が余計な口を挟んだことが、希たちの耳に入り「人それぞれだから…」と言いかけた翼の言葉を打ち消す如く声がした。
「女性の話を盗み聞きするなんて失礼ですね!」
「ホント、工学部の男ってデリカシーないんだから!」
「最低!最悪!一昨日来やがれ!」
 希たち三人はそれぞれ、捨てゼリフを放つと店を出て行った。
「ありがとうございました」
 お礼を言うあきの声も、心なしか虚しく聞こえた。

「ワリぃ、ワリぃ。でもあれだね、サクラって子、かわいいんじゃない?のっちって子もいいね~。あーちゃんって子も捨てがたい…」
 希たちの言葉にめげることなく剣は話し出した。
「ケン!ひょっとしてそっち系!?」翼が尋ねた。
「てっきり巨乳好きだけだと思っていたが、ドS好きだったとは…。俺たちのことを“熟女好き”だの“デブ専貧乳ロリコン”だの言っていたが“デカ乳ドM野郎”だったって訳か!!」
燕がさらに覆い被さってきたが翼は、ただ笑っていた。
「ぃゃ…だから…そういう…。バッサン!笑ってないで助けてくれよ~」
「バッサンも、超ドMのケンになんか言ってやれ!」
 翼は、ただ笑い転げていた。

                    ※

 みずほたちが『安眠』にやって来た。
「あすか先生。ここですよ。素敵でしょう」
 みずほが自慢気に話した。あすかは、その店の外観に見惚れて、口をポカーンと開けたままだった。
「店内も素敵なんですよ」
 ちどりが扉を開いた。

「いらっしゃいませ」
 あきの声が響く。
 ちどりは、レジにいたのがあやめじゃなくて戸惑ったが、みずほは、そんなこと気にもとめず「かわいーぃ。今日のエプロン素敵ですね。 すごっくお似合いですよ」と誉めたものだから、あきは“えぇ?エプロン??”と戸惑いながらも、自分に都合よく“似合っている?私がカワイイ”と思い込みテレれた。
 しかし、おもむろに顔を上げた時にはみずほたち三人の姿はなく、すでに喫茶室に入って行った。

「俺はただ、一度でいいからデカオッパイで責められてはみたいと言うか…」
「だから責めて欲しいんだろう。イジメられたいんだろうが!それが本心なんだろう!!」
 剣と燕は言い合い、翼は大ウケして、相変わらず騒いでいた。
 やがて、剣と翼がみずほたちに気付いた。
「あぁぁぁ!ピンクの巨…ムグムグ」
 翼があわてて剣の口をふさぎ、空いた手の人差し指を立てて唇に当てた。
「しーっ。声が大きい。聞こえる」
 燕も一瞬にして黙った。
「バッサン、スマンスマン。オォ今日はピンクのワンピースじゃないか」剣は小声で言った。

 みずほたちは、そんな彼らを意識することなく、窓際のテーブル席に座った。カウンターからは、ゴムの木が邪魔していて、あすかの表情が今ひとつ見づらい。良く見えるのは、向かいに座ったみずほとちどりの背中だけだった。
 さて、そのあすかは、この店が思いのほか、と言うよりは度肝を抜かれるほど気に入ったようだった。
「あすか先生?」
「先生?先生?」
 呼びかける二人の声も届かず、視線を遮る目の前の手が数回見えて我に返った。
「あすか先生、このお店、気に入ったみたいですね」
「私たちのこと忘れて、完全に自分の世界に入っちゃうだもん」
「ごめんなさい。本当に素敵なのですもの。どこもかもね」
 三人は、思わず笑った。

「マスター!お客さんだよ」
「ミスキャンのちどりちゃんが来たよ」
「それも、うわさの『ピンクの…』連れで…」
 翼たちは、マスターを急かした。
「あっ、ぁー」
 “ミスキャン”に“ピンク”と言われて動揺しない訳はなく、その上ピンクのワンピースが目に入ったものだから、緊張と興奮に変な汗は出るわ、足はガクガクと震え、手も自分の腕でないかのように小刻みに震え出し、お冷のグラスに氷を入れようとしてもうまく入らず落としてしまい、何とか入ったものの注ぎ込んだ水は大半がグラスの外な訳で床は水浸し。意識が朦朧とする中、やっとのことでステンレスの丸盆にグラスを3つ載せ、両手でしっかり持ち、震える足をなんとか押さえて一歩一歩と踏み出す。そんなマスターを面白がり、ちゃちゃを入れる翼たち三人。
「早くもって行かないとお冷が温まるよ」
「お客さんお待ちかねだよ~!」
「ピンクのお姉ちゃん帰っちゃう前に、早く行ってあげな!」
 剣がマスターの背中をポンとたたいた。その拍子に案の定、マスターすってんころりんよろしく、丸盆をひっくり返して無様に転んだ。
「大丈夫ですか?」
 あわてて駆け寄り、転んだマスターを起こそうとしたのは、あすかだった。
「あなたたち!なんてことするの!」
 三人を叱り付けた瞬間、マスターが我に返った。
 目の前にはピンクのベール、ぃゃワンピースから垣間見えるみごとな谷間が…。あまりの衝撃に再び意識は薄れていき、顔面はゆっくりとその胸元に抱かれるのであった。
 剣は、その光景に声にならない声を上げ、翼は広げた掌を顔に当て隙間から覗き、燕はあわててあきを呼びに行く。
「なにしてるの!早く手伝いなさい!!」あすかの檄が飛ぶ。みずほとちどりは、テーブル同士をつないでベッドを作り、あすかは剣と翼の三人でマスターをその即席ベッドに横たわらせた。あきがおしぼりを冷やして額に載せると、気が付いたようで微かにうなり声を上げた。
「お兄ちゃん!大丈夫?」
 あきの声に目を開けた。
 その時まぶたの奥に飛び込んできたものは、頭上から覗き込むあすかの顔と胸元だった。そして、鼻からは真紅の液体がゆっくりと流れ出てきた。

「ホント、お兄ちゃんはドジというかマヌケというか」
 鼻の穴にティッシュを詰めたマスターは、あきによってカウンターの奥に連れて行かれた。
 やがて、あきがお冷を持ってみずほたちの席にやって来た。
「ご迷惑をかけてすみませんでした。もう大丈夫ですからご心配なさらずに。ご注文は何になさいますか?」
「えっと、メッチャおいしいパンプキン・パイを3つ」
 みずほは、まるで何事もなかったかのように答えた。
「お飲み物は、いかがいたします?」
「おすすめってあります?」 ちどりが尋ねた。
「おすすめはコーヒーなのですが、兄があの状態なので、シナモン・ティーでもよろしいでしょうか?」
「えっ、シナモン・ティーがあるのですか?今時珍しいですよね。私好きなんですシナモン・ティー」あすかはそう言った。
「では、パンプキン・パイとシナモン・ティーをそれぞれ3つお持ちしますね。それからご迷惑を掛けたうえ、お世話になりましたので代金は結構です。サービスいたしますのでゆっくりしていって下さい」
「いや、そんな…」
 言いかけたちどりの横で、みずほは「ラッキー!」とはしゃいでいた。
 ちどりは“何がラッキーだっんだよ”と思いながらも、あすかの手前、口にすることもできず、苦虫を噛み潰したよう顔をした。そのことを察したあすかが、クスリと笑ったことをきっかけにみずほも笑い出し、結局ちどりもつられて笑った。

「みんなに迷惑掛けたのだから、あなたたちも手伝ってよ。返事は?」
あきは翼たちに言った。
「は~ぃ」
 仕方なく返事する三人。
「じゃー剣くんは、このパイを運んでちょうだい。翼くんはこの紅茶ね」
「あの~僕は…?」
「燕くんはね。シナモン・スティックとこの角砂糖」
「これって、カップに添えるものじゃ…」
「もし翼くんがこぼしたら、ダメになっちゃうでしょ。彼がテーブルにカップを並べたら、スティック1本と角砂糖赤白ひとつずつ置いてくれる。手で触っちゃダメよ。シュガートング使ってね」
「はい、わかりました」そう答えると、スティック3本と角砂糖の入った瓶を、大事そうに持って行った。

「先ほどはすみませんでした」
 剣がバイを並べ、翼もガタガタと音を立てながらカップをなんとかこぼすことなく並べた。そして「ごめんなさい」と頭を下げた。
 燕も手の震えを気にしながら、シナモン・スティックとバラの形の角砂糖を2個ずつ並べ「申し訳ありませんでした」と謝った。
 すると、あすかは「大丈夫よ。気にしていないから。そんな暗い顔しないで元気だしなさい」そう声をかけると、交互ウィンクした。
 それを見ていたみずほは「あすか先生、かっこいーぃ。こうやったらいいのかな?難しいぃな~、口が釣りそう。ちーちゃんどう。できてる?」と一生懸命真似をしょうとした。
「みずほ、両目閉じて何がしたいんだい。ちょっとちょっと、口は開けなくていいよ。あーぁ、なんて顔しているんだよ」
 ちどりが言ったので、翼たちも思わず笑ってしまった。

 カウンターに戻って来た翼たちをあきは、笑顔でむかえた。
「ご苦労様。意外と緊張したでしょう。お兄ちゃんは、マヌケなところあるからから、からかいたくなるだろうけど、そこそこにしてね。お客さんに迷惑かかるからね」
「すみませんでした」
 三人は声をそろえ頭を下げた。
「済んだことはもう気にしない。あなたたちも飲む?紅茶」
「ありがとうございます。いただきます」
「ハイどうぞ。サービスよ。その代わりちょっとここお願いね。レジの方に行かなきゃならないから」あきはそう言って、パン売り場の方へ小走りで行った。

 翼たちはいただいた紅茶を飲みながら話していた。
「あきさんって、ホントいい人だよな~。優しくて、思いやりがあって…」
「しらやん、ダメだよ。あきさんはもう人妻なんだから。バッサン、ところでマスターは?」
 翼はカウンター越しに身を乗り出し、奥にいるマスターの様子を覗き見た。マスターは、椅子に寄りかかるように座り、鼻にはティッシュが、目の上にはあきが載せたおしぼりがあり、うわごとを言っているようだった。
「ダメだ。完全に別世界を旅行中。きっといい夢見てるよ」翼はそう言うと、ヤレヤレという感じで両手を上げた。「あ~ぁ、マスターがうらやまし~ぃ!」剣は嘆いた。

 一方、みずほたちと言えば、マスターのことなどすっかり忘れ去られ話しに夢中だった。
「どうもこうも、見てられないよ。なにやってんだか…」
「どうやったら、あすか先生みたいに上手にウィンク出来るんですか?」
 みずほは相変わらず顔を歪ませながら尋ねた。たまりかねたあすかは丁寧に教えた。
「そうね~。じゃーゆっくり目を閉じて。そして片方だけ開いてみて。どう、できた?」
「はい。それは出来ました」
「じゃー、今度はゆっくり片方の目だけ閉じてみて。ゆっくりだよ。ゆっくり」
「あぁ!できた!!ちーちゃんできたよ!」
「まぁ、普通それぐらいできるものだけど…」
「じゃー、ちーちゃんは出来るの?あすか先生みたいに」
「交互にウィンクはちょっと自信ないけど、片方なら、ほら」
「スッゴい。メッチャかっこいい!じゃー、ウィンクして投げキッス、やってみて!」
 ちどりは、ポーズを決めてウィンクのあと投げキッスをした。
「ちどりさん、素敵」
 あすかが思わず言ったその直後
「仕事柄、この程度なら…」と言いかけたちどりの言葉をさえぎってみずほがちゃちゃをいれた。
「ちーちゃんって、おだてたらついその気になって、何でもやっちゃぅんだよね~」
「コラーッ」
「ゴメン、ゴメン。でも、ちーちゃんにウィンクと投げキッスされたら、男子はみんな虜だよ」
「そーか?それほどでも…」
「だけど、彼氏はいませーん。あーら不思議!」
「悪かったな!ここの男子学生の見る目がないだけだよ!」
 そんなやりとりをする二人を見て、あすかはたまらず吹出した。

「ところで、もうすぐ学園祭だね。あすか先生、今年の“☆明星祭☆”誰が来るかご存知ですか?」ちどりが尋ねた。
「ちーちゃん、なんであたしに聞かないのよ?」みずほはちょっと不機嫌になった。
「だってみずほ、そう言うことに疎いんだもの」
「確か…女の子だったと思うな。私もみずほさんと同じで、あまり芸能人のことは良く知らないのだけれど、実行委員の話しだと『許してにゃん♡』とか言う、ギャグ持っている子みたい」あすかが答えた。
「それって“ももち”じゃない。ほらイラドルの嗣永桃子ちゃん」
「あ~ぁ、なるほど。ギャグ持っているっておっしゃるから、お笑い芸人かと思っちゃいましたよ。でも、なんで男性じゃないんだよ。男どもの趣味で選びすぎなんだよ。あ~ぁ、綾野剛くんか、佐藤健くんだったら、気合入ったのになぁ~」ちどりが言い出すと、またみずほが、「えぇ~!あたしは、俳優より、池井戸潤先生か、和田竜先生がいいなぁ~」
「誰それ?」
「えっ!知らないの?あんなに有名なのに?池井戸潤先生はね『半沢直樹』や『花咲舞が黙っていない』の作者で、和田竜先生は『村上海賊の娘』の作者だよ」
「それだったら、石井あゆみ先生とか尾田栄一郎先生の方がいいな~」
「えっ!?それってだれ~?」
「ウソでしょう?みずほ知らないの?『ONE PIECE』の作者の尾田英一郎先生だよ!石井あゆみ先生は、小栗旬くん主演でテレビドラマ化された『信長協奏曲』の作者だよ。映画にもなっているんだから。そもそも知らないなんて信じられない、冗談はヨシコちゃんだよ」
「『ONE PIECE』だったら“トニートニー・チョッパー”の方がいい。かっこいい角があるからね…」
「“チョッパー”は女性に興味がないからダメ。それだったら“くまもん”だよね~」
「ブーだもん!“くまもん”より“ピグモン”」
「なんだよ“ピグモン”って?」
「友好珍獣の“ピグモン”だよ。その昔、ウルトラマンのお話の中で人間を助けるために、レットキングに殺害された、あの伝説の“ピグモン”だよー」
「ウルトラマンだの、レットキングだのって半世紀ほど昔の話だろう。あんたいったいいくつだよ!?」
「24だけど。ダメ?」
「じゃなくて。50過ぎているならともかく、おかしくネェ?」
「でも、ちーちゃんレットキング知ってんでしょうが」
「知らなーいもーん」
 そんな二人の会話を聞いていた、あすかはとうとう笑い転げてしまった。もちろん、カウンター席の翼たちも「松風嬢って意外な一面あるよな。結構ユニークな娘じゃん」などと言いながら笑っていた。
 あすかの予想外の状況と翼たちの笑い声に、二人の目は点に。「あすか先生?そんなに面白いですか?」二人は声を揃えて言った。
「アハハハハァ。みずほさんとちどりさんのお二人見ていると、漫才みたいで…面白いのよ。あっそうだ。あのね、あなたたち学園祭で漫才してみない?実行委員からイベントステージの参加者紹介して欲しいって頼まれているの」
 しかし、ちどりは 「でも、人を笑わせる自信ないし…」
「ちーちゃん、やってみようよ。面白そうだし。学生時代の思い出になるしさー」
「みずほは、ステージに立ったことないからわからないと思うけれど、かなり緊張するんだよ。それにネタも考えなきゃいけないし…」
「エッヘン!あたし、曲がりなりにもこう見えて小説家なので、大丈夫、大丈夫。大舟に乗ったつもりで!」
「本当に大丈夫かよ~?ドロ舟に乗ったことになるんじゃねーの?まぁ、とりあえず期待しているよ」
「じゃー、決まりね。楽しみだわ。実行委員に伝えとくわね」

(つづく)
(つづき)

「あすか先生に質問!」
 みずほとちどりは、偶然にもハモった。
「ちーちゃん、あたしが先!」
「私が先だよ!」
 あすかは“まぁまぁ、落ち着いて”という感じのジェスチャーをした。
「出身大学はどこですか?」
「どうして仏教学を専攻したのですか?」
 それでも同時に質問されたものだから、圧倒されていた。
「ちょっと、ちょっと待って!私が順を追って話すね」
 そう答えるあすかに、みずほとちどりはかぶりつくように構えた。
「まず、私の出身大学ですが、それは“鈴蘭女学院”なの」
「えっ!超お嬢様学校じゃないですか!もしかして小学校からですか?」ちどりは驚いて尋ねた。
「そうね、実は幼稚園からずっとなのよ。だから、本当に世間知らずなの。周りは女の子ばかりで、この大学に赴任してはじめて男の子と接した感じかな。だから毎日、戸惑ってばかりで…」
「いえいえ、そんなことないですよ」みずほが言った。
「そう見える?ありがとう。それから、仏教学を専攻したのは、高校修学旅行で、奈良に行ったことがきっかけだったの。その時に“人の言葉を話す鹿さんがいるらしい”と言う噂を聞いて、どうしてもその鹿さんに会ってみたいと思ったの。だけど、修学旅行って団体行動が基本でしょ」
「で、結局見つかんなかった」
 みずほが口をはさんだものだから、ちどりが人差し指を口に当てたが、みずほは相変わらず気にすることなく話した。
「なんだかそのお話、聞いたことあるような…。奈良は鹿で、京都が狐。大阪では鼠だったかな。なんだっただろうかな?“あかよろし”ちょっと違うな~…」
「おしい!“あかよろし” じゃなくて正解は“あをによし”だったと思うわよ。だから高校卒業してすぐ奈良に一人旅にでたの。鹿さん捜しに」
「それで、見つかったんですか?人の言葉を話す鹿さん」
 ちどりが尋ねたので、今度はみずほが諌めた。

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 高校を卒業したあすかは、大学入学までの休み期間に、ひとりで奈良に来ていた。名前が“あすか”なので人一倍奈良への思い入れは強かったし、絶対見つけ出す自信はあった。
 奈良に着いた直後、真っ先に奈良公園に行き、それらしき鹿を探し回ったが、とてもじゃないが見当もつかない。どの鹿も同じような顔つきだし、まじまじと見つめられることに慣れていないようで、どうしても避けられてしまう。その日は歩き疲れてしまい、日が暮れる前に予約していた宿“大和路”向かうことにした。
 宿に着くと、女将の美笹が出迎えてくれた。案内された部屋は、こぢんまりとした温かみのある和室だった。
「ようお越しになられました。さぞお疲れでしょう」
 美笹はそう言うと、お茶を注ぎあすかに差し出した。
「ありがとうございます」
「お風呂はいつでもご利用いただけます。ご夕食は一階のお食事処にお越しください。何かお聞きしたいことはございますか?」
「あっ、はい。つかぬことをお尋ねします。お宿のことではないのですが、奈良公園の鹿さんのことなのです。人の言葉を話す鹿さんがいると聞いたのですが、どこに行けば会えるのでしょうか?」
「人の言葉を話す鹿ですか?人の言葉がわかる鹿ならいると思いますが、話せるとなると、ちょっとわかりかねますね」
「そうですか…。あっそうですよね。変なこと聞いてすみません。ありがとうございました」
 美笹の話を聞いて、変な人だと思われてしまったと思い、話しを切り上げた。
「では、ごゆっくりお過ごしくださいね。失礼しました」そう言って、女将は部屋を出て行った。

 あすかは、とりあえず風呂に入って汗を流すことにした。ヒノキ風呂で、窓越しに坪庭があった。そんな湯船に入り、明日はどのように捜すか、模索したが思いつかず、眠りに吸い込まれそうになった。
 風呂から上がり部屋に戻ると、すでに寝床が用意されていて、思わず倒れこむと眠ってしまった。
 どれほど眠ったのだろうか?ふと、お腹が空いて目が覚めると部屋の前に女将の気遣いでおにぎりが置いてあった。
『お疲れでしょう。気兼ねなくごゆっくりお休みください』とメモが傍らに添えられていた。
 彼女は、おにぎりを頬張りながら“先に京都へ行って、動物園の狐さんに会って、鹿さんの居所を聞けばよかった”と後悔したが、気を取り直して、明日はもっと積極的に行こうと心決めした。

 翌朝、朝食前の散歩に出かけ「鹿さん、鹿さん」っと声かけたとき、首を縦に振ってお辞儀する鹿に出会ったが見失ってしまった。、散歩を終え、宿に帰って朝食のとき美笹にそのことを話した。
「それは、きっと人の言葉がわかる鹿だったのかも知れませんよね。鹿せんべいを手に持っていると、そのせんべい欲しさにお辞儀する鹿もいるそうですよ。一度試されてみては。中には人の言葉を話す鹿がいるかも知れませんよ。『おせんべいくれ』って」そんな美笹の言葉に、あすかは、今日も一日頑張って捜してみることにした。

 しかし鹿せんべいを片手に「鹿さん、鹿さんお話しましょう」と声をかけまくったが、鹿せんべいがなくなると、みんな知らんぷり。それでも、若草山に東大寺、春日大社と人の言葉を話す鹿を捜しまわった。

 三日目の陽が傾きだしたころだった。人の言葉を話す鹿さんなんているはずがないと、心が折れそうになり諦めかけていたころ。二月堂だったか三月堂だったか、そのあたりでぼんやりして寝そべる鹿たちを見ていたその時、奇跡が起きた。彼女の真後ろあたりで『おい。ポッキーないのかよ』っと言う声がしたように思えた。いや、確かに聞こえた。彼女はそう確信した。
 振り返るとそこには、一頭の牝鹿がいて、まるで“俺じゃないぞ”“違う違う”という雰囲気で、首を横に振っていた。いかにも怪しいと思った彼女は、その場を立ち去ろうとする牝鹿を尾行することにした。
 牝鹿は後ろからつけて来るあすかを気にしながらも、黙ったまま歩き出し、懸命にまこうとしている様子だった。
 結局、最後までその牝鹿は口を割らなかったが、着いた所はあるお寺の大きなお堂の前だった。そしてその牝鹿は、なぜかそのお堂の中に入ってしまった。
あわてて後を追い中に入ったが、牝鹿の姿はなく大きなみ仏様が鎮座されているだけだった。
 あすかは、思わずみ仏様に手を合わすと『人の言葉が話せる鹿が見つかりますように』とお願いしていた。そして、目を開けみ仏様を拝したとき、自分自身がちっぽけな存在のように思え、その自分の小さな願いを、み仏様は聞いて下さっていると感じた。たくさんの人々の中から、たった一人この自分が選ばれ、取るに足らない願いを真摯に受け止めてくださっている、その有り難さを全身に感じ、気が付くと頬を涙が伝った。

 翌日からのあすかは、鹿捜しが吹っ切れたようになり、飛鳥路・斑鳩の里を巡り、旅を満喫していた。もちろん彼女は、今まで感じ得られなかった幸せにつつまれていた。

 いよいよ最後の日、宿の女将のすすめで、薬師寺・唐招提寺に寄って奈良を後にすることにした。
 薬師寺の金堂に安置された薬師三尊像は、とても1300年以上昔に造られたものとは思えぬほど黒光りし、その威容に圧倒された。 また、唐招提寺の金堂内には、中央に本尊・廬舎那仏坐像、右に薬師如来立像、左に千手観音立像の巨像を安置されていて、薬師寺とは全く異なった趣があった。
 あすかは、堂内で手を合わせて祈っていると、近くにいた一人の男:男鹿が、独り言のように話し出した。
「この千手観音さまはね、本当に千本の腕があったのですよ。でも修復を繰り返すうちについていた場所がわからなくなって、現在は、953本なんだそうです」
 その声は、聞き覚えのあるものだったが、つい相槌を打ってしまった。
「へぇ~!じゃ、九百五十三手観音さまなのですね」あすかの言葉に、その男は笑ったが質問をしてきた。
「なるほど面白いことをおっしゃるお嬢さんだ。では、千手観音さまなぜ腕が千本おありかわかりますか?」
 あすかは、しばらく考えて「一人でも多くの人を救いたいから」そう答えた。
「すばらし、そうですね。仏の世界では、人々のことを衆生と言いますが、どのような衆生をも漏らさず救済する誓願なのですね。千手観音様とは、観音様の変化身で餓鬼道の救済に当たられている仏様なのです。ところで観音様ってわかりますか?」
「観音様っていう言葉は耳にしますが、正直あまりよく知りません」
「観音様はまたの名を、観自在菩薩と言ってその名の如く自在に変化して応現します。実は“般若心経”に登場していますよ」
「そうなのですか。今度“般若心経”勉強してみます」
「悟りって知っていますか?」
「難しくて、今の私にはよくわかりませんが…」
「たとえば、一生懸命頑張っても失敗して、また最初からやり直さなければならなかった時、人は“不向きなのだろうか”“なぜこんな目に…”などと愚痴が出たり、ネガティブになってしまう。でも、考え方を変えれば“初心忘れるべからず”あるいは“初心貫徹なんだ”などと思えたら、それが一種の悟りなのかも知れない。仏様のみこころを知れば知るほど、気付かなかったことに気付き、いつも傍らで応援してくださっていると思えるようになると、前向きになるようのではないかな」
 あすかは、仏様を見て“なるほど”と思った。そして、仏様からその男の方を見ると、彼の姿はすでになかった。
 それ以来、あすかは、仏教という教えが、み仏様のみこころが知りたくなり、仏教学を専攻したのだった。

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

「なん~だ!言葉がしゃべれる鹿さん見つからなかったんだ」
「みずほ!おめぇー、せっかくあすか先生がいい話しして下さったの、聞いてなかったのかよ?!」ついつい、ちどりの口も悪くなってしまった。
「聞いていたよ。み仏様は慈悲深いってことでしょ」
「まったく!」
「ちどりさん。いいのよ、人それぞれ個性があるから、世の中は面白いのよ。みずほさんだって、言葉がしゃべれる鹿さんのお話に興味があって“そんなお話が書けたらいいなー”って思っていたんじゃないかしら」
「さすが、あすか先生。でもすっごく参考になりました。言葉がしゃべれる鹿さんか…」SF小説の参考になると思ったみずほ深く感心した。そしてちどりは「仏教学って奥が深いのですね。私もお寺参りしてみようかな~」と言った。

「あっ!もうこんな時間だ。先生色々お話ありがとうございました」
 ちどりが時計を見てそう言った。
「そうね、じゃそろそろ出ましょうか」
「今日は、ありがとうございました」
 お礼を言うと、みずほたちは、おもむろに席を立った。それを見た剣は、マスターに声をかけた。
「マスター!いつまで夢見ているんだよ!お客さんお帰りだよ」
 あすかは、翼たちの方に足を運び、声をかけた。
「君たち、大淀教授にそそのかされて、私の講義、受けていたみたいだけれど、そんな余裕ないんじゃないの。ちゃんと勉強しないと、追試験になるわよ。では、お先に失礼するね。あっ!店長さん。もうお加減大丈夫ですか?今日はご馳走様でした。また、寄せていただきますね」
 そして、マスターにウィンクをした。
「・・・・・」
 翼たち三人は絶句し、マスターはぼう然としていた。ちどりは、ちょっぴり赤面したマスターを小突いた。我に返ったマスターは、あすかに一言「毎度ありがとう」そう言って頭を下げた。その言葉にちどりは言い放った。
「あすか先生は今日初めてのお客さんだよ。それって、おかしくねぇ?」
 みずほは、またまたちどりにとって訳のわからない行動に出た。なんと、彼らに「炊飯器!」と言って通り過ぎたのだ。ちどりはあ然としていたが、翼だけが突然吹き出し爆笑した。
「バッサン、なんなんだ?“炊飯器”って!」
 剣が尋ねたが、その意味にようやく気付いた燕が笑いながら答えた。
「“じゃー”って意味。つまり“炊飯器”=“ジャー”」
「なるほど!」
 剣は感心していたが、遅ればせながら気付いたちどりは、あまりにもバカバカしくて、思わず大笑いしてしまった。
「ちーちゃん、行くよ!」レジの方から、みずほの呼ぶ声がした。
 あすかは、あきに丁寧にお礼を言うと、みずほたちと共に『安眠』をあとにした。
 残された、翼たちはあの講義潜入がバレていたことを知り、話し出した。
「ひょっとしてあの教授にハメられた?」燕が言い出すと
「大淀教授が『文学部のあすか准教授の胸はデカい。男のロマンだ。一見の価値あり』なんて言うから、潜入を実行したんだぜ」
「きっと、あすか先生は、その事を知っていたんだよ。もしかしたらそれなりの仲だったりして」
翼が言い出した。
「それはまずい。大淀教授の野望を挫くためにも、ミス・パンプキンを守らなければならない!」 剣は少し慌てた。
「“ミス・パンプキン”かぁ!いい響きだ!」 翼は妙に感心していた。
「なぁなぁ。どうせなら、マスターにはもったいないけれど、いい夢を実現にさせてみようか。普段から世話になっているし。恩返ししないとなぁ」燕が言うと、翼も「確かにもったいない!いや確実にもったいない」
「でも、マスターの意見も聞かないと…。もし、松風嬢の方だったらまずいし…」
 剣は、あすかに若干の思い入れがあるのか、消極的だった。
「だけど、マスターはあすか先生の胸に抱かれたんだぜ。その責任はとってもらわないとね~」
 剣の思いを絶つために、翼が語気を強めて言ったので、剣も覚悟を決めた。
「しょうがない、とにかく本人に聞いてみるか。おーい!マスター!マスター!!なにボケーっとしてんだよ」
「あぁ?呼んだぁ?」
「単刀直入に聞く、マスターは、ミス・パンプキン、ぃゃあすか先生のこと、どう思う?」 剣が尋ねる。
「あすか先生って?誰?」
「マスターを抱きしめて介抱してくれた命の恩人だよ」 燕が言った。
「えぇっ!俺は何もしてない。神に誓って」マスターはそう言いながら赤面した。
「赤くなったということは…」翼が鋭く突っ込む。
「違う!違う!!誤解だ!」必死に弁解するが、さらに、燕がマスターを追い詰める。
「じゃー、髪の綺麗な“ちーちゃん”って娘か?そ・れ・と・も、メガネ女子?」
そして、しびれを切らした剣が一言。「男なら正直に言えよ!」
「あっハイ。今日、初めて来られたら、ピンクの方です…」
 マスターの回答を聞いて、翼と燕は「了解!」「幸運を祈る!」と言うと、成り行き気になるマスターは「なんとなく、いやな予感が…勘弁してくださいよ~ぅ」と唸った。
「なに弱気なこと言ってんだよ」
「ガンバレ!ガンバレ!」
「さて、マスターも生還したことだし、俺たちも帰りますか」そう言うと、翼たちも店をあとにした。

                    ※

 翌日、あすかは一人で『安眠』へ向かっていた。
 扉を開けると、レジにいたあやめが挨拶をした。
「いらっしゃいませ」
「あれ、昨日のお姉さまと違って、今日は可愛いお嬢様なのね。コーヒーいただきに入ってもいいかな?」
「はぁ。あっ、どうぞ」
「ありがとう」
 あすかはそう声をかけると、昨日と同じ席に座った。別のテーブル席には、常連の翼たちもいたが、話しに夢中であすかが来たことに気付いていなかった。席の座る人影を見たマスターは、すかさずお冷やを丸盆に乗せ、注文を聞きにやって来た。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
 しかし、そこにいたのが、あすかだとわかるとガチガチに緊張した。
「店長さん、昨日はご馳走様でした。お加減は如何かしら。今日は、店長さんお勧めの美味しいコーヒーとあのパンプキン・パイを下さい」
「コッ、コーヒーはブッ、ブレンドとス、ストレート、ど、どちらがよろしいですか?」
「では、飛び切り美味しいストレート・コーヒーをお願いしようかしら」
「お、お勧めのス、ストレート・コーヒーとパ、パンプキン・パイ、お持ちします」
 マスターはそう言うと、カウンターの方に向かった。ただ、歩き方が壊れかけたロボットのようで、右手右足が、続いて左手左足が同時にでていた。さらにその様子を翼たちに目撃されてしまった。彼らは“もしやミス・パンプキンが来ているのでは”とすぐさま感じた。
「なぁ、マスター、ガチガチじゃないか」 燕が呟くと、剣が答えた。「さては、ミス・パンプキンが来ているんじゃないの。ほらやっぱり来ているぜ」
「まぁこの際、マスターのためにも気付かないフリして見守ってあげようぜ」
 そう言ったのは翼だったが、剣は面白半分でこう言った。「おいおい、見守るって、人間ウォッチングってことか?」
「なるほど、意外と面白いかもよ」そう答えたのは、燕だった。

 しばらくしてマスターは、コーヒーとパンプキン・パイを、あすかの元に持って行った。
「お、お待たせしました。コ、コーヒーとパ、パンキプン?パイです」
「パンプキンですね。このコーヒー、香りがとっても良いですね。コーヒーの銘柄は?あっちょっと待って下さい。当ててみますね」そう言うと、あすかはコーヒーを一口含んだ。
「う~ん、なんだろう。ブラジル?」
「あっ、いいえ」
「キリマンジャロ?」
「違いますね」
 マスターの顔が少しほころんだ。
「えぇ~なんだろうなぁ。他に何がありましたっけ。UCCじゃなくてNestle。いやそれはインスタントだし。降参、正解を教えて下さい」
 そんなあすかの雰囲気に和まされたマスターは、いつしか緊張もほぐれにこやかに答えた。
「正解は、ブルーマウンテンです。お味は如何ですか?」
「とっても美味しいです。これがブルーマウンテンなんですね」
「ありがとうございます。では、ごゆっくり」そう言ってその場を離れた。よっぽど嬉しかったのだろう、顔つきがニマニマしている。しかし、万悪くと言うか、ウォッチングされている訳なので、翼たちに終始見られてしまっていた。
 剣は、気付かないふりして通り過ぎようとするマスターを、呼び止めた。焦ったマスターは、平静を装っていたが、見るからに動揺している。
「もしかして、ミス・パンプキンが来ているんじゃないの?」燕は白々しく言った。
「いゃ、まぁ…」
「何を動揺しているんだよ。お客さんで来ているだけなんだろうが」
「あぁ!そっ、そうそう。そうだよ。お客さんが来ているだけ」
「でも、チャンス到来。ガンバ!」
「あぁー」
 マスターは“まずい奴らに捕まったな~”と思い肩を落としてカウンターの奥に引っ込んだ。

 その後しばらく引っ込んだままのマスターに、痺れを切らした翼たちは、代わる代わる“アタックしろ”と目で合図したが、うまく視線をそらされてしまいイライラし出した。そんなとき、翼がこんなことを言い出した。
「いっそうのこと、ミス・パンプキンにマスターのことどう思うか尋ねてみようか?」
「おぉ、それはいいね~。でも、ミス・パンプキンなら彼氏いてもおかしくないよな~」燕も興味があり乗る気だった。
「だったら、その事は確認しておかないと、マスターいきなり失恋 ってことになるぜ」剣も話しに乗ってきた。
「愛のキューピッドの俺たちにとって大事仕事だからな」
「愛のキューピッドって柄じゃないが、悪くない話だな」
 そう言って三人は笑った。
 剣がおもむろに立ち上がると、あすかの方へ向かった。
「あすか先生、こんにちは」
「あら、剣くんだったわね。他のふたりは?」
「あっ、いますよ。向こうに」そう言われて、視線を向けると翼と燕が手を振っていた。
「あら本当。良かったらこちらに来たらいかが?」
「えっ!いいのですか?じゃー、お言葉に甘えてお邪魔しまーす。おーい!こっち座っていいってよ」
 剣がふたりを呼んだ。「ラッキー!」そして翼と燕は喜んだ。

「ケン!なんで、お前があすか先生の隣に座るんだよ!」
 燕は、あすかの隣に陣取った剣が気に入らなかったようだ。
「成り行き。成り行き。お前だって真正面に座っているじゃん」
「あっ!さては胸元…」
 悔し紛れに、燕はちゃちゃを入れる。そして、あわてて言い訳する剣。
「バ、バカ言え!俺は…」
 そんな彼らの下心を察知したあすかは「剣くん、余計なことすると、セクハラで…」と言った。
「し、しません。しません。しませんよ」
「翼くんも、燕くんもだよ」そう言われて燕は、また余計なことを言い出した。「滅相もない。それにコイツは大丈夫だと思いますよ。寧ろセクハラよりたちの悪い、未成年…、児童…」 翼はあわてて燕の口を塞いだ。
「俺は、ロリコンじゃねぃ!」と口走って、“しまった!”と思った。
「バッサン、自爆!」 喜んだのは燕だった。
「あなたたちって、本当に仲が良いのね」あすかはそう言って笑った。
「でもね。因果応報ってことわざ聞いたことあるでしょう。良いことをすれば、よい結果があり、悪いことをすれば、悪い結果があるということね。そしていつか必ずその報いは訪れるものなの。褒められたり、叱られたりするのはその報いかもね。でも往々にして意外な形に変化したものが、忘れた頃にやってくるのよね。だから気をつけた方がいいわよ」と、諭した。
「なるほど、叱られているうちが華ってことですね」翼が答えた。しかし、燕はよく解っていなかった。
「えっ?それってどういう意味??」
「つまり、悪いことをしたから、その報いとして叱られる訳で…ってあすか先生言っていたじゃん。聞いてなかったのか?」
「あっ!なるほど!」燕もやっと解ったようだ。
「あすか先生って博学ですね」剣がヨイショしたが「何言っているの。私はこれでも仏教学の講師なのよ」とあしらわれた。
「恐れ入りました」
「ところで、あすか先生ってめっちゃ、チャーミングでセクシーですね」
「あら、そう?でも、おだてても果報はないわよ」
「いえいえ、世の中の男性があすか先生に惹かれない訳がないでしょう~」
「もちろん、彼氏とかいるんですよね」などと、剣に続いて翼や燕も言った。
「えぇ?そう見える?ありがとう。パンプキン・パイならご馳走してあげてもいいわよ」
「いいえ、今日は遠慮しておきます」翼たちは、手を横に振った。
「そう。遠慮しなくていいのに。彼氏だけど残念ながら今はいないのよ。どちらかと言うと奥手なのかな。それとも男の人が私の魅力に気付いていないとか?」そう言って笑い声の絶えないあすかと翼たちが気になるマスターは、しきりにカウンター越しから覗き込んでいた。

「いらっしゃいませ」レジの方からあやめの声がした。
「あやめちゃん、今日も元気いいね~!」そう言って入って来たのは、北斗だった。
「若いから、元気だけが取り得ですからね」
「そんなことないよ!」などと話すと、喫茶室にやって来た。
 マスターは、“また厄介な奴が来た”と思い、見つかるまいと奥に引っ込んだ。
 北斗は、翼たちをすぐに見つけると寄って来た。
「おお!みんな盛り上がっているね~!3対1の合コンかい?」
「先輩!」
「あっ!こんちは!」
「お疲れ様です」
 翼たち三人は、かわるがわる挨拶した。
「ところで、この綺麗なお姉ちゃん誰?俺にも紹介しくれよ」
 あすかは、失礼な人だと思ったが「暁曙学園大学の講師の浅間あすかです」と名乗った。
「へぇ~。大学の教授さんかい。それにしても、オッパイデカいな」
 翼たち、少しあたふたしていたが、翼は腹をくくって言った。
「先輩。いくらなんでも失礼ですよ」
「そうか?いや、邪魔して悪かったな」
 北斗は意外にもあっさり引き下がった。そして、そそくさとカウンター席に向かった。
「すみません。失礼な先輩で」剣が謝ったが、あすかは気分を害しているようだった。
「うちの大学を卒業した先輩で…名前は国東北斗といいます」
「僕たちにとっては、いろいろ世話になっている先輩なので大目に見て下さい」
「お願いします」
 そんな翼たちの言葉に、あすかも納得したのか「わかったわ」と言った。ただ、どこかで聞き覚えのある名前だったので、ちょっと引っかかったが、深く考えないことにした。

 燕は場の雰囲気を変えようと尋ねた。
「あすか先生?ここのマスターのこと、どう思います?」
 その言葉は聞き耳を立てていたマスターにも届いたが、あまりの唐突だったため、思わず噴いてしまった。面を食らったのは北斗の方だった。
「おい!マスター大丈夫かい?ひょっとして風邪でも引いたのか?」
「いえいえ、大丈夫です。ちょっと、ちょっとね」
「変なんマスターだなぁ。まぁいつも変だけど。とりあえずいつもの、頼むわ」
「あっ、はい。畏まりました」
 北斗は“畏まりました”って、やっぱりおかしいと思った。

 一方、あすかの方は、唐突な質問に臆することなく答えた。
「マスターって、店長さんよね。面白い方ですね。生真面目で、純粋で、どこか抜けていて、でも憎めない。心の優しい方のように感じます」
「でも、照れ屋で、引っ込み思案で、かなりのマヌケですよ。あまりいいところないんじゃないですか?」 剣が言うと、打ち消すように「それはちがうわ。長所と短所は、表裏一体なのよ」
 その言葉に、翼と燕は驚いた。
「えっ?そうなんですか?」
「どうしてなんですか?」
「知りたい?」
「ハイ!教えてください」
「例えば、ガンコって言うと、欠点のように思えるでしよう」
「確かに、我がままみたいで、気難しそうです」
「でもね、視点を変えるとね、芯がブレないとか、自分自身の考えがしっかりしていると言えるよね」
「なるほど!」
「それに、ちょっと大げさかもしれないけれど、人間国宝とか、世間で認められた人たちってガンコな人が多いと思わないかしら」
「確かにそうですね。でも、照れ屋で、引っ込み思案で、マヌケってかなりの欠点じゃないですか」
 剣がさらに尋ねた。
 そうかな?私は、図々しい人より照れ屋で、引っ込み思案の人の方がいいわね。マヌケなところも愛嬌があるんじゃないかしら。あなたたちも店長さんのそう言うところが好きなのでしょう」
「まぁ、好きと言うか…憎めないですね」翼が言った。
「それに、このお店に入るとわかるような気がするのね。お店のコンセプトと言うか、雰囲気が人柄を物語っているように思えるのよ」
「どう言ったところに、マスターの心の内がこの店に現れているのですか?」今度は燕が尋ねた。
「そうね。まず外観だけれど、春のイメージで、子供の頃の遊び場的なお庭の感じかな。パンの販売コーナーは、夏のイメージで、若者たちの集いの場。そしてこの喫茶室は、秋のイメージで、大人の憩いの処と言う感じかしら。子供から大人あるいはお年寄りまで気に入っていただけるように考えて設計されているんじゃないかしら」
「なるほど、奥が深いんですね」
 翼たちはその洞察力に驚いた。
「まだまだあるわよ。コーヒーカップひとつ取ってもそうだし、シュガーポットではなく、今時珍しい角砂糖でしょう。それもバラの形で白とピンク」
「あすか先生、すごいですね。僕たちは何気なく心地いいからついつい来てしまうけど、それなりの理由があったんだ」
「それに、あすか先生の言う通り、マスターって人がいいよな~」
 三人は妙に納得した。
「あすか先生とマスターって、意外とお似合いのカップルになれるかもね」そう言い放った翼の言葉をさえぎるようにあすかは言った。
「ところで君たち、勉強はしているのかしら。明日か明後日に試験があるんじゃないかしら~」
「あっ、やべ~。完全に忘れていた。バッサン大丈夫かい?」燕が言い出した。
「ケンお前が『安眠』で試験の傾向と対策立てようなんて言うからだせ。はっきり言って俺もマジでヤバイぜ!」
「あすか先生に見惚れてしまって、何のためにここに来たか忘れていた。そろそろおいとまして、ちょっとでもやっておくか。あすか先生、有り難う御座いました。突然でありますが、失礼します」剣が言うと、あすかは「そう。ではお三人さん頑張ってね」と言いながら、ウィンクをした。
 翼は「ありがとうございました」と頭を下げたが、燕は下手なウィンクをしたため、あすかは吹いてしまった。とりあえず、手を振って彼らを見送った。
 翼たちは、北斗とマスターに挨拶をすると、レジのあやめに一言声をかけ、そそくさと『安眠』を後にした。

 あすかは静かになったころ、ため息をついた。そして、窓の外をぼんやり眺めていた。
「マスター!あの先生、なんかブルーな感じだね」北斗が言ったが、マスターは「ああ~」と言ったきりで、カップを洗っていた。
 しばらくすると、あすかはおもむろに立ち上がり、マスターに「ご馳走さま」と声をかけて扉の方に向かった。レジのところでは、あやめとしばらく談笑したあと、手を振って去って行った。