先日、母親の7回忌の法要のために

実家へ行ってきた。


実家といえば、3ヶ月前に

妹が隣市に引越しして以来

誰も住んでいない空き家になっている


法要は無事終わり

実家にみんなで寄ってみたら

人がほんの数ヶ月住んでいないだけで

やけに寂れて見えた。

ほんとに寂しいものであった。


これは経験した者でなければ分からない

なんとも言えない感覚であろう。


確かに家はあるのだが

人の呼吸がない家は

なんと物悲しく

さびれていくのだなとしみじみと感じた。


あそこに、家族の食卓があり

あそこで家族の生活があり

あそこに、祖父が寝てたなあとか

あの椅子に父親が居た

母が台所に立っていたなあとか

そこには、生活と暮らしが確かにあった

庭の倉庫をながめると、

ここが、洗濯物干の場所で

母が作業をしていたなあと

かつての影のようなものを感じた。


決していい思い出では無かったが

そこに、幼少期の私が確かにいたし

家の中で起こった歴史は

うすぼんやりと脳裏によみがえる。


実家が無くなるということは

良くも悪くも

自分の過去を失うような

そんな感覚に陥る


倉庫に無造作に置いてあった

錆びた古い壊れたオルゴールを見て

いずれはこれらガラクタも

処分しなければならないなあと考える


実家に帰る、とよく人は言うけれど

家ではなく、そこに生活する人の

輝きや、喜怒哀楽があってこその

実家なのだと感じる。


今、私のうちで、同居している

猫のらいちゃんは、

14年、この実家で育った。

彼は実家を恋しいと思うことがあるのだろうか

ここで、どんな風に過ごしていたのだろうか


猫に聞いてみても

わかりはしないが

彼の小さな脳みそには、

14年の暮らしが残っているのだろう。


昔実家に帰るたびに

のそりのそりと、実家の床を歩いていた

らいちゃんを思い出す。


君は幸せだったかい?

今は、幸せかい?


そんなことを猫にたずねても

知らんにゃー、と彼は応えるかもね