今回は子ども時代からの
暗黒を振り返ってます。
今までも端々に少し書いてましたが
まとめてみました。


ただ書きたくなっただけなので
暗くて重くて長いので
ここでスルーしていただいて
大丈夫です👌

(後でこっそり消すかも)




ではスタート




私には姉がいます。
緘黙症だったと思います。
受診したことはないので
分かりませんが。

子どもの頃から友人がおらず
近寄ってくる子からも
逃げていました。
学校で見かける姉は
いつも1人でした。
学校の成績は良かったので、
親はそれが自慢でした。
顔も美人で細くて、
不細工で太っていた私は
昔から比べられて
卑下されていました。

姉の就職先は家の近くだったので
姉が道を歩いていた後に
社内の人達が
「全然笑わない人」で有名だと
陰口を言っているのが
聞こえました。
7年がんばっていましたが、
朝礼に出ないことで
退職させられました。
その後、
父の姉に対する暴力と暴言が
エスカレートしていきました。
父は姉の部屋に押し入り、
殴り「死ね」と叫んでいました。

母は昔から
父からの暴力で
青アザが絶えない毎日が
続いていました。
なので父の暴力には無言でした。
母はアル中の祖父からも
虐待されて育ったそうで
そういうものだと
思っているのかもしれません。

姉は父からの暴力を避けるために
バイトに行ったりしましたが、
コミュニケーションが
取れないので続きませんでした。
そして親から
無理に結婚させられそうになり、
姉の精神状態は
おかしくなりました。

今は父が亡くなってから24年、
一度も働かずに実家にいます。
父が居なくなって、
姉にとって
やっと幸せな世界になったのだと
私は口出しすることはないです。

誰も目を見て
会話をしない家族でした。

私も幼い頃から
暴力を受けていました。
むしろ私は姉より
殴られていました。
いきなり殴り飛ばされて、
床に転がり天井を見ている状態。

その日も
私が父の理不尽な一歩的な
怒りに対して
「ごめんなさい」と言うまで、
馬乗りになり腕を捻じ上げ、
骨を折ろうとしていました。
母から
「お願いだから謝りなさい」
と懇願され、謝ったことが
「暴力に屈した自分」
という悔しさでいっぱいに
なりました。
身体の痛みより、
精神的な痛みが強かったです。

「女と子どもが力で
ねじ伏せられるのは
間違っている」
「こいつを絶対見返してやる」
「私は正しい」
それがその後の私の人生の目的に
なっていきました。
(今はようやく
それから解放されつつあります)

一度、小学校に提出する日記に
父の暴力について書きました。
教師は母に本当のことか
聞いたそうです。
母からは「家の恥を他人に話すな」と怒られました。
教師には、その日だけ
殴られたと伝えました。
世の中の子は、
こんなふうに殴られて
いないんだなと確信したと同時に、
教師の安心した顔を見て、
この世界に助けてくれる人は
いないのだと悟り
以来大人になるまで、
父の暴力を他人に話すことは
ありませんでした。

父は私の名前ではなく、
アレルギー性皮膚炎で
汚くなった私を「ガニ」と呼び
学力の低い高校に行ったら、
その高校名で私を呼ぶ人でした。
「隣近所に恥ずかしい」
「近寄るな」と。

私はコミュニケーションの仕方を
外の社会で勉強しました。
でもたくさん失敗しました。
躁鬱、自己嫌悪、承認欲求が強く
突然不機嫌になったりしました。
時々消えて無くなりたい、
底知れない恐怖が襲ってきました。
ここがどこか分からなくなる
ような離人感もありました。
友人達はよく付き合ってくれた
と思います。

高校を侮辱された悔しさから
勉強をしたので大学は
父の自尊心を満たしたらしく
大学生からは私への
暴力はなくなりました。
父は中卒から働いていたので
学歴コンプレックスが
酷かったようです。
学校へ行くお金は惜しまず
出してくれたことは
感謝しています。

結婚して遠方へ行くと決まると
「親を見捨てる気か」
「親の死に目に会えなくていいのか」
と言ってきました。

そして父がガンになると
実家へ呼び戻されました。
姉の症状もおかしくなって
いたので
見捨てることは、人として
やってはいけないこと
なんだろうと。

私が結婚したせいで
あの家の道化役が居なくなって
姉への虐待が酷くなって
父も病気になったのだと
自分のやったことの顛末を
自分で責任を取るように
天から言われているようでした。

父の望み通り
最期の時はすぐ横にいました。
穏やかな最期とは程遠く
その後何度か夢でうなされました。

父の死より
愛鳥の死の方が辛い自分が
人として欠けている気がしました。
(父に飼っていた猫も捨てられ、
父がインコを外に出して
野良猫に食べられたことも
あったなぁ)

子どもが生まれて
2歳を過ぎる頃から
反抗期が始めると
我慢していた子ども時代の私が
心の中でうずき、
自分はこのくらい我慢したのに
なんでこの子は我慢しないのか
許せなくて、叩きたくなって
苦しくて
全然かわいく思えなくて
カウンセリングや
暴力防止運動のセミナーや
自助グループに参加して
なんとか良い親になろうと
努力しては、失敗して
どうしようもなくて落ち込む
ことの繰り返しでした。

上の子の癇癪は
かなりひどかったので
ADHDのグレーゾーンだった
かもしれません。

下の子は、上の子と正反対で
大人しくてニコニコしてて
穏やかで、みんなに好かれる子
でした。
私もあんなに悩んだ子育てが
こんなにスムーズにできることに
驚きながら、下の子が
かわいくて仕方なかったです。

それは上の子に伝わり
ますます癇癪がひどくなって
いきましたが
小学校5年生位で
落ち着いてきました。
私が出来る母親になるより
子どもの成長が早かったです。

そうしているうちに
下の子は小学5年生で不登校
になりました。
私は暴力防止運動で勉強して
いたこともあり
当初は病院へも通院しましたが
無理に学校へ行くことより
家で安心してもらえることを
優先しました。
母からは
「そんなんで良いと思ってるの?」と叱責されました。
何回も言われるので
「お姉ちゃんはどうなん?」と
言い返したら
「お姉ちゃんはちゃんと
学校は行ってたから」
と言われました。
やっぱり母も、
姉がどんな思いで学校に
行ってたのか、
理解できないんだなと、
一生分かり合えない
大きな壁を感じました。

私の半分でも姉に社交性が
あったらと言っていた母です。
半分も渡したら
生きていけないんだけどって
いう状態の私のことなんて
分からなかったんだろうね。


下の子は不登校のまま
通信制高校へ進学しました。

下の子が18才の時、
私は乳がんになり抗がん剤を
していました。

その時に自ら
「発達障害だと思うから
病院へ行きたい」
と言ってきた時は
晴天のヘキレキとは
こういうことかと思いました。
結果はASDでした。
ADHDはボーダーラインでした。
同時期に難病も発症しました。

私は子どもをちゃんと見て
いなかったんだと
目をそらし続けてきたのだと
思いました。

父は自分の怒りで
ガンになったと思っていましたが
父より12年早くガンになった
自分にもショックでした。

子ども時代の
「消えてしまいたい」
という思いを消すために
忙しくして
あまり感情を感じないように
生活してきたんだけど
「消えてしまいたい」気持ちに
身体は答えてくれてたのかとも
思いました。
(でもちゃんと治療して
生きるけどね‼️)

そして
家庭を見ていなかった自分が
子どもの病気にも
気づかずにいたということ。

(そして発達障害は
父から受け継いだ
私の遺伝子かもしれないと
いうこと

この症状で発達障害なら
姉もそうだったんだと
父もそうだと思うし

子どもの難病も父方の
遺伝子が濃厚

でも医学の進歩を信じる!)

でもきっと
子どもと向かい合ってたら
私のエネルギーが子どもに
向かってたら
父のように子どもを
潰していたと思うから
エネルギーが
仕事へ向かったのは
良かったと思います。

子どもは自分の手駒じゃない
自分の身代わりじゃない

「生まれた時から意志を持った人間」

という信念だけは貫いて
育ててきました。

長々と
ここまで読んでくださった方
ありがとうございます。

この生まれた時からという
信念については
またいつかの機会に
書くかもしれません。

こんなこと書いてるけど
母とも姉とも良い関係です。
彼等の優しさで
ずいぶん助けてもらいました。
父の弱さも理解はできます。
でもこういう行動をする人が
世界から無くなればいいと
思います。

(スピですが
今生の使命の一つが
実家の家系の根絶らしいです。
これからの時代には
淘汰される側の家系だったそう。
私でなければ生き抜くことは
難しかっただろうと
言われました。
私的には暴力の思想を根絶して
子孫に引き継がないこと
だと思ってます)

怒りの責任は他者ではなく
自分にある。
自分の怒りの奥には何があるか
人は学習することで
自分を変えることができる。

明日も良い日でありますように。