いわゆる高齢者は、社会のお荷物的存在のように扱っている節が多々見られる。

 

身動きが取れなくなれば人のお世話にならなければならないが、普通に生活できるのであれば「お荷物」扱いを受ける筋合いはないと断言できる。

 

 

むしろ潜在的な社会への貢献度は、高齢者の方が高いと見るべきなのだ。

 

長く生きて来た分、世のため人のために与えるものを数多く持っているからである。

 

 

それは様々な経験であったり、豊富な知識であったりするし、更には、人とのやり取りから得られた人間的な深みであったりする。

 

 

 

老人を世話する対象とする発想から抜け出して意識を変え、老人を生かす社会へと世の仕組みを変えていかなければならない。

 

現在、30代40代の人たちと対等に渡り合っているからこそ、そう強く思うのである。

 

 

 

もっとも社会の変化を待つまでもなく、自ら機会があれば出かけて行って現場をよく観察して、少々建設的な発言をするだけでも何かの役に立っている場合がある。

 

そして天の声かと思えるような一声が降りて来て、新たに現役の世界と関わりを持つに至ることもある。

 

 

自分を振り返ってわかったのは、歳を重ねるたびに何かを得ようとする気持ちは薄れ、世の役に立ちたい、社会にお返しできるものはないかと思うものなのである。

 

 

もし、それと社会の要請とが一致すれば大仕事が待っていたりするものである。

 

 

特に人間関係の面では、ある程度の余裕を持って接するのが容易なので、

 

これまで閉塞感のあった職場の雰囲気がガラッと変わり、大変な仕事と言われていたものが幸運をもたらしてくれたりもする。

 

 

ふと、人間ってこんなにも面白いものなのか、と距離を置いて自分たちを眺められるひとときもある。

 

 

 

馬渕睦夫著「道標(みちしるべ)~日本人として生きる」

より、印象に残ったところの紹介①


「70歳までは人生の準備期間」という文言が目に入り、思わずほっとする自分がいた。

 

 

立ち止まって考えてみれば、齢を重ねるごとになぜか焦りのようなものを感じていたように思う。

 

何か結果を出していなければいけない歳になっているのに、何も出せていない自分に対しての焦りだったのかも知れない。

 

 

ひょっとすると、いくつになっても準備期間のままで人生が終わってしまうかも知れないが、それならそれでいいではないかと開き直りたくなる。

 

人生の大半が準備期間であるのだから、全てがそうであってもあまり大差ないような気がする。

 

自分に都合の良い解釈が必要なときもあるものなのだ。

 

 

 

では、この準備期間をどういう風に過ごして行けばいいのか?

 

そう考えて行く方が、ずっと前向きではないか。闇雲に結果を出そうと焦るより、はるかに建設的な選択のような気がする。

 

 

この年歳になってまだ結果が出せていないということは、この人生をはじめから準備期間として想定して生まれたのかも知れないのだから。

 

もちろん準備期間だからといって、いい加減な気持ちでとり組むのであれば先が見えてくるから注意しなければいけない。

 

 

「少子高齢化」という問題をよく耳にするが、この本の著者、馬渕さんはこう述べられている。

 

「高齢化社会というのは、いよいよ創造の時代を迎えた人が日本に増える」ので、むしろ喜ばしいことだという。

 

 

 

創造の時代とは、与えることに生きがいを見い出す時代と置き換えてもいいのではないか。

 

 

高齢化社会における諸問題に対する姿勢は、これまでの経験を全て肯定的にとらえて、新たな問題や課題に真正面から向き合うこと。

 

更に、あらゆる可能性を常に念頭におきながら解決策を模索し、些細なことも見逃さず糸口を見い出すまであきらめないことなどが求めらる。

 

 

 

個人的な対人関係や組織内の人間関係においては、どのような人のどんな意見も分け隔てなく受け止める度量の広さ、

 

 

取り入れられるものは取り入れて行く柔軟性、相違点よりも一致点を探し求める融和の精神なども必要ではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

自分の不徳のいたすところなのは明らかなのだが、それにしても不甲斐ない。

 

今回の選挙投票日において、よりはっきりとわかったのは世界と日本の戦前・戦後の歴史を学んで来たというのに自己満足で何もかも済ませていたということだった。

 

 

 

普段から自分が知った事実などをきちんと整理して、まずは家族内でシェアするように努めるのが大切であった。

 

これは日本の社会全般に言えると思うが、政治に関する話は家庭内であっても無意識にタブー視して来た。

 

親しい友人間でも政治的な発言をしようものなら、たちまち白けた状態になってしまうものだ。

 

 

 

未だに戦後のGHQによる言論統制に私たち日本人は縛られたままでいるに他ならない。

 

つまりGHQ政策等に対する批判をいっさい禁止したことに由来する。

 

それから七十年以上も経つというのに、我々は従順な日本人を演じ続けている。

 

 

 

その結果が今度の参議院選挙にも現れているではないか。

 

大半の国民は政府不支持に傾いていたのに、長くその党の看板であった安倍氏が不幸に見舞われると、途端に自民党に楯突くことが出来なくなり信任を与える行動へ走った。

 

 

 

急激な物価高に見舞われているにもかかわらず、背けない体質を内に秘めている私たちは今後、どのようにこの難局を乗り越えていけば良いのか。

 

しかし、これらはまだ序の口であってこの先、更なる困難が待ち受けていると予測する言論人もいる。

 

 

国民が破れかぶれに陥ってしまいかねない現在、DNAに刻まれた日本古来の精神と生き方に立ち戻らなくては取り返しがつかなくなるかもしれない。

 

 

 

参議院選挙の投票日を迎えた。事件から2日が経つのに、心の平静さが戻ってこない。

 

たぶん多くの人たちも同じ思いなのだろうか、と思ったりもする。

 

 

しかし、過去の出来事をいくら振り返っても後戻り出来ないのだから、これからのことに目を向けなければと思い直す。

 

選挙結果が予期しない内容であったとしても、動じない強さを持ちたい。

 

 

最悪の結果であってもそうでなくとも、一喜一憂のブレは最小限に止めたいものだ。

 

 

 

今回のような理不尽な出来事が起こり、大きな節目の時を迎えるたびに、つくづく思うところがある。

 

 

それは、誰一人として自分の意思に反して行動する人はいないということ。

 

自分はそれが正しいと信じて、あるいは正しいであろうと思って、人は選択し行っている。

 

 

つまり、そうすると決めたのは常に自分であって、当然その責任も負わなければならない。

 

「自分が蒔いた種は、自分で刈り取る」ことになるという厳然たる真実を思い起こすのである。

 

 

 

だから、いつも自分の行為に全責任を持つ覚悟で対処すべきであって、人の行為をとやかく言う筋合いではない。

 

本来なら、起こった出来事を白黒付けずに受け止めることしか、我々には出来ないはずなのだ。

 

 

誰が良いとか悪いとか、そういうことばかりにこだわっている間は何も始まらない。

 

元々、前に進むしか道はないのだから、自分もそう受け留めるべきなのだ。

 

 

そうこうする内に、やっと内面のざわつきがだいぶ静まって来たように思う。

 

 

 

参議院選挙の投票日の、二日前に衝撃的な事件が起こった、このタイミングを考えないわけには行かない。

 

我々有権者に心理的な動揺を与えて、冷静な判断をさせない意図が含まれているような気がする。

 

 

普通に考えて、この突然の事件で利益を得るのは誰なのか。

 

日本独特のいわゆる同情票というものが生まれ、深く考えない人たちは単純に今の自民党に票を入れる可能性がある。

 

なぜなら安倍元総理に入れるつもりで、所属していた自民党に投票するしかないからである。

 

 

 

生前の安倍さんの提言をことごとく無視し、安倍さんの影響力を排除して来たのは岸田総理であり、その内閣を助ける結果になってしまうのだ。

 

 

もっとも賢明な国民であるなら、そんな愚かな行為はしないはずなので、従来ほどに同情票は集まらないであろう。

 

 

 

もっと別の角度でも、この事件で得するのは誰かを考えてみよう。

 

近年、特に安倍さんが強調していたのが、日本の安全保障の問題であった。

 

 

その中でも防衛費の2%達成の必要性を力説されていたのが印象的である。

 

ウクライナ以上に危うい状態である日本のことや、中国やロシア、北朝鮮など隣国の脅威が増している現実を指摘されていた。

 

 

そこまで考えれば、安倍さんがいなくなることで得をするのは、日本を敵視する周辺国政府と言えるし、

 

また防衛費を増やしたくない財務省とその意向に沿った政策をとる岸田政権である。

 

 

 

こうして見ると今回の痛ましい事件で有利な状況を手にするのは間違いなく、選挙前に支持率が急落していた岸田政権だとわかって来る。