上島嘉郎氏著「反日メディアの正体」より要約や印象に残ったところの紹介⑧

 


多くのマスメディアは「敗者の戦後」を永続させようとして機能してきたことがうかがえる。


この「敗者の戦後」下で育った多くの人たちが社会人になり、その中から新聞社や出版社、放送局に就職する人たちもいることであろう。

 

 

彼らの基本的な思想や思考構造は、どうなっているのか。

残念ながら「敗者の戦後」を支える側に与することは想像に難くない。


 

これは何もメディアの世界に限らず、学問の世界でも政界や経済界、官僚の世界でも同じことが起こっており、世代交代をしても解消されずに再生産されていくのである。

 

 


日本を二度と立ち上がらせない米国の政策的な意図で作り上げられた「敗者の戦後」下で、長い歳月を過ごしてきた日本の行き着く先は、どういったものになっているだろうか。

 


自ら「日本」的なものをことごとく否定して、そこに共産主義やグローバリズムが入り込み、日本が歴史的に培ってきた価値などがどんどん希薄になっていき、やがては「日本」そのものもなくなっているかもしれないのである。

 

 


いまの日本人は、自分たちを育んでくれた「日本」を中心には考えられなくなっている。

 

もしも「日本」を全面に打ち出そうものなら自己本位だと言われ兼ねないし、他の国も同等に扱うべきだと強要する人たちも少なくない。

 


しかし、そういう人たちに問いたい。自国でさえも敬えない人が、どうして他国を同等に敬えるであろうかと。

 

 


1991年にソ連が崩壊した後、共産主義への警戒心を解いてしまったのは、「保守派」と呼ばれる人たちの大きな誤りであった。

 

一方、「左翼進歩派」と称する人たちは「保守派」の油断を突いて、マルクス主義から「人権擁護」とか「環境保護」、「男女平等」といった衣装に代えて、巧妙に自分たちの影響力を社会へ浸透させていったのである。

 

 


ここで注意が必要なのは主張されている内容が、あたかも人類普遍の理想に見えながらも実は日本をおとしめ続ける「反日」思想だということである。

 

そこには全く「日本」というものがない。

 

「反日」思想には一見、人類の理想を語っているようだが、実際には日本の国力や日本人の力を削ぐ方向に機能するのである。

 


GHQに強制された検閲と情報統制の結果として、日本人に向けられた「思想改造」は、いつの間にか「自ら望んだこと」と思わされてしまっている。

 

そこに気づけるかどうかが、これからの「日本」の行く末を決める、とても重要な視点であるような気がする。