『百日紅~Miss HOKUSAI~』を観てきた。

葛飾北斎に娘がいるなんて知らなかった。
なんとなく、一人で生きた人というイメージがあったので。
この『百日紅』ではその娘、お栄が主人公。

時代は江戸時代。
場所は江戸。
幕府はどうだか知らないけれど、庶民にとってはちょっとした太平の世だったのかもしれない。
当時の江戸は、世界で一番の人口密度を誇る街だった。それこそ猫の額に人が群れ、集まり、生活していた。それでもスラム化することもなく、都市システムを維持していた。
そんな地盤で、娯楽が発達しないと言ったら、そりゃ嘘だ。
人は退屈を嫌う。脳の基本欲求なのだ。必ず文化が発生する。
北斎の絵もそんな文化の一つだ。

映画の中では、恋愛情事からオカルトまで幅広い話題が扱われる。中でも大きく扱われているのが、北斎の末娘でお栄の妹、お猶との物語だ。
彼女は先天的な盲目だった。身体も弱かった。
父として北斎は、彼女に対して申し訳が立たない、と思っていたのかもしれない。寂しいとも。
自分から積極的に彼女に会いに行かない。自分の生業を見せてやれない辛さ。自分の生業と、それに対する娘のアイロニカルな倒錯した病との間の自身の居心地の悪さ。
お栄はお猶に世間を体験させる。北斎とは逆にどんどん接していく。
だけど、それも妹に対してのある種の負目の贖罪行為とも取れる。

ひょっとしたら、自分の絵がお猶の眼を奪ってしまったんじゃないだろうか?

そんな考えが浮かんだんじゃないだろうか。
北斎もお栄も、粗野な生活を続けているし、信心深いという事でもないけれども、超自然的な現象や事柄を受け入れる人だったようだ。
お猶の眼は、自分たちの業の結果なのではないだろうか。と考えを展開させていても変ではない。

お猶の死を告げるように部屋を貫く突風。
北斎が「一人で来れたじゃねぇか」と、畳に落ちた一輪の花に呟く。
劇中で北斎が彼女を褒めるのは、それ一度だけだ。

北斎が90まで生きて数年後からは、お栄がどんな人生を過ごしたかは分かっていないらしい。
どうやら、器量も良くはなかったらしいし、消息が分からなくなったのは「一人で住むにはこの部屋は広すぎる」とかなんとかよく分からない理由だったんじゃないだろうか。

人の生きた証なんて10年もすれば半分に、もう10年も経てばその1/10になってしまう。100年以上も経ってしまえば、分からないのが当たり前なのだ。
これだけ残っているだけでも凄い事だ。

お栄はどこかで絵を描きながら死んでいったんだと思う。
北斎の娘として。
葛飾応為として。
「親父は無くとも、筆一本、箸が二本あれば、どこへ転んだって食っていくさ」
と言いながら。