DROP KICK -5ページ目
危険から守り給えと祈るのではなく、
危険と勇敢に立ち向かえますように。

痛みが鎮まることを乞うのではなく、
痛みに打ち克つ心を乞えますように。

人生という戦場で味方をさがすのではなく、
自分自身の力を見いだせますように。

不安と怖れの下で救済を切望するのではなく、
自由を勝ち取るために耐える心を願えますように。

成功のなかにのみあなたの恵みを感じるような
卑怯者ではなく、失意のときにこそ、
あなたの御手に握られていることに気づけますように。

Let me not pray to be sheltered from dangers
but to be fearless in facing them.

Let me not beg for the stilling of my pain
but for the heart to conquer it.

Let me not look for allies in life's battlefield
but to my own strength.

Let me not crave in anxious fear to be saved
but hope for the patience to win my freedom.

Grant me that I may not be a coward,
feeling your mercy in my success alone;
but let me find the grasp of your hand in my failure.

excerpted from Rabindranath Tagore,"FRUIT-GATHERING"

ラグビーの試合中、対戦相手のエースをめがけてパントを上げて、なだれこみ、倒し、ボールがそこにあれば合法的に相手の頭めがけて突っ込むことはできる。しかし、その時、思わず、力を少し緩めている。「合法(ジャスト)」より上位の「きれい(フェア)」を優先したくなるからだ。生きるか死ぬかの気持ちで長期にわたって努力し、いざ臨んだ闘争の場にあって、なお、この境地を知る者を育てる。それがラグビーだ。


「スポーツをやっとる時には、二律背反の、ええことと悪いことの選択を迫られる場に必ずおかれるんです。その時に、自分の意思でいいほうに選択していく。これがフェアであります。すでに決まっておるある基準によって決めるんじゃなしに、自分で決める」

「ルールに従っとるのがフェアだという人がありますが、そんなもんフェアじゃありません。ルールは人間が作ったものであります。だからそれによって善悪を決めるのはジャスティスのジャストであります」


戦争も、戦時下の人権弾圧も、いつだって合法的に行われる。「戦陣訓」というルールに従えば、強制的集団自決も「玉砕」と美化された。その「汚さ」の気配を察し、抵抗していく。それはパントで激しく厳しく闘争的になだれこみながら、合法であろうとも相手の頭は傷つけないという「情緒のコントロール」ができる者にのみ可能だ。

「権力者が戦争のほうに進んでいく場合には、われわれは断固として、命をかけてもそのソシアル・フォーセス(闘争の倫理を知る者による社会の基礎集団)を使って落として行かないと。


大西鐵之祐さんには苛烈な戦場体験がある。「人も殺しましたし、捕虜をぶん殴りもしました」。そうなったら、つまり、いったん戦争になったら「人間はもうだめだということを感じました。そこに遭遇した二人の人間や敵対する者の間には、ひとつも個人的な恨みはないんです。向こうが撃ってきよるし、死んじまうのはいやだから撃っていくというだけのことで」。だから、そうなる前に抵抗するのだ。


大西鐵之祐

選手によく話すんですけど、究極のエンジョイってのは、自分の責任でリスクを冒すことだと。要するに、監督が「ここだ」と行ってる。でも「オレはここだ」。これで成功した時にこんなに楽しいことはないんですよ。

だからギャンブルでね、自分のなけなしの金で賭けてるから、無くなったら大変だ!勝ったらこれで何を買おうかという喜びがあるわけですよね。スポーツはお金賭けないでできるギャンブル。そこが本当の楽しみなはず。最高に面白いところだぞ、ここはと。

言われたことをこなすだけじゃ面白くもクソもないだろうという言い方をするんですけど、でもリスクを冒して失敗したらオレは怒るぞと。怒るかもしれないと言いますけどね。だからリスクなんですよ、怒られるからリスク。「リスクを冒して失敗しても褒めよう」なんてそれはリスクじゃなくなるんですよ、それは。

骨肉種の為に右足を膝から下で切断、のちに悪性腫瘍が転移したことにより31歳でこの世を去った医師が

2歳の娘とこれから生まれる娘へ綴った



あたりまえ

こんな素晴らしい事をみんなは何故、喜ばないのでしょう
あたりまえである事を
お父さんがいる
お母さんがいる
手が2本あって、足が2本ある
行きたい所へ自分で歩いてゆける
手を伸ばせば何でもとれる
音が聞こえて声がでる
こんな幸せはあるでしょうか
しかし誰もそれを喜ばない
あたりまえだと笑って済ます
食事が食べられる
夜になると、ちゃんと眠れ、そして又朝が来る
空気を胸いっぱいに吸える
笑える、泣ける、叫ぶ事ができる
走りまわれる
みんな、あたりまえのこと
こんな、素晴らしい事を、みんなは決して喜ばない
そのありがたさを知っているのは
それを無くした人達だけ
何故でしょう

あたりまえ

「夢と希望の違いは、と訊かれた。人生は未知の海に出るようなもの。今は凪いでいてもいつ時化になるかわからない。そんなとき、心の羅針盤が支えになり、航路を築いてくれる。その心の羅針盤を夢と言い、それが築いた航路を照らす心の灯火を希望というのである、と答えた。夢と希望は人生の両輪です。
「今やっていること、今日やっていることに全力をつくすことが正解とわかっているのに、これは軽くやってあとのあれをしっかりやろうとか、今日はほどほどにして明日やることに精魂傾けようとか考えている自分に愕然とすることがあります。今きちっとやらなければあとも明日もないはずなのに。

「今の若者は生き上手である。気がついたときにはほどほどのところにおさまって涼しい顔をしている。カネをかけずに愉しむ術も心得ている。でも、長期的に見るとこれは不幸である。辛酸を嘗めずして人生の醍醐味を知ることはできないだろう。つまり、生きることの素晴らしさを味わえないかも知れない」

「幸せってなんですか、と小学生に訊かれて答に窮した。今、それが欲しいの、と訊き返したら、考えたこともないです、と強く首を振った。それが幸せなんだよ、と答えたら納得した。不幸に陥ったとき、幸せが欲しいと強く願う。幸せに限らず何かを享受していてそれに気づかない状態がいちばんである。

「今の時分はなんの迷いもなく生きている、と思ったことが、過去、何度かある。そして、その時期を振り返ってみると、何も成長していなかったことがわかる。いい気になって求めることをしなかつたからである。実は失意のときに大きな転機がやってくる。そのときは真剣に必死に求めるからである。