闘争の倫理 | DROP KICK

ラグビーの試合中、対戦相手のエースをめがけてパントを上げて、なだれこみ、倒し、ボールがそこにあれば合法的に相手の頭めがけて突っ込むことはできる。しかし、その時、思わず、力を少し緩めている。「合法(ジャスト)」より上位の「きれい(フェア)」を優先したくなるからだ。生きるか死ぬかの気持ちで長期にわたって努力し、いざ臨んだ闘争の場にあって、なお、この境地を知る者を育てる。それがラグビーだ。


「スポーツをやっとる時には、二律背反の、ええことと悪いことの選択を迫られる場に必ずおかれるんです。その時に、自分の意思でいいほうに選択していく。これがフェアであります。すでに決まっておるある基準によって決めるんじゃなしに、自分で決める」

「ルールに従っとるのがフェアだという人がありますが、そんなもんフェアじゃありません。ルールは人間が作ったものであります。だからそれによって善悪を決めるのはジャスティスのジャストであります」


戦争も、戦時下の人権弾圧も、いつだって合法的に行われる。「戦陣訓」というルールに従えば、強制的集団自決も「玉砕」と美化された。その「汚さ」の気配を察し、抵抗していく。それはパントで激しく厳しく闘争的になだれこみながら、合法であろうとも相手の頭は傷つけないという「情緒のコントロール」ができる者にのみ可能だ。

「権力者が戦争のほうに進んでいく場合には、われわれは断固として、命をかけてもそのソシアル・フォーセス(闘争の倫理を知る者による社会の基礎集団)を使って落として行かないと。


大西鐵之祐さんには苛烈な戦場体験がある。「人も殺しましたし、捕虜をぶん殴りもしました」。そうなったら、つまり、いったん戦争になったら「人間はもうだめだということを感じました。そこに遭遇した二人の人間や敵対する者の間には、ひとつも個人的な恨みはないんです。向こうが撃ってきよるし、死んじまうのはいやだから撃っていくというだけのことで」。だから、そうなる前に抵抗するのだ。


大西鐵之祐