以前から思っていたことですが、災害支援の募金に、どうして小銭を入れるのでしょう。自分が被災しなかったことを思ったら、もし被災したらと思ったら、一万円なんて負担とすらいえません。被災したとして、もし10万円出せば被災しなかったことにするなら、迷いなく10万円でも100万円でも出すと思うのです。東日本大震災の時、職場の募金袋に黙って万円札を入れたら、冗談交じりではありますが、「他の人のことも考えろよ」というようなことをいわれました。今日もテレビで、5円だか10円だかを募金箱に入れていました。無論その行為は善意には違いありませんが、申し訳なくも素直に頷くことができません。被災の程度とその供出の額に、天文学的な格差があるからです。

 災害募金だけではありません。様々な募金を職場で半ば強制的に割り当てられるのには閉口しますが、その金額は数百円と、まるで広い砂浜の砂粒のごとき少額です。マスコミは、数十円を寄付して何かをしたような感じになっている人を取材して、その善意を掘り出します。募金は、様々な分野で恵まれない方に恵まれた人からの善意の供出だと思うのですが、その実態は、善意といえるかどうか危ういほどの、ほとんどあるかないかわからないようなレベルのもののように思われます。

 

 人は、人の不幸に対して、数千円すら出すことを惜しむのです。思いやりや協力などと立派なことをいっていても、その程度のことしかできないのです。その程度しか他人の現状を思いやれないのです。数千円、数万円なかったからといって明日あさっての生活に困るわけでもないのに、できないのです。そんなことは想定の範囲外です。一方で、年始のさい銭箱には、千円札や万円札が飛び交います。人は、自分のことになれば、神頼みなどという非現実的なものにさえ、それがいくらでも出せるのです。

 

 これが、人間です。非難したいわけではありませんが、現実から目を背けることはできません。原則として、人は、人を思いやれないのです。我々は、その意味で、避けて通れぬ十字架を背負っているといわなければならないでしょう。

 

 子供のため、という言葉は、いかにも嘘くさい。それは、本人の率直な感情であるのかもしれないが、子供を隠れ蓑にして、自分の一番大切なものを守りたいという、いわば自己中心的な自我というべきものをさらけ出し、かつ、正当化しているようにみえるからだ。それならそうと言えばいいのに、そうはせず、自分の欲を隠そうとする。それが、ミエミエであるにもかかわらずだ。そこに、誰にも反論できない「子供」を持ち出すところが、汚いと思う。

 また、何年かぶりにドクターコトーを見ている。中島みゆきはメロディメーカーとして、天才だ。途中から始まるような思わせぶりな開始から、僕のキライな転調を完璧に操って長調へ転じ、伸ばしに伸ばしてやっとのことで最後のサビにたどり着く。そこまでの、すべてのフレーズが絶対に必要で、最初からそこにあるべきものであったように、完全なメロディラインを創造した。前にも同じことを思ったが、こんなことができるのは、彼女だけだろう。

 先週の後半は、三日ほど夜歩いて帰るにも頭が痛くなりそうな寒さだったのに、昨日は一転して雨が降り、明日からまた大雪の予報が出ています。なんだかよくわかりませんが、今頃になって寒気が噴き出している感じがします。断末魔の叫びのようなものなのでしょう。どうにもならないので、じっと待つしかないのですが。

 そう。書きたいことを忘れていました。少し重い話なので、またにします。寒いので。

 大体、土曜日はまだ快復していない。仕事に行っても、まだ無になって集中することができない。ふっと息をつくのは日曜日の朝からだ。やはり一日仕事をせずそのまま寝ないと、本当の快復にはならないようだ。しかし、まったく毎週何をやっているのだろう。最近は、仕事に行ってもうまく気が乗らぬ。大きな意味で、疲弊しているのかもしれない。いや、疲弊しているのだ。深呼吸もできないくらいに。