ダラダラと流れるテレビの音声ほど人の心を蝕むものはない。そう。それは蝕むという表現が的確だ。休日の朝にそれが聞こえず、静かな中目覚めることができれば、それだけでその一日は上出来だ。静かなことはこの世で最上の喜びのひとつといっていい。しかもテレビは自分だけでなく周囲の人も巻き込むことになるからタチが悪い。もし同居人がいて、隣室であっても毎日ダラダラとテレビを流されたら、多分数日のうちに別居したくなるだろう。

 自分の神聖な場所は侵されてはいけない。それが耐えがたいのは、限定的な時間であっても、死を意味するからだろうと思う。渡辺美里だったと思うが、「死んでるみたいに生きたくない」というタイトルがあった。意味するところは少し違うと思うが、その文字は正しい。結婚が墓場だというのは、多分、部分的にではあっても、死ななければならない部分が多いからだろうと思う。もしそう感じておらず特に問題がないなら、あなたは、配偶者におおいに感謝しなければならない。そんな相手はめったに、いや、ほとんどまれにしかいないだろうからだ。

 

 山をひとつ越えると、ずっと雪が降っていました。氷点下ではありませんでしたが、どこに行っても温度計は1度から一歩も動こうとしませんでした。こっちはずっと雨でしたが、ずっとねずみ色の空で、冷たくて、ただ生きているだけでした。これなら、まだ雪が降ったほうが少しは何かあるのに、という気がしました。真冬の雨は最低です。かといって夏の雨がいいかというと、それも違うのですが。

 嫌いなことが二つあります。寒いことと、痛いことです。

 こう寒いと何もかもがイヤになります。外に出てもクルマから降りて少し歩く気も起きないようでは、面白くありません。少し山の方へ行くと、雪景色でした。こんなにも寒いと、ちょっと山を上ろうとすると凍結路面が現れるので、その辺をウロウロしているしかありません。今日は休んで、部屋の掃除とかをしました。週末は仕事が気になってうまく休めません。もう少し静かであればいいのですが、世の中、そんな大きな話ではなくても、周囲はいつもわさわさしています。もう結構前から気が付いていたのですが、一人で静かでないと快復できないのです。一人では生きていけませんが、誰かといると消耗することはあっても、プラスにはなりません。

 人間関係が、苦手です。

 

 できれば、思ったことをあれこれと書いてみようと思っています。

いずれにしても、僕たちは、誰かを傷つけて生きていかねばならない。誰も傷つけずに生きていくことはできない。私だけは誰も傷つけていないとおもってはいけない。その一言、一挙手一投足が、誰かを傷つけている可能性がある。あなたが存在するだけで誰かを踏みつけていることがある。たとえそれがいかな理不尽な理由だとしても。

 

それができない人は、残念ながらうまくは生きられないだろう。少なくとも、何かは、手にできない。いい人は、生きられない。鈍感であれ。馬鹿であれ。そうみんなに告げたい。

 

岡村孝子のファースト・アルバムの中に「冷たい雨」という歌がある。3月も下旬の雨は、文字どおり冷たい雨だった。春だ春だといいながら、実は3月なんてただうすら寒いだけだ。3月は嫌いではないが、春は好きじゃない。全然暖かくないからだ。へたをすると死ぬほど寒くなり、あらゆることを後悔する。

別に寒くとも季節ならしょうがないが、それを春だなんだということが好きではない。寒いなら寒いと言えばいいのに。嘘は、嫌いだ。

ついでに言うと4月も同じだ。暖かくは、ない。

 

普通ではなかった平成28年度が終わろうとしている。結局、最後の最後まで仕事だった。いつになったら壊れたメガネを買ったり、何をするともなくゆっくりできるのだろう。4月になったら、少しはまともな生活が送れるのだろうか。

最近気が付いたのだ。仕事があって困り続ける人は、仕事をしない人やできない人に働かされているのだ。できないといっていればいいのではない。できるからやっているわけではないのだ。難しくともやろうとしてしまう人が結局働かされるのだ。二つの間には天と地ほどの違いがあるが、社会的にはそう変わるわけではない。いい人は生き残れない。いい人であることは何のアドバンテージにもならず、ただリスクが増えるだけだ。テレビや新聞が美談が好きなのは、そういうものがこの世にめったにないからなのだ。もっとも、美談などというものにもうさん臭さを感じる。人は何故、そういうよくわからないものを祭り上げるのだろう。

 傷つく、というのは、無論自分以外の誰かの行為を原因とするものだが、直接その行為があなたを傷つけるわけではない。その行為を見たあなたの心が、自分の感情でもって自分で自分に刃を突き刺したのだ。

 人はその人のためにだけ動くようにプログラムされていて、あなたのために動くわけではない。その動きは、残念ながら、あなたがコントロールすることはできない。あなたが期待した行為とその人が行った行為が猛烈に乖離していたとき、あなたは地平線から落っこちるほど落胆し、それを、空虚な、やりきれない心の痛みとして受け取るのだ。

 

  結局のところ、その程度のことなのだ。悲しい事実があるわけではない。ただ単に事実があるだけなのだ。