「無題(ナンセンス)」
風 吹いてゐる
木 立ってゐる
ああ こんなよる 立ってゐるのね 木
風 吹いてゐる 木 立ってゐる 音がする
よふけの ひとりの 浴室の
せっけんの泡 かにみたいに吐き出す にがいあそび
ぬるいお湯
なめくぢ 匍ってゐる
浴室の ぬれたタイルを
ああ こんな夜 匍ってゐるのね なめくぢ
おまへに塩をかけてやる
するとおまへは ゐなくなるくせに そこにゐる
おそろしさとは
ゐることかしら
ゐないことかしら
また 春が来て また風が吹いてゐるのに
わたしはなめくぢの塩づけ わたしはゐない
どこにも ゐない
わたしはきっと せっけんの泡に埋れて 流れてしまったの
ああ こんなよる
吉原幸子詩集『幼年連祷』
「放火」
まだ ふるへることができるなんて
ほろびることが できるなんて
せっかく枯れてゐた 草はらに
無慈悲な指が放火する
枯草は 緑の草よりよく燃える
知ってゐた しげること わらふこと
知らなかった 燃えつきることなど
立ったまま 枯れたはうがいい
枯れたまま みてゐたはうがいい
燃えながら こんなに熱がらねばならないなんて
せっかく 枯れたのに
せっかく 夜がきたのに
吉原幸子詩集『夏の墓』
吉原 幸子(よしはら さちこ、1932年6月28日 - 2002年11月28日)は、日本の詩人。
東京・四谷生まれ。四人兄妹の末っ子。兄姉の影響で幼い頃から萩原朔太郎や北原白秋の詩に親しむ。都立第十高女(のちに豊島高校に改称)時代には演劇・映画に熱中(演劇部の同級生に女優の荻昱子、朗読家の幸田弘子、二年後輩に宝田明がいた)、また国語教師の詩人那珂太郎の奨めで校内文芸誌『果樹園』に詩作「考へ方」「星」ほか3篇を発表した。一浪の後、1952年(昭和27年)、東京大学文科二類に入学。在学中は演劇研究会に在籍し、サルトルやブレヒトなどの現代劇に出演。1956年(昭和31年)、東大仏文科卒業。初期の劇団四季に入団、「江間幸子(えま さちこ)」の芸名で第6回公演のアヌイ作『愛の條件 オルフェとユリディス』(音楽・武満徹)にて主役を務めるも同年秋に退団。1958年(昭和33年)、黒澤明の助監督であった松江陽一と結婚、一児をもうけるが1962年に離婚。同年、那珂太郎を通じて草野心平を紹介され、歴程同人となる。
1964年(昭和39年)5月、第一詩集『幼年連祷』を歴程社から350部自費出版。思潮社社主の目にとまり、第二詩集『夏の墓』を思潮社から出版。またこの年、吉行理恵、工藤直子、新藤凉子、山本道子、村松英子、山口洋子、渋沢道子ら同世代の女性詩人と8人でぐるーぷ・ゔぇが(VEGA)を起ち上げ、1968年の休刊まで詩誌を刊行。1965年(昭和40年)、『幼年連祷』で第4回室生犀星詩人賞を受賞。1974年(昭和49年)、『オンディーヌ』『昼顔』で第4回高見順賞受賞。この頃より諏訪優、白石かずこ、吉増剛造らと共に、詩の朗読とジャズのセッション、舞踊家山田奈々子との公演など、詩と他分野のコラボレーションを手がけるようになる。1983年(昭和58年)7月、新川和江と共に季刊詩誌『現代詩ラ・メール』(思潮社, 書肆水族館)を創刊。1993年の通巻40号を以て終刊するまで広く女性詩人や表現者の活動を支援した。輩出したラ・メール新人賞の受賞者には鈴木ユリイカ、小池昌代、岬多可子、高塚かず子、宮尾節子らがいる。
1990年頃から手の震えなど身体の変調を来し、1994年にパーキンソン症候群と診断される。1995年(平成7年)、新川和江によってまとめられた最後の詩集『発光』を出版。同年第3回萩原朔太郎賞を受賞。
2001年(平成13年)に自宅で転倒し、大腿骨頸部を骨折して入院。翌2002年11月28日、肺炎で死去。戒名は文藻院詠道幸雅大姉[1]。
生前に「私にはふたつ秘密があるの」と語っていた秘密のひとつはレズビアンであったというもので、公式にはカミングアウトされていない[要出典]が作品の中で示唆している。現代詩ラ・メールの編集にも携わった詩人の長嶋南子は、「吉原幸子からはフェロモンが立ちのぼっていたが、それを嗅ぎ取っていたのは全員女だった」と書いている。また、ナイフやモデルガンを蒐集していた。
2012年(平成23年)12月、没後10年を記念して1983年から1995年までの後期詩集を収録した『吉原幸子全詩 III』が思潮社より刊行。1981年刊行の『吉原幸子全詩 I, II』も新装復刊された。
(ウィキペディア)