こちらの日記の続きです
話は遡りますが
祖母は戦争が
激しくなった頃
女学生でした。
日本は苦しい状況で
勉強より生きることを優先
学校で授業をするわけではなく
校内の畑で
芋や南瓜を作っていたそう
修学旅行もなくなって
末期には
遠く街の木造アパート(寮)に
強制的に入れられて
工場のようなところで
飛行機の部品を
作る手伝いを
させられていたそうです
油ギトギトだったとか
そうしていたら
空襲に遭って
逃げて逃げて
アパートに戻ると
全て焼け野原に
なっていたとのこと。
戦争に翻弄され
祖母自身も
相当な恐怖体験をして
苦労をしました、、
また、祖母が
優しくて大好きだった
と言っていた
祖母のすぐ上の兄が
出征先で戦死して‥
戦争が
終わったとのこと
一度しかない人生
周囲に反対をされてでも
好きな人と幸せになろうと
祖母は20歳で結婚をした
‥のに‥
相手はろくでもない男で
経済的にも
ギリギリの生活を強いられ
またしても苦労
このままではダメだと
外で働いたこともないのに
いきなり
新聞販売店を営む
決意をするのでした
引き続き
曽祖父と後妻と
子供たち(父・叔母)の
食事の面倒や家事も
しなければなりません
それでも祖母は
基本的に
明るく前向きな性格で
あまり嘆くこともなく
毎日毎日働きました。
毎日午前2時に起きて
夜中に届く沢山の朝刊に
1枚1枚チラシを折り込み
配達員に配ってもらい
近隣エリアは自分の足で
配達していました。
運転免許は持っておらず
自転車にも乗れなかったので
徒歩配っていました。
配り終わった頃には
朝日は余裕で昇っており
そのまま寝ずに
朝食の準備をして
洗濯と掃除をして
午前10時頃から
小一時間だけ仮眠を取って
午後は新聞社の人と
打ち合わせをしたり
夕飯の下準備をして
夕刊の準備をして
夕刊を配り
集金があるときは集金に行って
本当にハード
大雨や雪の日は

もっともっと
大変そうだったのを
覚えています。
つづきます
