「女たちの21世紀 特集:フェミニズムとトランス排除」

まだ途中までしか読んでいないけれど、思ったことを一部分だけ書きます。

 

 

三橋順子さんの文章の中で、その通りだなあと考えさせられた問題。

 

「お茶の水大学のトランス女性受け入れ問題に端を発する今回の一連の出来事は、(中略)トランス女性の問題ではなく、フェミニストの問題である。この問題を黙過することは、差別行為に対して暗黙の支持を与える事と同然である」

 

差別は、差別される側の問題ではなく差別する側の問題。しかも今回の件はフェミニストを自称する人たちが率先して一方的に攻撃を始めたのだから猶更。

 

ただ、わたしがこの文章で考えさせられたのは自分の事です。自分がマジョリティーの属性における差別を黙過してきたこと。

 

例を挙げるね。「朝鮮高校の美術部の生徒がツイッターに寄せられていたヘイトコメントを書き写してアート作品として展示。生徒が展示の裏から観覧者と対話をする作品」のニュース写真を転載して「学校に寄せられたヘイトの手紙を展示したのに、筆跡も紙も同じで、自作自演が露見www」みたいなツイートを見て、わたしは嫌悪感を感じても「何もしなかった」。これは日本人の問題なのに。“イイね”が何千も付いてた。

 

トランス女性排除のツイートを当事者として見ているから、それがどれほど心を削る物か想像できる。それを一人で書き写して、対話まで試みたんだよ。

 

 

岡野美穂さんの文章から。

 

「差別と言うのは社会的な容認の中で発露を見出す。差別が差別としての体を保つためには、そうした認識を許す社会がある」

 

被差別当事者として納得できる部分と、自分に跳ね返ってくる部分。差別について考え語る事は、差別者としての自分にも向き合う事だと感じませんか。それでも「すべての差別に反対」とはっきりと言えることが大事なんだと思います。

 

 

もう一つ岡野さんの文章、LGBT当事者の性暴力の数値の引用から。

 

「(多くの当事者が)ストーカー(など)を体験している」

 

よく、性暴力の被害者が「自分は性暴力に会っていたと認識できないか、認識するのには時間がかかる」と言う話を聞きます。「そうだよね、理解できるよ…」と思っていました。

 

あれ? ストーカーって性暴力なんだ… わたしや身近な人の家に盗聴器仕掛けられて、男性との性行為について職場や実家にアウティングされて、仕事辞めたりしたけど、あれって普通は性暴力に入るんだ…

 

個人的にちょっと衝撃を受けた。まぁ、わたしの場合はやや違う側面もある気がする。と言うか、当時はすごく傷ついたし(特に周りの人に迷惑をかけてしまったことに)、生活も破壊されちゃったけど。そう気付かずに何十年も乗り切っちゃってラッキーだったかも。

 

 

そんな事を思った今日でした。