前回投稿のコメント欄にも少しだけ書きましたが、私の立ち位置をはっきりさせておこうと思います。以下はわたしの考えであり、それが正しい事としてみんなに押し付けるものではありません。

 

 

大前提として、イベントにどう言う入場ポリシーを採用するかは、「基本的に」運営者の自由だと思います。ただ、マイノリティを排除するようなポリシーは批判されるでしょう(例:就活パーティで男性のみなど)。それでも組織が公式にではなく、有志(と言う名目)でクローズドの会を設けるなどやりようはありますよね。

 

Gold Finger は日本のレズビアンシーンを圧倒的にリードする組織の一つです。そこでトランス排除のポリシーを明示することは"ビアンのイベントではトランス女性を排除して良い" とか "トランス女性は女性ではない'' と言ったメッセージを日本のレズビアン・シーンに、そしてそれ以上に一般の社会に送ることになります。

 

だから、GFの件は差別なのか差別じゃないかと言えば、トランス女性差別だと思います。

 

 

まあそのくらい良いじゃないか、と言って現状を是認するのは「被害者でい続けること」だし、それが「新しい被害者を生み続けた」ことへの後悔の念を報道・メディア界の女性達が表明したのは去年の事でした。そうやってしか男性社会でやって行けなかった世代が、被害を未来へ送ってしまったと言う悲痛な思いと共に、自らの立場を犠牲にして発表した女性キャスター達が示したものは、被害を受けている当事者が自ら声を上げることの・声を上げられなかった事の重要性を示していた、とわたしは思っています。

 

 

だからと言って、外野のわたしが一緒になって報道・メディア界の女性を批判するのは違うとも思っています。わたしは彼女たちには寄り添いたいと思う。

 

一人が全てとは戦えない。彼女たちは男性ばかりの世界で仕事をすること自体でも十分戦ったと思う。その上での表明の重さを、そして当事者が声を上げなければ結局は世の中は変えられない、それを後回しにしてしまったという過大とも言える後悔の表明の重さを受け止めたい、と思う。

 

 

だから、GFのポリシーが問題ないと思う人はそれで良いと思う。けれども、わたしは自分が信じる正しい事に反すると思ったら、出来る限り声を上げたい。自分のメンタル的に、立場的にそう出来ない時も多々ある(それが一番わたしが落ちる原因でもある)けれど。

 

 

それから、トランス女性の中でどういう人なら受け入れて良いのか、みたいな実践上の調整に関しては、「大原則として受け入れる」方向があって初めてやむを得ずに検討することだと思うんです。排除される側の人が話す「○○ならしょうがないと思うけれど」(例:診断書が無いなら、SRSを受けていないなら)と言う意見に簡単に甘えることは、トランスジェンダーを分断することだと思います。その意味でクイアを分断したGFを批判できなくなると思っています。

 

 

今までここで話したような意味では、SRSまで受けているのに(ある意味で)過剰に配慮して男性トイレを使っているわたし自身のいつまでも男性にしか見られない悔しさは、わたし自身がトランス女性差別の解消を未来に先送りしているんだなぁという自責の念とセットになっています。

 

ビアン・イベントでトランス女性がいると不安になる女性への配慮。お手洗いでトランス女性がいると不安になる女性への配慮。差別について考えることは、常にどこかで自分に返ってくると思う。でも、それこそが差別について考える意味だとわたしは思っています。