今月、兵庫県養父市明延にかつてあった明延鉱山に行って参りました。

明延は中国山地の東端、兵庫県但馬地方にあり、京都や大阪から特急電車とバスを乗り継ぎ3時間半余りかかる山間部にある地区です。



鉱山は約1270年前に開山し、主に銅を産出してきましたが、明治42年、錫の大鉱脈が発見され、一躍日本一の錫鉱山として発展しました。

坑道は550kmという東京~大阪間に匹敵する距離が掘られ、垂直距離も1000m掘り下げられているそうです。


全盛期の昭和30年代半ばには4000人もの人々がこの地で鉱山の仕事に携わっていたと記録されています。

その全盛期、昭和33年に島倉千代子さんが公演に訪れ大フィーバーとなり1日に4度もステージに立ったそうです。

当時の三菱明延鉱山新聞には島倉さんが、山奥でびっくり、立派な会館にびっくり、そして人の多さにびっくりと語っていました。



明延は山間部にある為、土地が狭く山の上にまで建物が立ち並んでいました。

昭和62年閉山の際に明延の人々の忘れられない思い出の1つに島倉千代子さんが来たということを挙げていた方が何人もいたそうで、島倉さんも閉山時にコメントが求められたそうです。

コンサートから33年後の平成3年7月7日に再び、島倉さんたっての希望で訪れた際の映像をご覧下さい。


それから更に18年後の平成21年12月19日。51年ぶりにコンサートを開催し、51年前も見に行かれた人達が温かく迎え入れ、島倉さんも温かい心で地元の方々と交流している様子を見ると本当に心が温まります。

このコンサートがきっかけで明延のある養父市観光大使に島倉さんが任命されました。


今回、明延を訪れて鉱山の探索や街の案内をガイドの方にして頂きましたが、観光地化はされていないので坑内も当時のままに残っており、街の中にも点々と当時の住居が残されていました。

しかし閉山から37年経過し過疎化高齢化が進み更地や空き家が目立ち、島倉千代子さんが訪れた頃より寂しくなっているように感じられました。

月に1度運行されている一円電車は残念ながら乗ることはできませんでしたが、一円電車や明延鉱山跡をきっかけにもっと明延が元気になってくれればと思います。


こちらが島倉さんが立派な会館と仰っていた協和会館(昭和32年完成)

現在の様子

一円電車は正式名称を明神電車と言い、明延と神子畑を結んでいました。明延で採掘された鉱石を4キロにも及ぶトンネルを通り5.75キロ離れた神子畑にある選鉱所まで運んでいたそうです。
乗客は運賃1円で運行していたことから一円電車という愛称で親しまれていました。


明延は採掘のみ



鉱山内部(当時は電灯もなくヘルメットの灯りのみ)

こちらの空間は鉱脈があり採掘した跡にできたもの

閉山末期にはトロッコではなくこのようなトラックが坑道内を行き来していたそうです。

30m毎に掘られていた坑道にはこちらのエレベーターを使い各坑道へ移動、鉱石も搬出していたそうです。因みにトラックはそのままでは運べないため一度分解し坑道内で組み立てたとのことでした。

現在は閉山から40年近く経ち、エレベーターもモーターを撤去されたため使用不可ですが、明延川より低い坑道は水没してしまっているそうです。

島倉千代子さんがこれほどまでに想いを寄せていた明延とはどのような場所なのか、平成3年、平成21年の映像を見ていつか行きたいと思っていましたが念願叶い訪ねることができ感慨無量でした。

島倉千代子さんが最初に訪れた昭和33年はまさに明延の全盛期、島倉さん自身も全盛期で、本当に山の中とは思えないほど人々で溢れ4回も公演したほどで、全国津々浦々公演をした島倉さんの中でも特に印象に残っていたのだと思います。
そして閉山と共に人々が明延から離れ、地元の方がつらい思いをしているのではとコンサートから33年後に訪ね、更に高齢化で街が寂しくなった時に51年ぶりにコンサートを開くという。
どんなに人が減って街に活気が無くなってしまっても山奥の地まで足を運び、聴いてくださる方がいる限り歌うという島倉さんの精神は、まさしく一人一人の心に寄り添った歌手の姿なのだと改めて思いました。